聖日礼拝『キリストを得る』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書9章22~23節
新約聖書 フィリピの信徒への手紙3章1~11節
『キリストを得る』
フィリピの信徒への手紙は、喜びの書簡と呼ばれます。パウロはこの手紙で繰り返し、パウロ自身の主イエスにある信仰の喜びを語ると共に、読者であるフィリピの信徒に向かって、なんども喜びなさい、主にあって喜びなさいと語りかけています。
しかし、この手紙は喜びの書簡と呼ばれると同時に、獄中書簡とも呼ばれます。この手紙を書いたとき、パウロは犯罪人として捕らえられ、やがて裁判を受けるために獄の中に留置されていたのでした。その裁判の結果、彼は死刑になることさえ覚悟していました。
そのような獄中にあるパウロがどうして喜んでいることができるのでしょうか。
今わたしたちは、新型コロナウイルス感染を恐れて、様々な不自由を強いられても、我慢しながら生活しています。教会に、今回のウイルスによってもたらされている不自由な状態を、ある神学者は「教会のバビロン捕囚」と呼んでいます。わたしたちがこれまで享受していた様々な喜び、自由を奪われ、忍耐の日々を過ごさなければならない今の日々、帰るべきシオン、戻るべき都エルサレムに戻って礼拝が自由に守れる日まで、希望を持ち続けて忍耐のうちに過ごす、今は、バビロンに捕囚となって連れてゆかれた旧約のイスラエルの民が経験したのと同じ試練の時だというのです。
そうだとすれば、「教会のバビロン捕囚」を経験しているわたしたちは今、パウロと同じく囚われの身であり、獄中にあると言えるのではないでしょうか。自由を奪われ、拘束されて、狭いところに軟禁された状態で生きなければならないでいるからです。
しかし、獄中にあるパウロは自由を奪われ、拘束されて、狭いところに軟禁された状態に置かれても喜んでいるのです。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは今、様々な不自由と拘束を受けながらも喜んでいるでしょうか。ウイルスは感染します。不安、恐れ、悲しみも伝染すると言います。でも、喜びもまた感染するのではないでしょうか。わたしたちは、今日、喜びなさいと獄中から語りかけるパウロの喜びに感染したいと思います。そして、わたしたちもこの喜びを不安と恐れと悲しみに囚われているわたしたちの周囲の人々に感染させてゆけるならどれほど良いことでしょうか。
パウロは投獄によって多くのものを失ったはずです。囚人となった彼は人々と自由に会う機会を失いました。自分から出かけてゆく自由もありません。収入も途絶えたかもしれません。でも彼は喜んでいました。なぜでしょうか。
パウロは今回の投獄で多くのものを失ったでしょうが、彼が色々なものを失ったのはこれが初めてではありませんでした。キリストを信じるようになった彼はこれまでに、輝かしいキャリア、ファリサイ派の高名な律法学者ガマリエルの高弟という学歴など、かつて自分が誇りとしてきた多くのものを失ったのです。7節以下で彼はそう言っています。
彼はユダヤ人としての出生も、生い立ちも、受けた教育もこれ以上望めないほど申し分のないほどの経歴、誇るべきキャリアを持っていた人でした。それによって、さらなる高みを目指ざす可能性が与えられていた人でした。しかし、彼はそれを全部失いました。
どうして? それは「キリストのゆえに」であり、「キリストを得る」ため、「キリストのうちにいるものと認められる」ためでした。
パウロにとってそれまで有利だったこと、得であり、利益であったものは、今、パウロにとって「塵あくた」、すなわちゴミ屑や汚物のようなものだと言います。いいえ、ゼロであることを通り越して、損失、マイナスと考えるようにさえなったと言います。どうして、キリストを得るためには、これまでの経歴、誇りとしていたキャリアがマイナスになり、邪魔にさえなったのでしょうか。
「キリストを得る」、キリストを宝として獲得するために、多くのものを捨てるということについては、主イエスのお語りになった喩えの中に、マタイ13章の天国の喩えがありますが、それが少しここと似ています。キリストという宝を得るために、これまで持っていたものは輝きを失い、価値があると思っていたものも、つまらなく思える。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」のゆえに、これまで持っていたものを喜んで捨てようとする。それはパウロが得る宝、パウロが手に入れる宝であるキリストがすべてに優っているからです。
