聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第14回「人間をとる漁師になる」 説教 澤 正幸牧師
使徒書簡 テモテへの手紙(1)1章12~17節
新約聖書 ルカによる福音書 5章1〜11節
ルカによる福音書連続講解説教 第14回「人間をとる漁師になる」
1〜3節
これまで、わたしたちが今読んでいるルカによる福音書が、マルコによる福音書を下敷きとしていること、ある人に言わせれば、ルカが福音書を書いたとき、マルコ福音書を自分の机の上に開いていたというくらい、ルカによる福音書は、書かれている内容も、書かれている順序もマルコによる福音書に沿っていると申し上げてきました。今日、読んでいますルカによる福音書5章の「漁師を弟子にする」という記事も、ルカがマルコを下敷きとして、これを書いていることは、マルコによる福音書1章16節以下を読むとわかります。
マルコは、この出来事について、たった4節で短く、簡潔に記しています。ルカとマルコが重なっているのは、三つだけです。後のこと、魚がたくさん取れる奇跡が起こったことは、マルコは記していないことがわかります。そして、主イエスがペトロたちを弟子にするという出来事が起こったときの情景というか、その背景がマルコには省かれているのに対して、ルカが1〜3節にそれを描いていることも、両者の違いです。
実は、ここに描かれている情景は、マルコによる福音書4章の初めに描かれているのと同じなのです。そこを開いて見たいと思います。ある人はこれを主イエスの「湖畔の説教」と呼びます。ルカはペトロたちの召命の背景として「湖畔の説教」を選んだのだと言えます。そして、マルコによる福音書の「湖畔の説教」のあとには、有名な「種まきの譬え」が続いているのです。
「種蒔きの喩え」というのは、皆さんよくご存知かもしれませんが、短いので、もう一度読んで見ましょう。蒔かれた種が、道端に落ちたり、石地に落ちたり、茨や雑草の茂みの中に落ちて、実を結ぶには至らないという、残念な結果が最初に語られます。しかし、最後の部分では、蒔かれた種が驚くほど多くの実を結ぶことがあるという話になります。良い畑に落ちた種が育って、あるものは30倍、あるものは60倍になり、中には100倍になるものもあったというのです。「種蒔きの喩え」にある、この失意から驚きへ展開するという筋書きは、ルカによる福音書の5章のここにも見られます。
4、5節
主イエスが「沖に漕ぎ出して網を下ろして、漁をしなさい」と言われたのは昼間の時間帯でした。湖で漁をするのは昼日中でなく、日が沈んでから、夜なのです。おまけに昨晩は、まったくの不漁でした。ペトロは、自分だけでなく、漁師仲間なら誰一人しないことをこのとき主イエスから命じられたのでした。
ペトロは、自分だったら決してしないことだけれども、主イエスがそうするように言われるので、「お言葉ですから」と言って、網を下ろします。
6、7節
すると、網は破れそうになり、舟は沈みそうになります。まったく予想外の結果に、ペトロだけでなく、一緒に漁をしていた者たちはみな驚嘆するほかありませんでした。この驚きは、種まきの喩えのあの驚異的な収穫に対する驚きに通じます。
8節
予想外の結果になったのを見たペトロはこう申します。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
このペトロの言葉に、どういう思いが込められているのでしょうか。このとき、網が破れそうになり、舟が沈みそうになったことが暗示的に示しているように思うのですが、ペトロはこのまま主イエスと一緒にいたら、自分は破綻してしまうと思ったのでしょう。
わたしたちは、生きていく上で、何らかの予測に基づいて、計算し、計画を立てるのではないでしょうか。それゆえ、まったく予想外の出来事が起こり、自分でコントロールできない事態に直面させられるとパニックに陥ります。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
ペトロのこの言葉は、以前、4章で読んだ、悪霊が主イエスにこれ以上、自分に近づかないでくれ、自分を放っておいてくれと叫んだあの叫びと通じる面があります。
