聖日礼拝 「復讐してはならない」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 創世記9章5〜7節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章17〜21節

「復讐してはならない」
ローマの信徒への手紙12章17〜21節

「汝、殺す勿れ」 あなたは罪のない人の血を流してはならない。
これは主なる神からすべての人間に与えられている重い、この上なく重い戒めです。その重い戒めが破られ、おびただしい数の人命が奪われるのが戦争です。
1945年8月15日。 長く続いた戦争が終わりました。ある学者は日本が戦ったこの戦争は1931年の満州事変に始まったのであり、この戦争は15年間続いたと言います。日本の植民地支配を受けたアジアの国々にとって、とりわけ隣の韓国にとっては1910年以来、35年間も続いた植民地支配から解放され、自由を回復する光復節を迎えた日でした。
しかし、それから78年経った今日、一方で日に日に過去の戦争の記憶は薄れてゆくのに対して、他方、ウクライナではロシアによる軍事侵攻が止むことなく続いています。また、すぐそばの台湾を巡っては、いつ戦争が勃発するかもしれないという恐れと不安を多くの人々が抱いています。

戦争経験者たちが口を揃えて、どんなことがあっても戦争だけは二度としてはいけないと力説しているのに、なぜ戦争は世界からなくならないのでしょうか。

「殺してはならない」と十戒で小さい時から教えられているはずのキリスト教国と言われる国の大統領が、報復のための戦争を起こすのはなぜなのでしょうか。

そのことをずっと考える中でわたしはハッと気づかされたことがありました。
それは、先ほど読まれた創世記9章に「人の血が流された場合、わたしは賠償を要求する」とありましたが、人を殺してはならないと命じられる神は、同時にまた、人の血が流された場合には、その血を流した者に対して、その人の命を賠償として要求される神でもあられるということなのです。
人の血が流されたら、被害者の血が流されることで終わらない、それに続いて加害者の血が流されなければならないと言われていることに気づかされたのです。人を殺してはならないという命令には、人を殺したものを生かしておいてはならないというもう一つの命令が、コインの表と裏のように一つになっているということです。

「わたしは流された血に対して賠償を要求する」と言われる神さまは、血を流したものの血を流す務めを、人間に託されました。6節に「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」とあります。賠償を要求されるのは神ですが、実行するのは人間なのです。神は人間に命じて、人間の手によってそれを実現されると言うことです。

最近読んだ本に書いてあったことですが、78年前、日本がポツダム宣言受諾を余儀なくさせられ、無条件降伏へといたらされたのは、広島、長崎への原子爆弾投下によってであったことは確かだと思います。戦後35年経ったころ、かつて日本軍に占領されたシンガポールの映画館で、広島、長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲の映像が映し出されると、観客から一斉に拍手が沸き起こり、その大きな音の渦の中で、「日本が負けた。戦争が終わった」と言うのが聞こえたと言うのです。

もし、広島、長崎への原爆投下が、アジアにおいて流された罪なきおびただしい人々の血に対する報復であるなら、その報復は主なる神が要求されたものであり、神からの命令を受けて「アメリカ軍」がそれを実行したということになります。

でも、果たして本当にそうだったのでしょうか。そうだったなら、幾つもの疑問が湧きます。
広島、長崎への原爆投下が神による日本への報復であったとすれば、まず、広島、長崎には捕虜となっていたアメリカ兵がいました。それらの兵士たちの命を奪うことを神が本当に命じたのでしょうか。
また、広島、長崎には植民地から連れられてきた多数の韓国人がいました。その人たちが原爆で命を奪われ、被爆して苦しみにあったことは、神の正義に反していないでしょうか。
第三に、なんの罪もないこどもたち、非戦闘員の市民たちの血を流すようなことは、聖書において、流された血に対して、その血を流したものに賠償を要求すると言われる神のなさることではないのは言うまでもないことではないでしょうか。

それゆえに、戦争がいかなる大義名分のもとに行われようとも、現実の戦争における殺戮に、不義と不正が消えることなくまとわりついている事実を直視するなら、どのような戦争であっても、それを聖なる神の名によって正当化することはできないと言わざるを得ません。神が、流された人の血に対して、血をもって賠償することを要求されると言われる神であり、ご自身が報復なさると言われているのは確かですが、その神が神としてなさることと、その神の名において、人間に過ぎない者がする戦争、国家が起こす戦争を、安易に一つに結びつけてはならないのだと思います。

前置きが長くなりましたが、今日読んでいます17節から21節までは、報復をテーマとして取り上げている箇所です。この箇所は、旧約聖書の箴言の引用が下地となっています。20節は箴言からの引用からですし、17節も箴言の次の言葉が下地になっています。

