聖日礼拝 「キリストにある平和」
説教   谷村 禎一長老
旧約聖書 イザヤ書2章4節
新約聖書 マタイによる福音書 5章38〜48節

「キリストにある平和」

新約聖書には平和という言葉を多く見つけることができます。聖書の中の平和は、神の平和、キリストにある平和であり、キリスト教の中心的なテーマです。今日は、主イエス・キリストが平和について、戦争について何を語られたのかを、聖書のみ言葉に聞きたいと思います。そのことが今重要だと思うのは、日本では台湾有事が叫ばれ、沖縄の島々に自衛隊の基地ができ迎撃ミサイルが設置され、戦時に島の住民をどのように避難させるかが計画され、シェルターが建設されるという、戦争に備えている日本に私たちが生きているからです。日本は、憲法で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれた9条を掲げる国です。

「平和を望むなら戦争の準備をしなさい」というのは、ローマ帝国以来の考えです。それに対して、ある神学者は「戦争を欲しないなら平和の準備をせよ」と述べました。日本は9条を掲げながら、これまで平和の準備をしてきたでしょうか。「核兵器がない世界」を実現するために何もしてきませんでした。

わたしたち大人は数字を示されることで、ことの重大さを認識します。最近の戦争で亡くなった方の数をあげてみます。太平洋戦争で230万人の日本人の兵士が死亡していますが、その半数近くは餓死、病死、自害でした。軍人以外の日本の民間人の戦死者は80万人、その中には広島、長崎の原爆によって亡くなった方が含まれています。中国、東南アジアなどで日本軍によって殺害された民衆は1800万人と推定されています。一方、ナチスによって殺害されたユダヤ人は600万人と言われています。なぜ、日本は、そして世界の人間は、このような悲惨な戦争を今も続けているのでしょうか。一人を殺しても裁判となりますが、戦争では、多くの敵を殺すことが奨励され、罪に問われないのはなぜでしょうか。

3つのことについてお話ししたいと思います
まず、イエスキリストの生涯を振り返りましょう。次にキリスト教が正しい戦争があるとして、これまで犯してきた過ちの歴史について考えます。そして、敵を愛しなさいと言われたイエスの言葉が私たちに問うている平和への備えの決意を、み言葉に聴きます。

主イエスはその宣教の生涯、神の国について、敵を愛することを述べ伝え、行動を持って示されました。それはどのような時代であったでしょうか。ユダヤ人はローマ帝国の支配を受けており、開放を熱望していました。イエスはイスラエル解放のメシアではないかと弟子たちも民衆も期待していました。ローマの支配を倒せばメシアの国が神の力によって実現すると考えられていたからです。

イエスが福音を述べ始める前に、悪魔は、もし私を拝むならこれらの国々を与えようとイエスを誘惑しましたが、イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主につかえよ」と国の王となることを拒絶されました。

熱心党の人々はローマへの納税を拒否すべきと考えていました。しかし、イエスはカエザルのものはカイザルに神のものは神に返しなさいと。納税の拒否運動をよしとされませんでした。

ヤコブとヨハネはイエスに「栄光をお受けになるときに、あなたの右に、もう一人を左に座らせてください」といいました。イエスは、あなた方は自分が何を願っているかわかっていない。人の子は人に仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのだ」と言われました。弟子たちにはその意味がわかりませんでした。

過越の祭りのエルサレム入城の際、イエスはロバに乗っていかれました。ロバは平和の象徴です。
ゲッセマネの園で、イエスを捕らえようとローマ兵が来た時、イエスは「剣を取るものは剣によって滅びると」暴力を拒否されました。
そして、イエスが十字架への道を進まれた時に、弟子たちは、イエスが自分たちが期待していたメシアではないと逃げ去ったのです。

このように、イエスは宣教の初めから十字架にいたるまで非暴力の歩みをされ、敵を愛しなさいと宣教され行動されたのです。

3世紀頃までは、初代教会のキリスト者たちはイエスの教えに従いローマ帝国における兵役を拒みました。しかし、キリスト教がローマ帝国の国教となってから、キリスト教はイエスの教えから離れて行きました。正しい戦争、聖なる聖戦があるという考えが主流になって行きます。4~5世紀に活躍した教父アウグスティヌスは「正しい戦争」の要件として「正当な権威」「正当な理由」「正しい意図」の三つの要件が、あればその戦争は正しいと述べています。

