新年礼拝『愛することと憎むこと』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記3章14~15節
新約聖書 ヨハネによる福音書12章24~25節


『愛することと憎むこと』

昨年2020年、わたしたちは新型コロナウイルスによって、家庭生活も、社会生活も、教会生活も深刻な影響を受けました。世界で人々は自由に行き来することができなくなり、飛行機が飛ばないために航空便で送ろうとしたクリスマスプレゼントがクリスマスに届かないようなことが起こりました。家族同士が、親しい友人が会うことも、共に食事することも憚られるようになりました。その中で、わたしたちは、愛とは何か、人が人を愛するとはどういうことかに悩み、苦しみました。わたしたちはどのように人を、また神様を愛してゆくべきかを問い続けなければならなくされています。
今朝は、2021年の始まりにあたって、愛について、わたしたちが神様を愛する愛、またとなり人を、自分を愛するように愛するとはどういうことかを、御言葉からもう一度聞きたいと思います。

パウロは最も大いなるものは愛である、と言いました。信仰と希望と愛、いつまでも残るものは、この3つであり、その中でも、愛が一番大いなるものだと言いました。信仰よりも、希望よりも、なぜ愛がさらに大きいと言ったのでしょう。

説教の題を、「愛することと憎むこと」としたのは、愛について語り、考えるとき、その反対の憎しみを合わせて考えることが大事ではないかと思ったからです。

わたしたちは人を愛すると言いますが、では、その反対に、人を憎むという場合、それはどういうことでしょうか。創世記3章に、主なる神が、女を騙して罪を犯させた蛇に怒りをあらわにされて蛇を呪われた言葉の中に「敵意」という言葉がでてきます。創世記3章15節です。女と蛇の間に、女の末裔と蛇の末裔の間に、いつまでも消えない「敵意」を置くというのです。実際、私たちは蛇を見ると身の毛がよだってゾッとさせられます。蛇を見ると生理的に嫌悪感に襲われます。そして身構えて蛇を打ち滅ぼそうとします。蛇の方もそれに対抗して鎌首をもたげて反撃しようとします。
この「敵意」という言葉は旧約聖書では特徴的な用い方がされていて、相手に対する怨念、怨讐にかられて憎しみを抱くというニュアンスがあります。昔受けた酷い仕打ち、よく「食べ物の恨みは恐ろしい」などと言ったりしますが、こちらはすっかり忘れていても、相手はいつまでもそれを根に持っていて、深い怒りと恨みから、相手をどうしても赦せない、仕返しをしないではおかないと言った敵意のことです。
女にしてみれば、蛇は本当に憎んでも憎みきれない相手です。なんで無垢で人を疑うことも知らないような自分に対して、真っ赤な嘘を言って騙すようなことをしたのか、一体自分が蛇に何をしたというのか。蛇は騙された女が、その結果、どうなるのか知っていながら女を騙したのです。女は愛する夫までをも巻き込んで、すべてを破滅するに至らせられたのです。それはすべて蛇のせいでした。そのようなことをした蛇の姿を見ると、女の地は逆流し、怒りと悲しみに身を打ち震わせられざるを得ないのです。

女は蛇がこの世界から消えてなくなって欲しいと思うでしょう。ところが、蛇はしぶとくこの世界に生き続けます。生き続けるどころか、蛇など二度と見たくない、蛇とは絶縁したいと願う女とその子孫に、いつまでも、いつまでも、しつこく、いやらしく付きまとい続けるのです。

女と女の子孫は蛇を憎んで当然です。でも、その憎しみと敵意はきっぱりとした絶縁には到らないのです。憎んでいるのに、嫌な相手なのに、腐れ縁という言葉がありますが、女の子孫と蛇の子孫とは関わりをずるずると引きずってゆく面があるということです。

例えて言えば、こういうことです。街に暴力団が事務所を構えるとします。暴力団に街から出て行って欲しいと住民が反対運動に立ち上がるとします。すると反対運動の代表者として、運動の先頭に立って、その責任者を引き受ける人は、自分だけでなく、家族にまで危険が及ぶことを覚悟しなければならなくなります。誰もそれを望む人はいないでしょう。自分と自分の家族に危害が及ばない限りでなら反対運動に協力する人は多くても、自分と家族の安全を犠牲しにしてまで、反対運動に立ち上がる人は少ないし、そこまですることが果たして賢いことなのかと多くの人は考えます。

このことは町内会のレベルだけではなくて、世の一流企業と呼ばれる会社においても、政治団体でも皆同じ問題を抱えます。国家のレベルでも同じです。かつて、ナチスドイツがユダヤ人を虐殺したとき、アメリカやイギリスなど欧米諸国はナチスの残虐行為を知らなかったのではありませんでした。知っていたけれども、ナチスが怖くてユダヤ人救出のために助けの手を差し出そうとはしなかったのです。

愛すること、人を愛し、神を愛するというとき、憎むこと、サタンとその悪を憎むことなく、人を愛したり、神を愛したりすることは果たして可能なのでしょうか。悪魔と妥協しつつ、サタンと裏で手を結びながら、表向き、正義を唱え、人権を擁護し、平和建設のための努力をすると言っている政治家が歴史上多くいたことを歴史ははっきり書き残しています。
では、わたしたち、キリスト教会に属するキリスト者、信仰者は、神様の前でどう生きているのでしょうか。

