聖日礼拝 「神のかたち」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 創世記8章20〜9章17節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章14〜21節

 

 

2023年8月6日 創世記9章6節

洪水が始まったとき600歳だったノアは、彼の家族とともに乾いた地面に降り立ったとき、601歳と3ヶ月になっていました。15ヶ月ぶりに箱舟を出たノアが、最初にしたことは、祭壇を築き、主に礼拝をささげることでした。犠牲の煙とともに、香ばしい香りが祭壇から天に向かって立ち昇り、それを嗅がれた主はこう言われました。

21節b〜22節

今日、わたしたちは日本が第二次世界大戦において敗北し、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏してから78年が経つことを覚えながら礼拝をささげています。ノアが、洪水によってすべての息ある命もろとも、一切のものが滅し尽くされた後の世界へと歩みだそうとしたときに、そこには生き残った者たちに明るい未来が保証されているような、新しい希望に満ちた世界が待っていたのでしょうか。

それとも、また、いつ再び洪水が起こるかもしれないという恐れがノアの心に残っていたのでしょうか。

同じことが第二次世界大戦の終わりを迎えた人々についても言えました。長く続いた戦争、戦死者が一人も出なかった町も村も、全国に一つもないほどに、津々浦々から多くの犠牲者を出した戦争が終わった日、それは、再び戦争のない、平和な時代が訪れた日だったのでしょうか。

それとも、戦争がまたいつ起きてもおかしくない時代が、もう一度始まった日だったのでしょうか。

今日、8月6日は人類史上、初めて核兵器が人間に対して用いられた日です。核爆弾が広島市民の頭上で炸裂したとき、即死した人、苦しみながら数日のうちに息絶えた人、何年も放射能の後遺症で苦しんだ挙句、命を失った人たちの名前を記した、広島市が保管している原爆死亡者名簿には32万8,929名が記載されているといいます。名前もわからず、そこに記載されていない犠牲者もあるに違いありません。1945年8月6日、またそれに続く8月9日の長崎の悲劇は、果たして平和な時代の幕開けだったでしょうか。

それとも、恐るべき核の恐怖の始まりの日だったのでしょうか。
主なる神は二度と洪水をこの世界に起こすことはすまいと言われています。
そもそも、ノアの洪水はなぜ起きたのでしょうか。
その理由は6章5節以下にこのように記されています。

ノアの洪水は、主なる神が人間の悪に対して下された裁きでした。
ノアの洪水によって古い世界は完全に拭い去られたのでした。箱舟に逃れたノアとその家族たちだけが生き残りましたが、洪水が去った後に始まった世界は、洪水前の世界と比べて変わったのでしょうか。人間の心は、かつてのように思いはかることが悪ばかりであるということは、もうなくなったのでしょうか。

いいえ、そうではないと言われています。

洪水は古い世界を過ぎ去らせましたが、人の心は洪水によって新しくなることはなかった、これまで通り、人が心に思うことは、幼い時から悪いというのです。洪水は人の心を洗い清めなかったのです。

第二次世界大戦という洪水は、人の心を新しくしたのでしょうか。戦争の悲劇と反省によって、人類は二度と戦争をしないことを決意するようになっているのでしょうか。

もちろん、多くの人々が心から平和の訪れを喜んだこと、もう二度と戦争を起こしてはならないと心に誓うようになったことは事実です。あの広島の原爆記念碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。日本国憲法は第9条で戦争を放棄する平和国家となることを定めています。

けれども、わたしたちが今生きている敗戦から78年経った日本は、どうでしょうか。二度と戦争をしない平和な国になっているでしょうか。また世界とその歴史を顧みれば、第二次世界大戦が終わった1945年から今日まで、残念ながら、この世界から戦争がなくなった日は1日たりともなかったと言っても過言でないくらい、戦争はこの世界から無くなってはいないのです。それが世界の現実です。

ノアが箱舟から地面に降り立ったときも、洪水前と比べて、世界には何も変化は何も起きていませんでした。人の心は洪水前と同じく悪いままだったのです。洪水によって人間と世界は変わりませんでした。しかし、地上には変化はありませんでしたが、天において、主なる神の御心の中には大きな転換があったのです。

かつてのように、人間の悪のゆえに世界を滅ぼすことは、二度とすまいと主は決意なさいます。そして、主なる神は、箱舟から出たノアとその子孫との間に契約をたてられました。

9章9節

そして、その契約のしるしとして主なる神が天に置かれたのが、空の虹でした。

14〜17節
ヘブライ語で虹も弓も同じ言葉で、ケシェツと言うそうです。主なる神がノアとその子孫に立てた契約のしるしが、虹であるとは、主なる神が人間に対して弓を引くことをやめて、弓を置かれること、武器を置いて、二度と人間とこの世界を攻め滅ぼすことはしないとの、平和の決意を抱いておられるしるし、平和の宣言のしるしだと言えます。

