聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第70回
「主イエスは神の国を何にたとえたか」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エゼキエル書 31章 1〜12節
新約聖書 ルカによる福音書 13章 18〜20節
主イエスは神の国を何にたとえたか
新約聖書の最初の3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカの福音書には主イエスが語られた多くの喩えが書かれています、その多くは神の国の喩え、天国の喩えと呼ばれています。そして、そのほとんどは同じ語り出しで、すなわち「天国は次のように喩えられる」という風に語り出されます。しかし、今日、これから読む二つの喩えの書き出しは少し違っています。日本語の聖書でははっきりしませんが、原語では、明確に主イエスご自身が、「わたしは神の国を何に喩えようか」と言われています。「からし種」と「パン種」の二つの喩えは、他の人は神の国ついて色々と喩えるかもしれないが、このわたしが神の国を喩えるときには、あえてこのような、からし種とかパン種といった物を用いて、それを引き合いに出して、神の国をたとえるという主の思いがここに込められているのを読み取ることができるように思います。
二つのたとえを主イエスが語られる理由
「からし種」のたとえと「パン種」のたとえに入る前に、18節の初めに「そこで、イエスは言われた。」と書かれているのに注意したいと思います。
「そこで」イエスは言われたと言うのは、主イエスがこの二つの喩えを語られたのは、その直前にあった出来事を受けて、「そこで」、神の国についてのたとえを語られたということです。
直前の「腰が曲がった婦人が癒された」安息日の出来事と、神の国のたとえの関係
主イエスが二つのたとえを語られる前に何があったのか。18年間も腰が曲がったまま、どうしても伸ばせなかった女の人が安息日に癒されるという出来事がありました。主イエスが女の人を呼び寄せ、「あなたの病気は治った」と言って、女の人の上に手をおかれると、女の人はたちどころに腰がまっすぐになり、これまでうつむいて、うなだれていた女の人はまっすぐに神様を見上げて、神さまを賛美しました。それを見た会堂司は人を癒すことは安息日にしてはならない労働行為に含まれると言って腹を立てますが、群衆はこぞって主イエスのなさった数々の行為を見て、その素晴らしさを喜んだことが書かれています。
サタンが女の人を縛りつけていた縄目を主イエスがとき、女の人が18年もの長い間苦しんでいた病気という鎖を打ち砕いて、主イエスが女の人を自由にされたこと、それを見て群衆が神を賛美したこと、これが、二つのたとえにおいて、それぞれ、小さな「からし種」、「パン種」と、からし種から大きく成長したからしの木や、パン種が混じって大きく膨らんだパンに対応しています。すなわち、女の人の癒しがからし種またパン種に相当し、女の人の癒しを見て群衆が神さまを賛美したことが、からし種が成長して、枝に空の鳥が巣をつくるほど大きくなったからしの木や、少量のパン種を混ぜた結果、大きく膨れたパンに当たるのだと思います。
神の国は何に似ているか、何に例えようか
以上のことを踏まえながら、たとえそのものに入ってゆきます。
主イエスは最初のたとえでは、神の国は人がからし種を庭にまくのに似ていると言われます。からしの種は野菜の種の中でも、最も小さいと言われるくらい小さいものです。日本語でも「芥子粒のようだ」といえば、目にも止まらないほど小さいと言う意味ですし、芥子粒は風に吹き飛ばされたなら、消えて無くなってしまうようなものです。
しかし、その小さなからしの種から育って成長してできるからしの木は、他のどんな野菜よりもおおきく、人の背丈ほどになり、最大で2メートル50センチにまでなると言います。その枝は空の鳥が巣を作れるほど丈夫になるのです。
もう一つのたとえでは、神の国はパン種にたとえられています。このパン種というのは、イースト菌、酵母のことではないそうです。パン種というのは、すでに発酵したパンの塊で、それが種となって、パン粉の塊、全体を発酵させるのです。3サトンの粉とありますが、3サトンは40リットルの量で、100〜160人分をまかなえるほどの分量だそうです。大きな祭の祝いの食事のために用意するパンのことだと言われています。
いずれのたとえでも、からし種や、パン種の小ささと、それと比べて驚くほどに大きくなる最終的な大きさが対比されています。からし種が成長してからしの木になり、小さなパン種の塊が大勢の人を養うパンになる、その変化の様子が、神の国に似ていると言われるのです。
神の国も小さく始まって最後には驚くほど大きくなる
安息日に癒された女の人、その人が神さまを賛美した賛美そのものは小さいものでした。それでもそれは群衆の賛美を呼び起こす、からし種になりました。また小麦粉の塊全体を膨らませるパン種となったのです。
