聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第15回「だれにも話してはいけない」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 サムエル記上15章22~23節
新約聖書 ルカによる福音書 5章12〜16節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第15回「だれにも話してはいけない」

12節
今日、この箇所を読んでいるわたしたちは、まもなく主イエスの十字架の死を覚える受難週を迎えようとしています。主イエスが、十字架を前にして、ゲッセマネの園でお祈りになったあの最後の祈りと、この箇所を重ね合わせて読まずにおれないように思います。
ルカによる福音書では、9章51節に「イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と、主イエスが公生涯のある時期に、エルサレムで待ち受けている最後に向かって、進んでゆく決意を固められたと書いていますが、その主イエスの決意が最終的に固められたのが、十字架の前夜、ゲッセマネで祈られた祈りにおいてでした。

その祈りは、ルカによる福音書22章42節以下にこう記されています。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままになさってください。」

父よ、御心なら、と祈られた主イエスのゲッセマネの園の祈りと、ここで、らい病を患っている人が主イエスに願った「主よ、御心ならば」という願いの言葉は、原文では同じ言葉ではありませんが、ほぼ同じだと言っていいと思いますが、結果は正反対でした。重い皮膚病を患っている人は、願いが聞き入れられたのに対して、主イエスの場合は願い通りにはなりませんでした。

らい病人と主イエスのやりとりで、らい病人が、「御心ならば」と言い、主イエスがそれに「よろしい」と答えられますが、そこで用いられる動詞は同じで、英語で表現すれば、「み心ならば」は if  you  will で、「よろしい」は I will です。

らい病人が主イエスに、「あなたが私の清くなることを願われるなら、私は清くなることができます」と言ったのに対して、主イエスが「あなたが清くなることは私の願いである」と答えられたのでした。

14節
病気が癒されたその人に対して、主イエスは厳しく「誰にも話してはいけない」とお命じになります。ただ、祭司のところに行って、体を見せ、清めの捧げ物を捧げて、病気の治ったことを人々に証明するように言われたのでした。

15節
マルコによる福音書の並行記事では、この人が主イエスの命令に反して、主イエスのなさったことを言い広めたと書かれていますが、ルカはそうは書いていません。本人が言い広めた訳ではなかったとしても、結果的にそのことが広く知れ渡ってしまったのでしょう。
主イエスは、なぜこの人に黙っているようにお命じになられたのか、そのことはよく考えてみなければなりませんが、先ほどからの「御心」という観点から考えるなら、この人の願いと主イエスの願いは、果たして同じなのかということが浮かび上がってきます。

すなわち、この人は確かに自分が清くなることを願ったのです。そして、おそらく、それだけを願っていたのでしょう。けれど、主イエスがこの人に対して願われたことは、この人の病気が治ることだけだったのでしょうか。

主イエスのゲッセマネの園の祈りは、御心ならば、と祈られた後に、しかし、私の願いではなく、御心のままにと続きます。主イエスは、十字架の苦しみの杯が取り除かれることを、私自身願いますと言われた後、しかし、神の御心が、神の願われることが、そうではない時には、神の御心、神の願われることが、私の最終的な願いですと言われたのです。

らい病人の人が、自分の病気の治ることを願って、その願いが聞き入れられさえしたら、それでもう用件は終わった、もうそれで十分だと思うなら、それは御心を求めるということにはならないということです。御心を求めて神に祈るということは、自分の願いと一致する部分だけを受けとり、それ以外の部分は必要ない、だから切り捨ててしまうということではありません。

今日読まれた旧約聖書、サムエル記上に書かれた預言者サムエルの言葉は、主の喜ばれるのは、犠牲ではなく、神の声に聞き従うことだと言われています。神の声に聞き従うことをしないで、犠牲を捧げることは、主に背く偶像礼拝の罪に等しいのです。この病気を癒された人が、主イエスから黙っていなさいと言われたにも関わらず、自分の救われたことを人々に言い広めることが、主イエスに感謝することであり、良いことであるかのように思って、そうするなら、サムエルから厳しくとがめられたサウルの行為とまったく同じです。

15、16節
病気を癒された人のことを聞きつけて、主イエスの周りに群がり、集まってきた人々と、人里離れたところに退いて祈られる主イエスとは、同じ思いではなかったのでした。主イエスが祈っておられたのは、父なる神の御心でした。その祈りは、ゲッセマネの園でお祈りになられたように、自分の願い以上に、父なる神の願いを自分の願いとされる祈りだったのです。それに対して、自分の願いが実現することを願う、それに終始する人々が主イエスの周りに何千人、何万人群がっても、そこには神の民は生まれないのです。自分たちの願望と要求を神に押し付ける祈り、神に自分の欲望を強要するような信仰は、自分たちの願望を達成するための手段でしかありません。それはまさに偶像礼拝であり、神へのあからさまな反逆です。

「御心ならば」という祈りが、私たちの間で祈られるのを、祈祷会などで耳にすることがあります。重い病気の人のために癒しを祈って、御心ならば速やかな癒しをお与えくださいと祈るとき、もしかすれば重篤な病が癒されないかもしれないという思いがよぎります。愛する肉親の死が近づいているとき、御心ならば、今しばらく地上の命をながらえさせてくださいと祈りつつ、願いに反して召される日が訪れるかもしれないと思ながら祈るということがないでしょうか。そのようなときには、私たちの心に、諦めというか、断念が潜んでいるように思うのです。

「御心ならば」という祈りは、結局、留保つきの、限定された祈りであって、消極的な祈りでしかないのでしょうか。願い祈りつつも、半分は諦めに通じているのが、「御心ならば」という祈りなのでしょうか。

御心を祈り求めるということは、そういうことではないと思います。私たちには自分なりの願いがあります。しかし、それに優って、私たちの願いよりももっと高い、神様の願い、神様の御心を願い求め、それをこそわたしの願いとさせてくださいと願うこと、それが御心を求めて祈るということだと思います。

それゆえ、目の前の状況が少しも好転しない時にも、私たちが願う願い通りにはならない時にも、失望しないで祈り続けること、落胆しないで希望を持ち続けること、諦めないで、顔を上げて前に向かって歩いてゆくこと、神の御心が実現することを信じながら、その完成の日を目指し、一歩一歩、歩みを前に向かって進めてゆくこと、それが御心のままにという祈りを祈る人の生き方ではないでしょうか。

主イエスは御心が天において行われる通り、地においても行われますようにと、日々祈りなさいと言われました。
その祈りを全世界で今日も多くの人々が祈っています。その祈り声は、暗い闇の中でも朝を待ち望みながら、希望の歌を歌う、歌声の響きなのです。

父と子と聖霊の御名によって。