聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第71回
「狭き門とは何のことか」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編 107編 1〜3節
新約聖書 ルカによる福音書 13章 22〜30節
22節
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた。」
主イエスのユダヤやガリラヤの町々村々を行き巡って、神の国の福音を宣べ伝えられる宣教活動は、広く、ユダヤ、ガリラヤ地方の隅々にまで行き渡るものでしたが、同時に、その伝道旅行には最終目的地がありました。都エルサレムです。主イエスが町々、村々を巡り歩いて、どこにゆかれようとも、最後はエルサレムに行かねばならないことが、主イエスの心から離れることがなかったということです。ちょうど大きく円を描いても、最後はそれが一点に収斂して行くように、主イエスの旅は最終的に都エルサレムに向かう旅でした。ルカによる福音書には、主イエスがエルサレムを目指して進んでゆかれたという表現が9章51節に始まって5回ほど繰り返されています。
主イエスがエルサレムに近づくにつれて、主イエスの周りの人々の間に、いよいよ神の国が実現する期待感、救いの時が訪れることへの希望が高まって行ったと思われます。主イエスがエルサレムに入城された時、主イエスを歓迎した人々の間でそれが最高潮に達した様子が19章37節以下に描かれています。
しかし、人々の間にあったそのような高揚感と正反対のことが主イエスご自身の口から語られていました。主イエスは繰り返し、ご自分がエルサレムに行く時、ご自身がユダヤ人の指導者たちの手で殺されると告げておられました。主イエスにとってエルサレムに一歩近づくことは、十字架の死に向かって一歩前進することを意味していました。
人々が抱く希望はあまりに楽観的で、人間的な甘い期待に過ぎなかったのです。エルサレムで主イエスを待っていたのは十字架の死でした。
エルサレムが近づくにつれて、先頭に立ってゆかれる主イエスの周りにただならない緊迫感が漂い始めているのを、主イエスの後に従っていた者たちは感じたのでしょう。一人のものが主イエスに尋ねます。
23節
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」
24節
「イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ』」
「狭き門」というアンドレ・ジイドの小説がありますが、聖書に出てくるこの「狭い戸口」とか「狭い門」という言葉は、私たちの間でも「医学部に合格するのは狭き門」だなどと言った仕方で使われることがあります。でも改めて聖書の元々の意味は何かを考えてみると、ある注解者は「戸口や門が狭いというのは、無理やり、強硬突破を試みれば入れるというものではなく、招き入れられる者だけが入れるという意味である」と言います。
この「狭さ」は空間的な意味と同時に、時間的な意味もあると思います。例えばコンビニは24時間、いつでも開いています。いつ行ってもドアが閉まることはありません。その意味でコンビニの戸は広いのです。しかし、救いに入る戸口は狭いというのは、24時間、自分の都合でいつ行っても開かれているというのではなく、閉じられてしまうことがあるということです。
あとでもう一度申しますが、25節で、戸が閉められてしまってから、開けてくださいと頼む人に向かって、主人は「お前たちがどこの者か知らない」という場面がります。これは読みようによっては、たとえ戸が閉じられていようとも、主人がその者が確かに家の者だと認めてくれたら、閉じた戸を開いて入れてくれるということと読むことが許されます。
そうすると、結局、戸口の狭さとは「招き入れられる人しか入れてもらえない」という意味だいう解釈の意味深長さがわかる気がします。
25節
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」
わたしたちが読んでいる聖書の訳では訳出されていない言葉が原文にはあります。それは家の主人が戸を閉めてしまった後になって、あなたがたが戸を叩き「始める」という、始めるという言葉です。この言葉が26節にも繰り返されていて、そこでは原文の「言い始める」というのが「言い出すだろう」と訳されています。
つまり、ここで言われているイメージは、主人が戸を閉めてしまったのを見て、慌てて、それまでしていなかったことを、し始めるというニュアンスです。それまでは、悠然と構えて戸を叩くことなどしていなかった人が、その時になって初めて戸を叩き始めるということです。しかし、それではもう遅いという意味が込められています。
しかし、何と、ここで「立ち上がって、戸を閉める」家の主人というのは主イエスです。主イエスは「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」と言われたのではないでしょうか。その主イエスが門を閉ざされるとはどう言うことでしょう。主イエスはなぜ、戸を閉ざされるのでしょうか。
26、27節
「そのとき、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場でお教えを受けたのです。』と言いだすだろう。しかし、主人は『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。』と言うだろう。」