この女の人は18年もの長い間、ずっと上を向くことができないまま、うつむき、うなだれていたのでした。先週、わたしは志免教会の問安に参りました。そこで、志免教会の兄弟姉妹と共に、志免教会の18年前のことを思い出していました。今日に至るまで、志免教会は長く無牧師の状態が続きました。その苦しかった時期、志免教会の兄弟姉妹はなかなか顔を上げられない日々もあったことを思い返しました。しかし、いま、今日という日に、志免教会の兄弟姉妹は、韓国から牧師を迎えると言う、思いもかけなかった恵みをいただいて、神さまをまっすぐに見上げ、賛美することが許されている、そのことを思うとき、志免教会の兄弟姉妹の喜びと賛美は、小さなからし種なのです。志免教会という小さな群れの賛美と喜びは、大きなパン粉の塊全体を膨らませるパン種となりうるのです。
神の国とこの世の国の違い
大きくなって枝に空の鳥が巣をつくる木は先ほど旧約聖書の朗読で読まれたエゼキエル書31章ではエジプト王国を表す表現として用いられています。そこで、空の鳥が枝に巣を作る大木とはレバノン杉、レバノンの香柏のことです。その姿は実に美しく堂々とそびえ立つような木です。ですから同じように枝に小鳥が巣をつくると言われていても、主イエスのたとえではレバノン杉でなく、野菜のからしの木が用いられているのは興味ふかい点です。これは主イエスが意図的になさっていることだと考えられます。ちょうど、主イエスが王としてエルサレムに入城されたとき、この世の王がまたがる軍馬にではなく、子ロバに乗って入城されたのに似ています。
ここにはこの世の王国と神の王国の違いが込めていると思います。おおよそこの世の王国はエジプトであれ、バビロンであれ永遠ではありません。どんなに栄華と繁栄を誇っても、地上の王国、帝国は必ず滅び去ります。バビロン、エジプト、ローマの帝国は今日過ぎ去り、後に残るは廃墟のみです。今、勢力を誇っている国々もやがては過ぎ去る日を迎えるでしょう。
この世の王国は過ぎて行くとしても、神の国は過ぎゆきません。主イエスは「天地は過ぎ去るだろう。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることはない」と言われました。
ここで覚えておきたいこと、この世の国々が滅び去っても、神の国が過ぎゆかないというのは、終わりの日に現される神の国の栄光が永遠で、不滅であるということだけではないということです。
神の国が過ぎゆかないというのは、終わりの日に神の国の栄光が過ぎゆかない仕方で表されるということだけではなくて、今、すでに、ここにおいて過ぎゆかない形で、神の国が私たち共にあると言うことなのです。
神の国が過ぎゆかないと言うのは、主イエスの言葉が過ぎゆかないということなのです。そして、その過ぎゆかない主イエスの言葉は、今日、わたしたちに語りかけられ、わたしたちが聞いている言葉、わたしたちが聞いて信じている言葉のことなのです。それがいつまでも変わることがなく、残り続けると言うことです。
主イエスは公生涯のはじめに、ガリラヤで「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。主イエスが告げられた「神の国」は、主イエスが語られた「福音」によって始まったのでした。主イエスが語られた「神の言葉」、それを人々が聞いて信じる「信仰」これが神の国の始まりの姿でした。それは2千年たった今、全世界に広がる大きな木になったと言える面もあります。しかし、それから2千年がたった今も、神の国はわたしたちの間では、依然として主イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始めた時と同じように、小さいからし種のようでもあるのだと思います。
みなさん、わたしたちが小さな群れであり、人数も少なくて、経済的にも豊かではないこと、そのような状態から、大きな教会、経済的にも豊かな教会になること、それが神の国をあらわすのでしょうか。裏返せば、そうならない間は、神の国はわたしたちと共にないのでしょうか。
いいえ、そうではないのです。わたしたちが人数的に小さな群れであり、様々な点で、人々にそれこそ芥子粒のように見られても、神の国はわたしたちと共にあるのです。なぜなら、主イエスはご自身が、そのようなからし種のような方であられたし、それによって、わたしたちの小ささを恥とはなさらず、ご自身をわたしたちと一つに結びつけようとされたのです。
「わたしは神の国を何にたとえようか」、そう言われた主イエスが、神の国を小さなからし種に喩えられる理由がここにあります。
この神の言葉であられる主イエス、十字架の福音、この世の人々には愚かとされる福音、私たち小さなもののために、ご自身を限りなく小さくされた主イエスこそ、私たちの誇りであり、喜びなのです。この喜びと信仰こそ、神の国の始まり、小さなからし種、パン種なのです。
今、私たちは神の国の祝宴の前触れであり、先取りである主の食卓に連なります。小さくなられた主イエス、神の国のパン種である主イエスの恵みに預からせていただきます。その恵みを信じる信仰を持ってそれに預かる私たちは、小さなパン種です。私たちは小さなパン種として、神の国の栄光につながる群としていただいているのです。
父と子と聖霊の御名によって