聖日礼拝『アーメン、主イエスよ、来てください』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編40編1~18節
新約聖書 ヨハネの黙示録22章20節

『アーメン、主イエスよ、来てください』

聖書は「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まります。では聖書の最後は何という言葉で終わるでしょうか。
「然り、わたしはすぐに来る。」「アーメン、主イエスよ、来てください」。
聖書は主イエスの再臨の約束と、それに応える教会の祈りの言葉で終わっています。
主イエスよ、来てください、との祈りは助けを求める叫びなのでしょうか。主イエスが速やかに来て、私たちをお救いくださいとの祈りでしょうか。先ほど読まれた詩篇40篇の14節、18節に記されているのと同じような祈り、また叫びなのでしょうか。

今年の待降節を迎え、祈祷会で待降節の祈りを祈るにあたって、わたしたちは今日の会報の裏に記した、カトリックの神学者カール・ラーナーの言葉を心に刻みました。
カール・ラーナーの祈りの前に記しましたように、待降節は英語でAdventと言い、ラテン語の「訪れてくる、到着する」という意味を持つ「Adventus」に由来します。そして、それは「主イエスのご降誕」を待ち望む期間であるだけでなく、ひとたび来られた主イエスがもう一度おいでになることを待つ時でもあります。その待降節に、主イエスの再臨を待ちつつ、主イエスよ、来てくださいと祈る祈りについて、カール・ラーナーは次のように反省を促しています。

 神よ、わたしたちは聖なるアドヴェントが巡りくるたびに、毎年、この季節を祝います。わたしたちは毎年、あの美しい待望の祈りを祈り、希望と約束の愛らしい賛美歌を歌います。わたしたちはおのが困窮と願いと期待のすべてを一言に込めて祈ります:「来てください」と。
 でも、この祈りはなんと変な祈りでしょう。だって、あなたはすでに来られてわたしたちの間に天幕を張って住まわれたからです。あなたはすでにわたしたちと地上の生涯を共に過ごされて、小さな喜びも、面倒な長い日々に渡る労苦の数々も、そして痛ましい最後も経験なさったからです。一体、これ以上あなたに何をして欲しくて、あなたに「来てください」と言えるでしょうか。あなたが「人の子」になられてわたしたちに近づかれたよりも、もっと近く近づくことができるでしょうか。
 それなのに、わたしたちはまだ祈っているのです:「来てください」と。

もし、待降節に、わたしたちが主イエスよ、来てくださいと祈るのが、主イエスに救いと助けを願い求めてのことならば、ラーナーが言うように、主イエスはもう来てくださったのであり、それにより十二分にわたしたちの救いのために、みわざをなし遂げてくださったことは確かなことです。もうこれ以上願うことが残っていないほどに救いの恵みをもたらしてくださったことは否定できないことです。
では、わたしたちは主イエスにもう一度来てくださいと祈ることは、必要がないのでしょうか。主イエスが、わたしはすぐに来ると言われたのですから、わたしたちが、アーメン、主イエスよ、来てくださいと祈るべきではないのでしょうか。
正直申しまして、カール・ラーナーという神学者の思考というか、論法と申しましょうか、それにはちょっと複雑なところがあって、ついてゆくのが私たちには難しいところがあるように思います。
彼は、わたしたちが待降節を迎えて、主イエスよ、来てください、もう一度おいでくださいと祈ることが間違っているとか、そういう祈りを祈るべきではないと言おうとしているわけではなくて、わたしたちが主イエスを待って、主イエスよ、来てくださいと祈るということがどういうことなのか、その深い意味に新しく気づくべきではないかと言いたいのだと思います。

今日は、そのことを最初に読まれた詩編40編の御言葉から思い巡らしたいと思います。
この詩篇は大きく前半と後半、2部に分かれています。先ほど申しましたように、後半の、14節、8節は、主よ、来てください、急いでわたしを助けてくださいと、主に救いを求める祈りになっています。それに対して、前半は2節から4節にかけて、神への賛美が記されていることからも明らかなように、賛美と感謝の歌です。この後半の救いを求める祈りと、前半の賛美と感謝の祈りはどう繋がるのでしょうか。二つは別々の詩篇だと考える人もいます。それに対して、二つは内容的に一つだと読む人もいます。そのように読む旧約学者の一人、関根正雄が4節について、とても興味ふかいことを書いていました。

「4節は注目すべきである。詩人は自分の側から人間の技として感謝や賛美を述べていない。感謝や賛美も神から賜ったものとしてなのである。」
詩人は滅びの穴、泥沼の中から助けを求めて主に叫びました。そのとき、主は叫びを聞いて彼を死の陰府の淵から引き上げてくださいました。詩人の口に授けられた「新しい歌」、彼が歌った賛美は神が与えてくださったものでした。そうです。救いが神から与えられるだけでなく、感謝と賛美も神が与えてくださったものなのです。
ドイツの旧約学者クラウスと言う人も同じことをこう表現します。
「感謝は詩人が神から受けた救いの恵みへのお返し、返礼ではない。感謝は神が人にお与えになった賜物である。」