4章で、カファルナウムの会堂において、汚れた悪霊が、主イエスのことを「お前は神の聖者だ、神の子だ」と叫んだということを読みました。そのとき、主イエスが悪霊に黙るように命じられたのは、なぜだったのかといえば、主イエスに対して「あなたは神の子です」と信仰を告白する、その信仰告白は、わたしたちは本来、聖霊によってするものなのです。それと、主イエスに向かって悪霊のように「あなたは神の子だ」と叫ぶのは、全く違うことだからです。その二つは、どう違うのでしょうか。
10節後半
「恐れることはない」
ペトロの恐れ、それは自分が到底、このようなお方と一緒に生きて行けるような人間ではない、このお方のそばにいて働かせていただけるような人間ではない。そうするには、あまりにふさわしくないし、何もかもたりないし、足りないどころか、反対に主イエスの足を引っ張り、主イエスの足手まといや、邪魔になるだけだ、そのような恐れだったと想像します。
それに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と主イエスは言われます。ここで「人間をとる漁師になる」と言われる、この言葉は原語では「人間を生け捕りにする」という言葉です。いずれは殺して食べてしまう場合も生け捕りですが、ここではむしろ、生きたまま、主によって捉えられ、これからは新しい使命とつとめに向けて生きてゆくものとされるということだと思います。
確かに自分に罪があり、神さまに対してふさわしくないゆえに、神さまから遠ざからせてくださいという思いが人間の心の中にあります。しかし、神さまから遠ざかったままで生き、また死んでゆく人生とは、どういうものなのでしょう。神さまによって創造されながら、神さまを知ることもなく、せっかく神さまによって造っていただいたのに、創り主なる神に栄光を帰することもなく、感謝することもなく、虚しく終わることは悲しく、残念なことではないでしょうか。自分自身にとってそうであるだけでなく、何より、神さまにとって残念なことであるに違いありません。
神さまは、わたしたちにも今朝、言われます。恐れるな。わたしはあなたを生け捕りにすると。神さまはご自身をわたしたちの創り主として知らせてくださるだけでなく、神の御子キリストを小さなものとしてこの世に遣わされて、小ささなわたしたちを受け入れ、主イエスによって、わたしたちの弱さを憐れみ、わたしたちの罪深さを赦し、主イエスの愛を通してわたしたちを愛してくださるのです。それだけでなく、わたしたちを神さまのものとして回復してくださり、神さまと隣人を愛して生きてゆくものとなるために聖霊の恵みをも与えてくださいます。これこそが、わたしたちが神の福音に向けて、生け捕りにされることなのです。
先ほど読まれたテモテへの手紙でパウロが、自分は罪びとのかしらであり、最も罪深い人間である自分が、憐れみを受け、罪を赦されたのは、「キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られた」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値することを、証しし、自分が主イエスを信じて永遠の命を得る人々の手本となるためだったと言った言葉を読みました。そのことは、ここで「わたしは罪深い者です」と言ったペトロも同様でした。彼は主イエスを最後に三度も知らないと言った弱い、罪深い人間でした。そのペトロが主イエスから赦しと愛をいただいて、人間をとる漁師とされるのです。ペトロもパウロも、同じように言います。「イエス・キリストはあなたを赦してくださり、愛してくださいます。それは確かなことです。わたしがそうだからです。あなたもそうなのです。」このように語ること、それが人間をとる漁師となるということです。
このとき、主イエスによって福音宣教のために生け捕りされたのは、ペトロ一人ではありませんでした。一緒に舟に乗っていた兄弟のアンデレも、もう一艘の舟に乗ってペトロたちを加勢しようとしたヤコブとヨハネの兄弟も、全員が福音伝道のために生け捕りにされました。
主イエスはわたしたちにも今日、恐れることはない、あなたも人間をとる漁師になると言ってくださいます。そして、同じように主イエスに生け捕りにされて、人間をとる漁師にされる人たちが、網が裂けるほど、舟が沈むほど多くいるのです。
わたしもあなたも主イエスののべ伝えられた神の国の福音によって、生け捕りになった一人です。わたしたちが、空の星のように、海の砂のように数えきれないほど多くの人々に囲まれて神さまによって生かされていることが、わたしたちの尽きることのない驚きであり、喜びなのです。
父と子と聖霊の御名によって