聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第54回「聖霊と悪霊」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇131編1~3節
新約聖書 ルカによる福音書 11章14〜23節

 

この説教原稿は未推敲のものです。本日の説教はこの原稿から離れて語られています。
そのことをお詫びかたがたおことわりします。

14節
ここに書かれているのは、11章の初めから書かれていた、主の祈りについての記事の続きです。11章の初めには「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」書かれていました。
弟子の求めに答えて、主イエスは「祈るときには、こう祈りなさい」と言って、わたしたちが主の祈りと呼んでいる祈りを教えてくださったのでした。

その祈りについての教えの後に、どうして見出しに「ベルゼブル論争」とあるような、悪霊をめぐっての言い争いが続くのでしょう。

今日読んでいる箇所の直前、主イエスの祈りについての教えは、13節の聖霊についての約束の言葉で締めくくられていました。聖霊、それはわたしたちに、神様に向かって「父よ」と呼びかけさせる霊のことです。「父よ」という呼びかけから始まる主の祈りはまさに聖霊によって導かれる祈りです。

わたしたちは祈りの最後に「アーメン」と唱えます。祈りは祈る者たちを一つにします。ですから、祈りの後に論争、言い争いの記事が続くのは場違いというか、そぐわない感じがします。

悪霊を追い出していただいた人は、それまで口が利けなかった人でした。口の利けない人は耳も聞こえないことが多いです。しかし、それまで耳が聞こえず、口も利けなかった人がものを言い始めました。

この人はこのとき、なんと言ったのでしょう。この人のうちにはそれまで悪霊が住んでいました。主イエスはこの人に聖霊を与えてくださいました。そうして、悪霊を追い出されたのです。悪霊に代わって聖霊がこの人に宿るようになりました。聖霊はアバ、父よと神さまに向かって呼びかけさせ、祈りの言葉を語らせる霊です。また聖霊は、イエスは主なりとの信仰を告白させます。

それが、それまで口の利けなかった人が語った言葉だったとすれば、それを聞いた周りの人々の反応は、皆が皆、好意的ではありませんでした。中には非難の言葉も混じっていました。15節です。

これと似たことが書かれている箇所があります。ヨハネの福音書の9章です。そこに生れながら目の見えなかった人が主イエスによって見えるようにしていただいた話が書かれています。人々はその人の話をなかなか信じようとしませんでした。そして、その人が自分の目を開いてくださった主イエスのことを神からの預言者であると信じるというと、ファリサイ派の人々はその人を罵り、会堂から追放してしまいました。

ここでも、それまで口が利けなかった人が語り始めたのです。目が見えなかった人が見えるようになったのと同じ奇跡です。しかし、その人の口を開き、悪霊を追い出してくださった主イエスのことを、ある人たちは悪霊の仲間だ、サタンだといいました。

口が利けなかった、耳も聞こえなかった人は、聖霊によって神の言葉を聞くように耳が開かれ、聖霊によって、祈りと信仰の言葉が語れるようになったのです。しかし、いま、主イエスのことをサタンだとか、悪霊の仲間だと言った人たちは、口の利けなかった人の語る言葉を聞けなかったのでしょうか。それこそ、口の利けなかった人に宿っていた悪霊がその人の耳を聞こえなくしていたように、主イエスを誹謗、中傷した人たちの中に、耳を聞こえなくさせる悪霊が宿っていたのではないでしょうか。

今日の箇所の終わりの23節で主イエスはこう語っておられます。

主イエスは聖霊によって悪霊を追い出し、人々の耳を開いて神の言葉を聞かせ、その心を明るく照らして心に信仰を生み出し、口でその信仰を言い表させ、アバ父よと祈らせてくださいます。こうして、主イエスは人々を父なる神のもとへと導き、集め、そこに教会が生まれます。しかし、主イエスに味方しない人たちは、主イエスを中傷し、悪魔の仲間だという人たちは、一体だれの手下になっているのでしょうか。

口の利けなかった人のうちに宿っていたのは、初めは悪霊でした。そして主イエスによって悪霊を追い出していただき、聖霊を宿すようになりました。人のうちに住んでいるのは悪霊か聖霊かどちらかだということになります。

教会は祈りの共同体です。神さまに父よと呼びかける兄弟姉妹の群れ、神の家族です。わたしたちは聖霊が宿っている聖霊の宮です。

今日の箇所と関わりを持つ主の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りです。
聖霊に導かれる神のこどもたちがサタンの誘惑に遭うことがあります。ペトロがそうでした。主イエスを裏切ったユダの中にもサタンが入りました。
わたしたちは、私たちの福岡城南教会が、聖霊の宿っている神の家である教会であると信じていますが、この教会もまた様々な試練をうけてきました。
試練を通してわたしたちの信仰が試され、鍛えられ、試練もまた恵みであったと思うことがあります。では、わたしたちに試練をお与えくださいと祈るべきでしょうか。
主イエスは「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈りなさいと言われます。それはなぜなのでしょうか。

「わたしたち」という言葉を今日、もう一度重く受け止めたいと思います。仮に、「私」に試練をくださるのであれば、喜んで試練を受けましょうと、自分に関しては言えたとしても、兄弟に試練をお与えくださいと祈れるでしょうか。
ペトロが試練を受けたとき、主イエスはペトロの信仰がなくならないように祈られました。その主イエスに倣って、わたしたちも兄弟姉妹が試練に遭うとき、一生懸命、その兄弟姉妹のために、その信仰が守られるようにと祈るでしょう。

さらに、わたしたちの父は、わたしたちがサタンによって試みられることを決して願われないお方だということです。主イエスは嵐の海で、船が沈みそうになっても、母親の胸に抱かれる幼子のように安らかでした。それは父なる神さまが、わたしたちをどんな試練からも守り、救い出してくださるとの信頼と確信があったからです。

世界に悪霊の働きであるとしか思えない言葉が飛び交う時代です。その中で、私たちもまた、悪霊の攻撃にさらされ、傷つき、敗北することさえあります。しかし、主イエスは祈ってくださいます。わたしたちが試みに遭わないように、また試みに遭うときは、サタンから守られるように祈ってくださいます。それゆえ、わたしたちも「わたしたち」を、神さまのこどもたちであるすべての兄弟姉妹を、悪しき者からお守りください、わたしたちを誘惑に陥らせないでくださいと祈りましょう。

そして、悪霊ではなく聖霊の導きのもとに、良き言葉を語り、いよいよ信仰から信仰へと進ませてくださいと祈りましょう。また一人でも多くの人たちに聖霊が授けられ、神の子とされ、主の教会が増し加えられてゆくことを祈りましょう。

主イエスの約束は確かなのです。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

父と子と聖霊の御名によって