ということは、少し飛躍しますが、詩人が未だ救いにあずかっていなくても、今なお、滅びの穴の中にいて、足が泥沼の中にどんどん沈んでゆくような中に置かれていても、神に望みを置き、その叫びを聞いてくださるとの信仰において、神から賛美を授かり、神の救いを讃える歌を口にすることはありうるということです。滅びの中に、泥沼の中に沈み込みながらも、その底に詩人の足をしっかりと下から支える岩を置いてくださる神のゆえに、賛美を抱くことはありえるのです。
それはちょうど、使徒言行録16章で、フィリピの牢獄に投獄されたパウロとシラスが、足には木の足枷をはめられ、鞭打たれた傷から流れる血がまだ止まらないときに、真っ暗な夜の闇の中で賛美の歌を歌ったのに似ています。その賛美は、牢獄から解放された朝に喜び歌った賛美ではありませんでした。苦しみと絶望の只中で、なお救いを約束してくださる神を賛美し、感謝する歌だったのです。

詩篇の7節に「あなたは生贄も、穀物の供物も望まず、焼き尽くす供物も、罪の代償の供物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあります。
神さまに助けを祈り求めて、その叫びを神さまが聞き届けてくださった、その救いの恵みを目の当たりにしたことによって、受けた恵みを感謝して生贄や、供物を捧げることは別段、間違いでも、非難すべきことでもないでしょう。
しかし、主は果たしてそれを望まれるのか、主ご自身が求めておいでになるのは、そのような供物なのか。先ほど引用した、関根正雄やクラウスの言葉で言えば、神が求められるのは、神から受けた救いの恵みに対しての、人間の側からの返礼としての感謝、あくまで人間の側からの、人間のわざとしての感謝や賛美なのか。

そうではなくて、主が本当に求めておいでになるのは、供物でも、生贄でもなく、わたしたちの耳を開かれること、わたしたちが主の御旨をきく耳を持つことなのです。そして、その耳が開かれるとは、主が私たちを救い給う、その御旨を信じる信仰を持つことなのです。神が救いを与えてくださるだけでなく、感謝と賛美をも与えてくださるお方であることを信じることなのです。

この詩篇40篇7、8節はヘブル書10章に引用されています。この御言葉に基づき、イエス・キリストがただ一度ご自身の体を捧げられたことによって、わたしたちの罪の贖いのために繰り返し捧げられてきた犠牲に終止符が打たれました。わたしたちの罪のための永遠の贖いが完成したからです。わたしたちの罪のために、神の子が大祭司としてご自身の体と血を犠牲として捧げられたことにより、罪の償いは完全に果たされました。今や、この大祭司のとりなしのもとで、わたしたちの良心は罪の呵責を全く除き去られ、恐れなく、喜んで神に近づくことができるようにしていただきました。ヘブル書10章19〜25節はこう言っています。

カール・ラーナーが強調するように主イエスは一度来られました。そのことは、詩篇40篇8節に重なっています。救い主はもう来てくださり、神のみ旨に聞き従う、完全な服従を全うされました。このお方が来てくださった結果、わたしたちの救いにとって必要なことはすべて、何一つかけることなく、完全に成し遂げられたのです。

わたしたちが今なお、その救いを見ることができない、手に取るようにして確かめることができないことであっても、神は、すでにわたしたちのために賛美を備えてくださっていることをわたしたちは信じることができます。わたしたちが今礼拝において神を賛美して歌う賛美は、わたしたちがわたしたちのゆえに歌う賛美ではなく、神が私たちに歌わせておられる賛美です。朝の光の中で喜び歌う人はいても、暗い夜に涙を流しながら歌う人はほとんどいません。わたしたちの賛美は、パウロとシラスがピリピの牢獄で真夜中に歌った賛美のように、神を神として賛美するためのものであり、神の救いの約束への信仰に基づくものなのです。コロナが全世界を覆うこの時にも、こうして礼拝において神を賛美することは、神の御心に沿ったことののです。フィリピの獄に繋がれていた囚人たちが闇の中に響くパウロとシラスの賛美に静かに耳を傾けたように、すべての人が沈黙する中で、世界の人々は静かに教会の賛美に耳を傾けているのです。

そして、終わりに、主にある兄弟姉妹である皆さん、主イエスは来られます。一度来られて、わたしたちの救いのために必要なすべてのことを成し遂げてくださった主イエスは、わたしはもう一度くる、すぐに来ると、わたしたちに約束なさり、その約束を速やかに果たそうとしておられます。主イエスはなんのためにもう一度来てくださるのでしょうか。
それはわたしたちの感謝、わたしたち人間のわざとしての感謝でなく、神から賜った感謝を受けてくださるためでなくて何でしょうか。わたしたちが顔と顔を合わせて主とよろこびを共にし、主の栄光を賛美するためでなくて何でしょうか。
そのとき、わたしたちは自分自身のすべてを主に捧げずにおれ無くされるでしょう。

それゆえに、今日という日に、ご自身を神のみ旨のために捧げられた主イエスに倣って、わたしたちも耳を開かれて、御旨を行うために自分自身を主なる神に捧げたいと思います。主がもう一度おいでになる日、主はわたしたちをご自身の手の内に迎え入れてくださるでしょう。

父と子と聖霊の御名によって。