ここでも、主人に戸を閉められて、まさかそんなことになるとは思わなかった人たちが慌てて、自分たちがこれまで主人の家に招かれて食卓に連なることを許され、また教えを受けることも許されていたのに、今になってどうして、主人の家から締め出されなければならないのかと言って抗議します。しかし、先ほども指摘しましたように、ここでも、自分たちが主の食卓に招かれて、飲み食いし、主から教えを受けていると言うことを口に出して言ったのは、外に締め出された、この期に及んで初めだったということがここで強調されているのです。それまでは、主人の家で飲み食いし、教えを聞かされていたのを当たり前のこと、何ら特別なこととも思わず、それに対する感謝の言葉を口にすることも、感謝の思いも抱くことなしに過ごしていた者が、それを失って初めてそれに気づくと言う意味合いが込められているのだと思います。
先には「お前たちがどこの者か知らない」と言われていましたが、今回は「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われています。どうして、不義を行う者と糾弾されなくてはならないのでしょうか。
「救われる者は少ないのでしょうか」。
主イエスの後に従う弟子たちは、果たして神の国の救いに入る人の範囲はどこまで広がっているのだろかという思いがあったでしょう。ただ、そのとき自分がその救われるものの中に当然入っている、それから漏れているとは考えなかったのではないかと思います。自分には救われる資格がある、自分は救われるための条件を満たしているという思いをなにがしかの形で抱いていたのではないかと思うのです。
しかし、ルカによる福音書は、主イエスはそのような自分は間違いなく救いに入れる人間だと考える考え方を強い言葉で退けられる方であるのを伝えています。
例えばルカによる福音書18章の「ファリサイ派と徴税人」の例えに出てくるファリサイ派の人です。あるいは、ぶどう園の労働者の喩えに出てくる朝から働いた労働者たちです。
そのような、自分は救われる資格があると主張する人々に対する主人の言葉は「あなたがどこの者か知らない」です。これが主イエスの言葉です。
どこの者、どこから来た者、どこに信仰の根拠を持ち、どこに救いの確かさを持っているのか。自分か、自分以外か。自分に根拠を持つ者に対して、主イエスはキッパリとわたしはあなたを知らないと言われるでしょう。
自分にではなく、主人のうちに、ブドウの枝として、自分がつながっているブドウの木である主イエスにのみ救いの根拠を持つ者かどうか、それを主が問われるのだと思います。
主イエスは神の国の門を開かれますが、また閉ざされるお方です。自分は救われて当然と思い上がり、胡坐をかいたような信仰生活を送り、神に対しても、自分の救いについても真剣な畏れも、心からの感謝もないまま信仰生活を続けるなら、わたしたちは神様の目に「不義を行う者たち」として映るでしょう。
今と言う時、今日と言う日に、真剣に神の国の戸を叩き、み言葉を聞くことを喜び、主の食卓に連なることを感謝しないなら、神の国の門は閉じられてしまうのです。
28、29、30節
「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや全ての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から、西から、また南から北から来て、神の国の宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
主イエスは神の国に入る門は狭いと言われました。その狭さを物語っているのが、主イエスの最後のことば「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」と言う言葉ではないかと思います。それを最後にお話ししたいと思います。
主イエスに従う弟子の中で、一番先の者と自他共に認めていたのはシモン・ペトロという人でした。この人が、主イエスが十字架につけられる前夜、主イエスが弟子たちは全員、主イエスにつまずくであろうと言われた時、主イエスに対して、たとえ他の人がみな主イエスに躓いても、自分だけは最後まで、十字架の死に至るまで主イエスに従うと言いながら、無残にも、主イエスを知らないと三度も言い、最後は神に誓うことまで主イエスを知らないと言う、赦されることのできない罪を犯したのでした。そういう彼は、だれよりも後の人、神の国に入ることのできない人、入れるとしたら一番、最後の人でした。しかし、そのペトロを主イエスは許し、愛し、彼の信仰を守り、立ち直らせて下さって、彼を救いに入れてくださったのでした。主イエスを迫害したパウロにしても同じことが言えます。パウロは、ユダヤ人の中の生粋ユダヤ人であることを誇りとしていた人で、律法を忠実に守り、一点の落ち度もないほどに戒律を守る、自分の義を誇りとする人でした。その意味では神の国に一番近いはずの人でしたが、彼自身、そのような自分のことを、教会を迫害した罪人のかしらであると告白しました。パウロは言います。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」
門を叩きなさい。そうすれば開かれる。
わたしたちは門を叩き続けたいと思います。
「求めなさい。そうすれば与えられる。あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。卵を欲しがるのに、サソリを当たる父親がいるだろうか。あなた方は、悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
今日という日に、聖霊を求めましょう。父なる神さまがくださる聖霊の賜物を感謝して受けましょう。
神の国を求めなさい。小さな群れよ、恐るな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
毎日、毎日、朝が来るごとに、新たに神の国を求めましょう。そして、心からの喜びと感謝のうちに歩みましょう。
父と子と聖霊の御名によって