聖日礼拝『あなたは、わたしに従いなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書51章11節
新約聖書 ヨハネによる福音書21章20~25節


『あなたは、わたしに従いなさい』

第二次世界大戦で日本が連合国に降伏して、敗戦を迎える1945年8月15日の前夜、一人のアメリカからの婦人宣教師が、収容所で最後の夜を迎えていました。収容所内には日本が無条件降伏をするという噂が流れていました。収容所には、戦争が始まっても帰国しなかった何人もの宣教師がいたのでした。日本が敗戦を迎え、戦争が終わる、その前に収容所の外国人は全員処刑されるだろうという恐ろしい噂が、その夜、敗戦の噂に続いて収容所の中に流れました。
ミス・モークという婦人宣教師は、正直、本当に恐ろしくなったと言います。その夜、暗い部屋に一人たたずんでいると、その薄暗い部屋の片隅に一人の男の人が立っていたので、ひどく驚きました。宣教師が語った証を引用します。
「わたしが東京で抑留所にいた時のことです。日本が降伏したことを知りました。その時、わたしたちの抑留所には一つの流言・飛語が起こりました。長い戦争の後ですから、みんな精神も肉体も疲れていたのでしょう。抑留所にいるものは、明日はみんな銃殺されるという噂です。その晩、薄暗い電灯の抑留所は嫌な空気でした。わたしも長い戦いの後で、さすがにこわい思いが起こりました。これがわたしの実際の姿でした。そういう状態の時、がらんとした室の一隅に一人の男の人が立っていました。婦人ばかりのはずの、この抑留所に男の人がいるとは考えられないことです。さすがにわたしはギョッとしました。
その男の人はうなだれていましたが、やがて顔を上げて自分の方を見つめました。わたしは、その人が主イエスであることを認めました。彼の眼はわたしの眼の中にきました。(His eyes came into my eyes) そこでわたしは言いました。「どうぞわたしから眼を離さないでください」と。すると主イエスは、「いいえ、あなたが、眼をわたしから離さないでいれば良いのだよ」(No! Just keep your eyes on me.) と言われました。今日も、主イエスの言われた言葉を、大事に心に持っています。今日の時代は悪い時代です。今もって何が起こるかわかりません。しかしわたしたちの眼を主イエスにつけていようではありませんか。」

「あなたが、わたしから眼を離さなければそれで良いのだ。」
21章20節に、「ペトロが振り向くと」とありますが、このとき、ペトロは振り向いたのです。振り向くと同時に、彼の眼は主イエスから離れていったのです。
主はご自身に従おうとする人々に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)と言われました。ペテロは、主に従おうとして、もう鋤に手をかけていたのです。そのペトロが、後ろを振り向くのです。

すると、イエスの愛しておられた弟子がついてくるのが見えました。
ペトロと主イエスの間で、三度繰り返された問答は、この弟子が聞いているところでなされていたのでした。主イエスが、ペトロがどんな死に方で、神の栄光を表すようになるかを話された言葉も、また最後に、主がペトロに「わたしに従って来なさい」と言われた言葉も、この弟子は聞いていたことになります。そして、主イエスがペトロに言われた、わたしに従いなさいとの命令に、このもう一人の弟子は、すでに従い始めていたのでした。

その弟子は、主イエスが愛しておいでになった弟子と呼ばれる弟子です。この弟子は、20章以下に記される主の復活の記事において、そこにペトロが登場するとき、いつも伴走者とし姿を現しています。同じく、主イエスから愛され、主イエスを愛する弟子として、ペトロとこの弟子はどういう関係に立っているのでしょうか。ペトロは主イエスの弟子の中で第一の位置を占める人とみなされていましたし、自分でもそう思っていたでしょう。弟子たちの中で一番主イエスを愛していたのは自分であるし、それゆえ、一番愛されているのも自分だと思いたかったかもしれませんが、それに疑いを挟ませられる存在が、この弟子であったと思われます。

ペトロはその弟子を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問うて、その弟子と自分を比較しようとしました。
一方のペトロは主イエスに従って殉教の死を遂げようとしています。片や、この主の愛される弟子は、どうなるのか。それは、同じではなく、全く違ったものになるようにペトロには思われたのでしょう。

主イエスは言われます。22節。あなたが、自分とこの弟子を比較することは正しくない。この弟子がどうなろうと、それがあなたに何の関係があるというのか。あなたは、わたしに従いなさい。

ペトロにとって第一に、全てに優先させるべきことは、主イエスに従うこと、主イエスから目を離さないこと、主イエスにつながっていることでした。
ペトロ自身、最後まで主イエスに従えるかどうか、それは、彼がぶどうの樹に連なる一本の枝として、ぶどうの樹につながっていられるかどうかにかかっていました。ぶどうの枝が樹につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、何もできないと言われた通り、ペトロは主イエスにつながっていないなら、殉教の死を遂げることなどできないでしょう。