そして、神の平和の契約、人間とこの世界を、人間の悪のゆえに二度と滅ぼすことはしないという約束は、誰かを相手にした契約、相手の振る舞い次第で破棄されうる約束ではないのです。あくまで主なる神の、主なる神ご自身に対する約束なのです。

ノアが、またノアの子孫であるわたしたちが、この平和の契約と、そのしるしである虹を通して受け止めるべき神の御心は何でしょうか。

宗教改革者のカルヴァンは次のように言います。

主なる神は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人間の心に思うことが、幼い時から悪くても、今回したように生きているものを滅ぼすことはしない」と言われる。それは、今後、如何なる刑罰もないということを表そうとしたのではない。そうではなく、地球を抹殺したり、人類も他の動物たちも滅亡させることはないという意味である。あたかも、この後は、洪水によって滅ぼすことはしないとの主の約束のもとに世界は回復すると言われたのと同じである。(カルヴァン 創世記註解 8章21節)

宗教改革者カルヴァンが、主なる神は今後、如何なる刑罰も下さないという意味ではないと言うように、人間の悪が野放しにされるわけではないし、現実に、わたしたちが経験させられているように、この世界には多くの悲惨と危機が渦巻いています。

例えば、連日の猛暑の中でわたしたちが喘いでいる、地球規模の異常気象もその一つです。
また、核燃料の廃棄場所も確保できない中で、原子力発電所を稼働し続けている、その結果、福島の汚染水の問題だけでなく、今後、核廃棄物の処理のためにわたしたちは、私たちの子孫に一体どんなに大きなツケを払わせることになるのでしょうか。
原子力発電所には問題があるのを認めつつも、なおも原子力発電所を稼働させ続ける人々が、海の向こうからいつミサイルが飛んでくるかもしれないと言って、恐れと不安に取り憑かれています。
これらの、どれ一つを取っても、わたしたち人間が自らの罪と悪のゆえに、この世界に滅亡を招きかねない危機に直面させられていることを認めないわけには行きません。

しかし、このように、世界に滅亡を招きかねない洪水を、わたしたちが招こうとする時に、神さまはそれでも、わたしたちの悪に対する神の審判としてこの世界を、またわたしたちを滅ぼすことはされないと言われる、その神の憐れみと、赦しのメッセージを聞くとき、わたしたちはそれをどう受け止めるべきなのでしょうか。

洪水という危機が迫り来る世界と時代のしるしの向こうに、嵐を呼ぶ積乱雲の中に虹のしるしを見ること、神はわたしたちの味方であることをお辞めにならないという、神の愛と平和を示す虹のしるしを見て、希望を持ち、確信を抱き、勇気を出すことです。

今日、8月6日、原子爆弾が広島に投下されたました。ある人たちは、広島、長崎の上空を覆ったあのキノコ雲を見て正義が勝利した、悪が裁かれたと思ったのでした。しかし、果たして、神はあの日、高い空の上から人間の悪を裁かれたのでしょうか。神の御子、イエス・キリストはあの日どこにおられたのでしょうか。日本を敗戦に導くために原子爆弾を投下するB29のエノラゲイの乗組員とともにおられたのでしょうか。

わたしたちが仰ぐ神の憐れみのしるしは、ノアの虹にもまさる、神の憐れみと罪の赦しのしるしであるイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは広島の空高くにではなく、原爆を投下する人ともにではなく、原爆を投下された人々とともにいてくださり、原爆で死んでいった人々と共に、その只中にいてくださって、人びとの罪の赦しと贖いのために死んでくださったと信じます。

ノアの契約のしるしの虹が武器を捨てる平和のしるしであると申しましたが、それに対して十字架は神とわたしたち罪人との間にある敵意を滅ぼし、和解をもたらす平和のしるしです。神との和解を通して、わたしたち人間の間で敵対している国と国、民族と民族が和解しあい、赦しあい、愛し合う平和の契約のしるしです。その十字架の血にわたしたちは、今日も聖餐式において預かるよう招かれています。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われる主の杯に預かるわたしたちは、すべての人と和解し、互いの罪を赦し合い、互いを自分のように愛し合って、平和に生きる道へと招かれるのです。

主が制定してくださった聖餐に預かるたびに、主が再び来られる日に到るまで、主が、わたしたちの世界を二度と洪水で滅ぼされないと約束された、その約束に寄り頼んで、世界の回復と平和に向けて、何度でも、何度でも希望のうちに立ち上がるものたちとならせていただきましょう。

父と子と聖霊の御名によって