でも、さっきの天国の喩えでは、これまで持っていた持ち物は宝を手に入れるのにマイナスや、邪魔にはならなかったはずです。でも、パウロはここでは、自分の過去のキャリアはマイナスになった、邪魔だったというのはどういうことでしょうか。
9節でパウロは言っています。「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」。ここでは二つの義、正しさが対比されています。最初の義は、パウロが生まれながらに誇りとし、追い求めてきたものです。それに対して、後の義は、キリストを得ることによって、キリストのうちにいる者と認められることによって、神から与えられる義です。パウロは最初の義を捨てて、後の義を得ようとしました。後の義が素晴らしいので、最初の義を惜しげも無く、何の価値もないものとして捨てますが、それだけでなく、後の義、キリストの義にとっては、最初の義はマイナスになり、邪魔になるのです。
そのことについて少し別の角度から見てみたいと思います。
主イエスは、主イエスの弟子になりたい者、主イエスの後に従おうとするものに、非常に厳しいと思われるお言葉を言われました。ルカ14章26節にはこう言われています。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないならわたしの弟子ではあり得ない。」
一体、これはどういうことなのでしょうか。家族を、さらに自分の命までも「憎む」のでなければ、主イエスの弟子にはなれず、主イエスに従えないとはどういう意味でしょうか。
それは、主イエスに従う者に、主イエスが与えてくださる命があり、主イエスが与えてくださる新しい家族があるということです。主イエスが与えてくださる、その命、その家族は今わたしたちが持っている家族や自分の命と比べてはるかに優った命であり、家族なのです。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てたものは、その100倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
どういう点で優っているか、どういう点で今わたしが持っている命と、主イエスが与えてくださる命は違っているか。わたしの命はわたしだけの命であるのに対して、キリストが与えてくださる命は、すべての人と共に生き、また生かされる命である点が違うのです。家族にしても、わたしたちが執着する父母血肉に対する愛は、結局、閉ざされた愛であり、閉ざされた肉的な愛情で結ばれた家族です。しかし、キリストによって与えられる主にある家族である教会の交わりは、血筋によらず、民族、人種、国籍を超えて全世界に広がります。
パウロが追い求めていた義、正しさはパウロだけの義、正しさでした。こうして彼が追い求めていたのはパウロ個人の救いでした。彼の属するユダヤ民族、ファリサイ派の救いや栄光を追求するとしても、最終的にパウロがそこに入れるかどうかが最大の問題で、最終的に自分が救われないなら問題にならない、自分が救われさえすれば、あとはどうでも良いというくらいに、自分のことしか考えていなかったと言えます。でも、彼は変わりました。彼はキリストを追い求めます。それはキリストによって愛を知ったからです。彼を恵みによって義としてくださり、罪を赦してくださり、救いに入れてくださるキリストの義、神の義を知ったからです。それはパウロだけでなく、すべての人に差し出される神の義、恵みによってすべての人を救われる神の愛なのです。
この福音のゆえに、すべてを失っても、パウロは喜びます。またこの福音のゆえに、パウロはすべての人に言います。主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
わたしたちも喜びましょう。パウロはフィリピの教会の信徒たちを、わたしの喜びであり、冠である愛する人たちと呼びます。福音を喜びとし、イエス・キリストを喜びとするフィリピの教会の人たちは、パウロにとって、すなわち、フィリピの人たちと同じように、福音を喜びとし、キリストを誇りとするパウロにとって、喜びなのです。
わたしたちもお互いを喜びあいましょう。今、世界中の教会が苦しみにあい、バビロン捕囚のような、また牢に閉じ込められた囚人パウロように不自由な状況の中に置かれていますが、そのような状態にあっても、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、福音のゆえに喜びたいと思います。そのような兄弟姉妹が海を越えた世界中にいることは、わたしたちにとっての喜びですし、わたしたちがここで、しっかりと信仰に立ち、喜んでいるなら、そのわたしたちが、全世界の教会の兄弟姉妹にとっての喜びとされるでしょう。
父と子と聖霊の御名によって。