1646年に制定され、改革派が重んじてきたウエストミンスター信仰告白23.2は次のように書かれています。「新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる」
確かにこれは戦争を奨励、賛美するものではありませんが、戦争を行えば人が殺されるという事実は動きません。合法的な戦争はないと改めるべきだと考えます。イエスは人に対して暴力をふるってよいと述べられたことはありません。宮清めの場面で、イエスが暴力を振われたという人がいますが、あの行動は示唆的な行動であり人間に対する暴力ではありません。

カルヴァンの考えにおいても聖戦論がありました。その当時、カトリックとプロテスタントが互い殺戮を繰り返し、再洗礼派の人々が、カトリックとプロテスタントの人によって殺戮されました。再洗礼派の流れを汲むメノナイトは絶対平和主義を掲げ、良心的兵役拒否を貫いたことに、イエスの福音が初代教会から引き継がれていることを見ることができます。

戦争はいつも民族の間に起こります。そして、民族の間にある偏見がそれを助長します。太平洋戦争では、大和民族という旗印が、ナチスドイツはアーリア人が優れており、ユダヤ人は劣等民族であるとしました。

イエスは、サマリヤの女とスカルの井戸端で出会い「いのちの水」について説き明かされました。また「良きサマリヤ人」の話からもイエスは民族によって分け隔てをされいませんでした。パウロが述べたように「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人も男も女もない。キリストイエスにあってひとつである」のです。

民族とは何でしょうか。人種、民族という概念は曖昧で政治的なものです。言語が違い、文化などさまざまな違いが人間の集団間にはあります。最近の研究の結果から考えられているのは、人類の祖先は1系統であり、アフリカを出て地球上に広がってきたと考えられています。例えば、私たちの祖先は黒い肌でした。ヨーロッパに移動した人類は、メラニン色素をもたない肌の白い人が生存に有利になりました。なぜなら、北に行くほど太陽光、紫外線が弱くなったために体内のビタミンDを活性化しにくくなり、白い肌が進化的に有利だったからです。人間は、目で見て違うものを異質なもの、劣っていると見る傾向があります。しかし、ホモサピエンスは99.9%遺伝的に同じです。

1945年8月6日、原爆を搭載した「エノラ・ゲイ」が日本本土に向かう時、従軍牧師が兵士たちの祈ったのは次の祈りでした。「戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度、地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜、飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように」。

その当時、日本の教会ではどのような礼拝が捧げられていたのでしょうか。天皇の名による戦争を「聖戦」と呼び、日本の植民地政策に教会は協力していました。礼拝前に天皇がいる皇居に向かって宮城遥拝をする「国民儀礼」、戦闘機献金を捧げていました。教団議長は韓国へ行って神社参拝は問題がないと告げました。宮城遥拝は、戦争が終わってからもしばらく続けられ、反省も決議もなく元に戻りました。

福岡城南教会における国民儀礼の実施は1945年10月14日まで続いており、戦時中に国民儀礼を行っていたことを悔い改めて取り消したのは、2017年の定期総会においてでした。九州中会は2020年になって「戦争罪責の悔い改めの宣言」を表明しました。

このように、大多数の主流のキリスト教会は、長い歴史においてイエスの教えを忘れ戦争に加担してきた歴史があることを忘れることはできません。

世界の教会会議が戦争に対して否定的な評価を下したのは1948年に世界教会協議会の最初の世界大会が開催されたときです。

さて、山上の説教に戻ります
イエスは「律法ではこのように言われていた。しかし私はいう」とここで言われます。イエスが来たのは律法を廃するためではないのです。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われます。
「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」という窮屈な生き方でなく、イエスの教えは自由です。「してはいけない」という律法ではなく『愛する』ことを人々に教えました。

しかし、山上の垂訓で語られたひとつひとつのことは、とても私たちが実行できるものではない。これはきれいごとではないか、現実は甘くない、現実的に政治の分野では実行不可能と思うかもしれません。実際、これは修道僧、日曜日だけの倫理で、社会、世界では通用しないなどと言い訳をされてきました。しかし、イエスはローマの時代に日々の生活に生きる人々に述べられたのです。

相手の頬を平手打ちにするには、通常、手のひらを用います。すると右利きの人は、相手の左の頬を打つことになります。しかし、ここで書かれている右の頬を打たれるとは、相手が手の甲で打ったことになります。手のひらと、手の甲は当時、違う意味がありました。手の甲で打つのは相手に対してより侮辱的な意味をあったのです。ところが、左の頬を差し出すと、相手はひるみます。なぜなら、すでに手のひらで打つ必要はなく、もし、もしそうすれば手の平が汚れると当時の人は思ったからです。