でもこのとき、ペトロは、それをしないで、主イエスから目を離して、もう一人の弟子を見ています。主イエスに自分が従うことを第一としません。主イエスにつながることを抜きにした状態で、自分が遂げる殉教の死と、もう一人の弟子の将来のことを比較しようとしています。
「あなたは、わたしに従いなさい」。これは、一番肝心なこと、ぶどうの樹につながることを抜きにしたまま、主イエスから眼を離したまま、自分や他の人が結ぶ実のことを比較しようとしたペトロに対する主イエスのお叱りの言葉でした。

主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。それはあなたがたが行って実を結ぶためである。」と言われました。
ペトロが実を結び、神の栄光を表せるのは、ペトロの力や信仰によるのではなく、ペトロをご自身の枝として生かしてくださるまことのぶどうの木である主イエスにつながっているからなのです。そして、その主イエスに繋がるものとされたのも、ペトロが主イエスを選んだからではなく、主イエスがペトロを選んでくださったからなのです。ペトロ以外の他の弟子についても同じです。主イエスがその人を選び、その人をご自身に繋がるぶどうの木として、ご自身に接ぎ木され、そのようにしてその人を生かし、その人を通して実を結ばせてくださるからです。

かつてペトロはガリラヤ湖の水の上を歩かれる主イエスをみて、わたしにも水の上を歩いてあなたのところに行かせてくださいと言って、水の上に立たれる主イエスに向かって、水の上を歩こうとしたことがありました。しかし、強い風に気がついて怖くなり、溺れかかったのでした。そのとき、主はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、引き上げてくださいました。主イエスはペトロに「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われましたが、ペトロはそのとき、主イエスから目を離したために溺れたのでした。

主イエスから目を離さないようにしましょう。わたしたちさえ、主から目を離さなければ良いのです。なぜなら、主がわたしたちから眼を離されることはないからです。
でも、わたしたちはペトロがしたようにしましば主イエスから眼を離します。そのとき、主から眼を離したために溺れかかったペトロを、主が手を差し伸べて引き上げてくださったように、主もまた私たちが主から眼を離した結果、溺れかけるなら、私たちに手を差し伸べて、わたしたちを捉えてくださるに違いありません。
兄弟姉妹、だからこそ、わたしたちは主から目を離すべきではないのです。

あなたは、わたしに従いなさい。わたしにつながっていなさい。わたしから決して眼を離さないようにしなさい。これが、わたしたちにも語られている主の御言葉なのです。

最後に、ペトロに対して、主が、あなたに何の関係があるかと言われたもう一人の弟子のことについて見ておきたいと思います。
この主から愛された弟子は、これまでも、ペトロに伴走するかのように、その姿が記されていました。この弟子が、ヨハネ福音書を書き残したのだと聖書は言っています。
証をした。24節。この「証をする」という言葉は、のちに殉教するという意味にもなりました。ペトロは確かに殉教者として、証を立てました。でも、もう一人の弟子は、福音書を残すことによって証を立てたと言われています。

ペトロが残した殉教という証も、もう一人の弟子が残した、このヨハネによる福音書という、かけがえのない、み言葉の証の書も、ぶどうの木である主イエスが結ばせてくださった、それを通して神の栄光が表される実でした。

みなさん、わたしたちはどうなるのでしょうか。わたしたちはいかなる証をたて、いかなる実を結んで神の栄光を表すことができるのでしょうか。主イエスに連なる小さな枝々に過ぎないわたしたちを通して、いかなる実が結ばれて、神の栄光が現されるようになるかを考えるとき、まず忘れてはならないこと、それは実を結ばせるのは自分ではないということです。わたしたちを通して実を結ばせてくださるのは主であることを忘れてはなりません。
わたしたちの眼を決して主から離してはならないのです。わたしたちの眼を主イエスから離して、自分の貧しさ、限界に向けてもいけません。またわたしたちの眼をペトロがしたように、兄弟に向けてもいけません。
他の枝がどんな実を結ぶかを気にかけることは間違いですし、自分の結ぶ実を卑下してもなりません。他の人が結ぶ実と比べて自分の結ぶ実を誇ってもいけません。

ペトロがペトロであり、もう一人の弟子が、もう一人の弟子であることが許されたのは、二人をそれぞれに選び、愛し、生かし、彼らを通して神の栄光を現してくださった主イエスの恵みによりました。

主イエスはわたしたち一人一人に言われます。
あなたはわたしに従いなさい。

父と子と聖霊の御名によって。