箴言24章29節:「人がわたしにするように、わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは、あなたの言うべきことではない。

悪に対して悪で報い返す、良きサマリア人の喩えに出てくる、傷ついた旅人を見て見ぬ振りをして通り過ぎた祭司やレビびとに対して、祭司やレビ人が倒れて助けを必要としていても、通り過ぎる、やられたからやり返す、そう言うことをしてはならないという、箴言のこの言葉ははっきりと報復を禁じている言葉だと思います。

19節
復讐は神がなさること、神の専権事項である。だからあなたがたには復讐することは許されていないと言われるのです。復讐の禁止と、それを禁止する理由は旧約聖書と新約聖書で一貫しています。

18節
自分に対して悪をなした敵に対して、仕返しをしないこと、恨みを抱かずに相手を赦すことは難しいことに違いありません。ここに「できれば」とか、「せめてあなた方は」と言う言葉が挟まっているのは、そのためだと思います。
どうしても許せないという人もいるでしょう。そういう人に対してこそ、19節にあるように、自分で復讐せず、神の怒りに任せることが勧められているのではないでしょうか。任せると言うのは原語で「場所を得させる」と言う意味です。その神の怒り、悪に対しての神による報復が、場所を得る、実現するのはどこにおいてであるかと言えば、それは、13章4節に記されていますが、神から剣を委ねられている国家が、神の僕として悪を裁き処罰することによってだと言われています。

みなさんに今日お配りしたプリントは一昨日の朝日新聞のコピーです。

20節
「燃える炭火を敵の頭に積む」と言うのは、先ほどのプリントに、収監中の横山中将に医学生が差し入れをしたと言うことが書かれていましたが、戦犯として重い罪を負っている自分に対して、医学生によって親切と思いやりが示されたことによって、いよいよ自分のした悪事の大きさを改めて認めて、悔い、恥じるようになったと言うことだと思います。

これと同じことが、わたしたちが聖餐式にあずかるときにも起こっているのではないでしょうか。聖餐式の式文にこうあります。
「わたしたちがなお罪人であったとき、主はまずわたしたちを愛して、わたしたちのために十字架につき、肉を裂き、血を流して、罪の贖いを成し遂げてくださいました。」
イエス・キリストは、敵であるわたしたちが飢えているときに食べさせ、渇いているときに飲ませてくださったと言えないでしょうか。
主イエスは悪に対して悪を返すどころか、ののしられても罵り返さず、苦しめられても人を脅かさず、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださったのです。
そもそも、神さまは、なぜわたしたちが自ら復讐をすること禁じられるのでしょうか。それは、わたしたちには復讐ではなく、神さまからなすように命じられている大切な務めと使命が、復讐に先立つ急務として与えられているからだと思います。

それは、わたしたち自身が主イエスから受けたこと、その同じことをわたしたちも、わたしたちの敵に対してする務めであり使命です。
神さまはわたしたちに復讐されませんでした。わたしたちは自分の行った悪と罪のゆえに神さまから罰を受けるべきであったのに、神さまはわたしたちをではなく、何の罪もないイエス・キリストをわたしたちの代わりに罰せられました。
それによって神さまはわたしたちを正しく裁いてくださったのです。主イエスがわたしたちの罪を代わって担って十字架で死んでくださったゆえに、わたしたちの古い人、罪と悪に生き、悪に悪をもって復讐しようとし、人を恨み、人を憎み、互いに憎み合っていた自分は死なせられ、葬られました。わたしたちが生きるのは、わたしのために死んで、復活されたキリストのために生きるのであり、その赦しと和解の福音を証しするためなのです。

神さまは、復讐よりも、はるかに優ったことをわたしたちのために計ってくださいました。神さまは、わたしたちのために高く、清く、聖なる道、神さまの栄光が、わたしたちを通して現される道を備えてくださったのです。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」イザヤ55章8、9節

神さまに倣って、すべての人に対して、特にわたしたちに対して悪を図った、敵である人に対して、イエス・キリストにある平和を追い求め、祝福を祈るものとされる道を、今、わたしたちは歩み始めており、いよいよ、この道を歩んでゆくことがわたしたちの願いです。

21節
復讐を思い続けること、報復を追い求めることは、悪に負けることです。
しかし、イエス・キリストの神は、わたしたちに対して、悪ではなく、善をはかり、善によって悪に勝利してくださいました。パウロはこの神の勝利を高らかに宣言しています。
ローマ8章37〜39節。
わたしたちは、それゆえに、善によって悪に勝利してくださった神の前で、喜びと望みに溢れて、すべての人に対して善に励み、すべての人との平和を追い求めて行きたいのです。それが善をもって悪に勝つことだからです。

父と子と聖霊の御名によって。