次は裁判の場面です。借りが返せないで裁判に掛けられた人は貧しかったのです。借金を返すには下着しかないという状況です。上着は寝る時に使うので、差し押さえられても日が暮れる前に返しなさいという法律がありました。では、なぜイエスは上着まで与えなさいと言ったのでしょうか。上着も与えると裸になりますが、そのころ人前で肌を晒すことは不名誉なことでした。つまり上着を与えることは、無言の抵抗の行動だと考えられます。

ローマ兵はユダヤ人に1ミリオン1.6キロ、荷物を運ばせることができました。納税に反対する人々はこの法律にも反対していました。だが、イエスはさらに1.6キロ先まで運べと言われました。もしさらに運んだらどうなるでしょうか。実は1ミリオン以上行かせることは法律違反になります。したがって、さらに運ぶと言えば、兵士は当惑するでしょう。

このような解釈に従うなら、あるいは従わなくても、この3つの例は、相手の言いなりになりなさいという弱者になる勧めではなく、相手を困惑させて、相手が自分の行為を省みる機会を狙っているのではないかと推測されます。パウロが勧めたように「善を持って悪に勝ちなさい」という非暴力行動をするようにイエスは述べているのです。

非暴力は無抵抗ではありません。よく言われるのですが、刃物をもって殺される場面でも何もせずに殺されるのが非暴力ではありません。非暴力はさまざまな直接行動による抵抗運動です。これはこれまでの歴史で勝利してきました。ガンジーは非暴力運動によって、大英帝国に勝ちました。キング牧師の市民権運動は米国の歴史を変えました。ポーランドでもフィリピンでも、バルト3国でも勝利しています。イエスの教えは、悪に対して非暴力の手段で抵抗することを教えています。

では、ナチスのような全体主義に対しても非暴力、愛敵の思想は成り立ち得るのでしょうか。ノルウェーは短期間に占領されましたが、学校の教師と教会がナチのイデオロギーの注入を阻止しました。さらに、住んでいたユダヤ人の半数を救うことができました。デンマークも国王、市民が非協力を貫き93%のユダヤ人をスウェーデンに脱出させました。両国共に武力による抵抗をしませんでした。

フランスのル・シャンボンでは教会員がユダヤ人の救援を行いました。また、ドイツでもユダヤ人を匿ったグループがあったことがわかっています。デンマークやノルウェーがナチの侵略に対応できたのは、国民と教会が平和の備えができていたからでしょう。ル・シャンボンの教会では、日毎の説教によって、隣人を愛することが養われていたのです。

ドイツの神学者、牧師のボンヘッファーは、真摯にイエスに従った人でした。彼は敵を愛しなさいと教えに従いながら、ヒトラーを暗殺するクーデターを計画に加わり、計画が発覚して捕らえられ、敗戦のわずか一月前に処刑されました。ボンヘッファーが暗殺を企てたといってそれを前例にすることはできません。彼は究極の決断をもってその道を政治的に信仰的に選び取ったのです。この決断について直接的に語った文章がありませんが、彼は神の戒めについて書いた文章を読みます。

「神の戒めは、わたしたちがなすべきことを教えるが、また許可を与えてくれる。ただ禁ずるのではなく、真に生きることへと解放し、あれこれ思索するのではなく、行動するように開放する。神の戒めは、踏み誤った生の歩みを押しとどめるだけでなく、その歩みに同伴し、その歩みを導いてくれるのである」

私たちも、神の戒めを真に生きるための許しとして、行動への促しとして受け止め、平和を求める歩みを続けたいと思います。

もし、復活という出来事がなければ、イエスの死は、革命に失敗して殺された人がいたという小さな歴史的事実にとどまっていたことでしょう。しかし、復活の知らせによって私たちに平和の実現に希望を抱くことができるようになったのです。十字架は敵意という壁を取払ったのです。それによって、平和への道を希望を抱いて歩むことができるのです。

イエスの言葉はわたしたちの心の内面に問いかけ、人間の罪をあらわにします。私たちの決意が挫折することがあったとしても、イエスに従いたいと思います。弱い私たちにそれができるのは、私たちが十字架と復活によって与えられている恵と励ましによって、キリストの証人として歩むことができるからです。

最後にエフェソの信徒への手紙 2章14〜17節を、読んで終わりたいと思います。354ページ。

祈り
主なる神様
朝に夕に、神様が私たちの傍にいて守っていてくださることを覚え、感謝します。
敵を愛しなさいという、主イエスのみ言葉に学ぶことができました。世界には戦いが絶えることがありません。国と国の間には敵意が満ちています。にもかかわらず、どうか私たちが、過去の罪を覚えて悔い改めつつ、平和を求めて希望を抱いて、祈り、行動することができますように助けてください。
主イエスのみ名によって祈ります。