神と悪魔、光と闇、聖霊と悪霊の間には何の調和も、一致もありません。そうだとすれば、わたしたちにとって、悪を悪として正しく憎む、サタンを正しく憎む、サタンとはきっぱりと絶縁することなしに、神を愛することは不可能なはずです。サタンと妥協し、サタンを手なずけて怒らせないようにして適当に距離を置いて付き合うということは、もし、わたしたちが神を真実な愛をもって愛してゆこうとすれば、不可能だということです。

ところで、今日取り上げるヨハネ12章25節の御言葉に出てくる「憎む」という言葉にひっかかる方は少なくないのではないでしょうか。ここで憎む対象は「自分の命」ですが、さらにショックなのはルカ14章26節に出てくる「憎む」という言葉です。

聖書学者はこのような言葉の用い方は聖書特有の表現だと説明してくれます。例えば、旧約聖書のヤコブの妻であったラケルとその姉レアの関係を引いてこう言います。ヤコブにとってはラケルが最愛の妻でした。それと比べるラケルの姉レアは妻としては「疎んじられた」と言える。この「疎んじる」というのが、ここで「憎む」と言われる意味なのだ。つまり、第一ではない、最愛ではない、第二、第三の存在として後回しにされる存在ということなのだ。

そうだとすれば、「自分の命」を二の次としても優先的に、第一のものとして愛するのは何なのか。「自分の命」に優って愛するものなどこの世界に存在するのだろうか。
確かに存在します。自分を愛してくれる存在です。「私わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)「あなたがたが私を選んだのではない、私があなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)

ここで少し角度を変えて、もう一度「憎む」という言葉に戻ってお話ししたいと思います。
それは、主イエスのことです。皆さんは、主イエスは人々から愛されたお方か、それとも憎まれたお方か、どちらだとお思いですか。世界は主イエスを愛するのでしょうか、憎むのでしょうか。それは2千年前の地上の主イエスだけでなく、現代世界における、今の問いでもあります。

主イエスはユダヤ人から憎まれたと、主ご自身言われ、その理由をこう述べておられます。ヨハネ7章7節。
世は自分の行なっている業が悪いことを証しされるので主イエスを憎むと言われます。
世が抱えている悪を主イエスが誤魔化さず、妥協せず、指摘されるので、世は主イエスを憎むと言いますが、確かに、世は自分の悪を指摘するものを容赦なく滅ぼそうとします。世は世の味方とならないものを、ちょうど暴力団が自分の組に属さない手下を容赦なく殺すように、排除し滅ぼそうとします。そこには本当の愛はありません。人々は奴隷的恐怖心からイヤイヤ、諦めを持って従わせられているだけです。

そのとき、わたしたちは、どちらに属するのか、世から憎まれないように、抵抗したら終わりなので、致し方なく世の悪に従いながら生きるのか、それなら世から憎まれることはないでしょう。しかし、イエス・キリストの側に立てば世からの憎しみをもろに受けなければなりません。

12章25節。声を出して皆さん一緒に読みましょう。「自分の命を愛する」ということが、そのような悪魔の悪と憎しみの支配のもとで、反対する者の命を狙う脅かしのもとで、仕方なく、屈従的な生き方において、自分の保身をはかり、そうやって自分の命を愛するということであれば、そのような生き方は、地上では何とか生きたとしても、神の前では裁かれて滅びに至ります。しかし、この世において、サタンが悪を持って脅かす中でも、自分の命を憎むということは、どういうことでしょうか。それは、サタンの脅しに怯えつつ、自分の命を守ろうとして生きることが、自分にとって第一のことではない、いたずらに延命を図ることは私の第一のこと、最も愛することではない、そうではなくて、それに対してもっと優先すべき生き方がある。それは、主イエスを愛し、主イエスに従って生きてゆこうとすることです。そのために地上のいのちを失ったとしても、主イエスにあって、どこまでも神様を愛し、サタンを憎み、隣人を愛して、隣人のために自分の命を差し出すことをも躊躇わない、愛の生き方をするということです。それは永遠の命に至る生き方であり、地上において、もうすでに永遠の命に至る命、すなわち永遠の命を生き始めることになるのです。

わたしたちの命は、そもそも神様からいただいた命であって私の命でもないのに、自分勝手に私の命の主人は私であり、私の命は私のものだと主張するなら、その命は一粒の麦として地に落ちて、一粒の麦として終わります。その最後は滅びです。それが、自分の命を愛する者は、それを失うと主イエスが言われる意味です。
しかし、イエス・キリストの愛を受けて、主イエスによって命を贖われ、主イエスから頂いた命を、この命の主人は私ではありません、この命はイエス・キリストのものですと認め、そう告白し、自分の命を神様と隣人のために捧げるなら、その命が、たといこの世の力や悪魔の力で奪われ、殺されるようなことがあっても、その命は多くの人を愛する愛のために生かされ、多くの人を助け、喜ばせるために用いられ、何より神に喜んでいただける、神に栄光を帰す実り豊かな命となります。それがこの世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ると主が言われる意味です。

わたしたちは生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。わたしたちは生きるにも死ぬにも、この身も魂もわたしたちのものではなく、主イエス・キリストのものなのです。それゆえ、わたしたちの生と死を通して主の栄光が現されるように、主が聖霊によってわたしたちをまことのブドウの木であるイエス・キリストにしっかりと接木してくださって、この一年を歩ませてくださいますように祈りましょう。

父と子と聖霊の御名によって