永眠者記念礼拝 「父の家には住む所がたくさんある」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記 22章6〜14節
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章1~10節  

 

今日の永眠者記念礼拝において、わたしたちはこの地で、この礼拝堂でかつて共に礼拝を守っていた兄弟姉妹のこと、そして今は天に召された多くの兄弟姉妹を覚えています。

その中のある方々は、生前、ご自分の家族の救いを主に熱く祈り求めておられました。今日受付で皆さんに差し上げたパンフレットに書かれている村井斐さんもそのお一人でした。村井斐さんの書き込みがいっぱい入った愛用の聖書の扉には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という使徒言行録16章31節の御言葉が記されていました。この聖書の言葉を信じて、家族の救いのために祈ることが、村井さんの生涯の祈りでした。しかし、その祈りは村井斐さんが生きておいでになる間にはついに聞かれることがありませんでした。けれども、村井斐さんが亡くなられた後に、その祈りは聞かれて、今、村井斐さんの娘であられる村井澄子さんが固い信仰を持って礼拝に連なるようになっておられます。
村井斐さんと同じようにご家族の救いを祈りながらも、生きておいでになる間には、ご家族が信仰にまで導かれるのをその目で見ることがなかった方々がおられました。80歳を過ぎた高齢者になってから東京の柏木教会から、福岡城南教会に来られて、礼拝堂の最前列で礼拝を守っておられた池上昭子さんもそうです。池上さんもまた、池上さんが亡くなられた後に、家族が信仰に導かれるようになりました。かつて池上さんが座っていた場所に、今、池上さんの娘さんと息子さんが座って礼拝を守っておられます。

今日の聖書の御言葉で、主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言っておられます。神さまを信じる信仰、イエス・キリストを信じる信仰を持つとはどういうことなのか、聖書は、それをわかりやすいたとえを用いて教えています。例えば、わたしが主イエス・キリストを信じる信仰を持つということは、ぶどうの枝がぶどうの木につながることだといいます。主イエス・キリストがぶどうの木で、わたしがその木に連なる枝として生きること、生かされることが信仰だというのです。ぶどうの枝は木の養分と水分、木そのものの命に預かって生かされており、枝が木から離れれば、たちまちにして枯れてしまい、命を失います。そのように、信仰者はイエス・キリストにつながって、キリストの語りかけてくださる言葉、キリストからの約束、キリストがわたしたちに注いでくださる愛、キリストの赦し、キリストの命を恵みとして受けて生かされることなのです。それゆえに、すべては、わたしたちがキリストと繋がっているかどうか、その一点にかかります。その生きた人格的な繋がりを信仰と呼ぶのです。

ですから、キリストから離れてしまうこと、キリストとの生きた関係が途切れてしまうこと、それは信仰者にとっての最大の危機です。主イエスが、弟子たちに「心を騒がせるな。」とお語りになったのは、そうお語りになったこの時が、まさに、主イエスと弟子たちを固く結びあわせていた信頼の絆、愛の絆が断ち切られる、信仰の危機が弟子たちを襲おうとしていた時だったからです。

この夜、数時間後に、主イエスの一番弟子を自他共に認めていたシモン・ペトロは鶏が鳴く前に主イエスを3度知らないと言う、背信の罪を到底取り返しのつかない決定的な形で犯そうとしていました。主イエスを捨てたのは、ペトロだけでなく、弟子たち全員でした。一人残らず、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去り、主イエスから離れて行きました。

ペトロもその他の弟子たちも、この夜、信仰を捨ててしまった、そうして、弟子たちと主イエスとの関係は完全に切れてしまったと思われました。信仰とは、ぶどうの枝がぶどうの木につながることなのです。ぶどうの樹につながっていない枝は枯れて死ぬ他ないのです。

しかし、弟子たちは主イエスから離れ去り、主イエスとの関係を断ち切りましたが、主イエスは彼らとの交わりを断ち切られませんでした。弟子たちは主イエスの手を離しましたが、主イエスの方から、その弟子たちに差し出される手は変わることなく、彼らに差し伸べられていました。そして、キリストの手は彼らを捉えて離しませんでした。

3度主イエスを知らないと言うペトロに対して、主イエスは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたのでした。

ペトロはそれまで信仰は、自分が主イエスとの繋がりを保ち続けることであり、自分が自分なりの精一杯の真実を込めて、主イエスを信じ、主イエスにつき従うことだと思っていたと思います。その意味では、この夜、ペトロにとって信仰の可能性はゼロになったのです。
しかし、主イエスにとってはそうではありませんでした。ペトロが主イエスとの関係を絶っても、主イエスはペトロとの繋がりを断たれませんでした。信仰とは、ペトロをはじめ、わたしたち人間の方が、何度主イエスを悲しませ、背信的な罪を繰り返そうとも、それゆえ、主イエスから遠ざかって行ったとしても、キリストがペトロの信仰がなくならないように祈られたように、キリストがわたしたちを愛する愛を持ち続けてくださり、わたしたちの罪を赦してくださり、わたしたちとの絆を断たれることなく、保ってくださるところにあるのです。それが信仰なのです。

このような驚くべき神さまの救いの恵みは、主イエスの十字架の死と復活において最もはっきりと現されています。主イエスが十字架の死に追いやられ、ついに息を引き取ってしまわれた時、神さまは主イエスを助けられなかった、お救いにならなかった。これですべては終わってしまったと誰もが思ったのでした。しかし、そうではありませんでした。神さまは主イエスを復活させられました。

主イエスは、弟子たちを離れて遠くにゆくのは、弟子たちのために場所を用意するために行くのだと言われたのです。主イエスが場所を用意するというのはどういう意味か、それがここから浮かび上がります。

主イエスはわたしたちを離れてゆかれることを通じて、十字架の死においても、また信仰の危機においても、どんなときにも主イエスがわたしたちと共にいてくださることを知らせてくださいました。これこそが、主イエスが弟子たちのために、また、主イエスを信じるわたしたちのために場所を用意されたということの意味だと思います。

父なる神の家に住む場所を持つのは、本来、神の独り子なる主イエス・キリストだけです。それゆえ、天にある父なる神の家には、独り子なる主イエス・キリストのためのたった一つの部屋しかないのでしょうか。イエス・キリスト以外にだれも、そこに住むことはできない、そこにはキリストのために用意された部屋しかないからというのでしょうか。
主イエスははきりと言われます。「わたしの父の家には住むところがたくさんある。」

父なる神の家に住むことを許されるのは、父なる神のこどもたちです。父の家には住むところがたくさんあるということは、父なる神がご自身のこどもとして受け入れてくださる者が大勢いるということです。それらのこどもたちの住む部屋を用意されたのは、主イエスですが、そこに住むことをわたしたちに許してくださったのは、わたしたちを父なる神のこどもたちにしてくださった主イエスなのです。主イエスが十字架の死から復活されて、天の父の家に行かれたように、主イエスはわたしたちを死の中から引き上げて、父なる神のこどもたちとして父の家へと迎え入れてくださいます。

父なる神のこどもたちとして父の家へと迎え入れてくださるのはわたしたちだけでしょうか。いいえ、そうではありません。わたしたちだけでなく、わたしたちの愛する家族をも、天の父の家へと迎え入れてくださることを信じなさいと、言われます。部屋は少ないのではありません。多いのです。

みなさん。わたしたちの家族とは誰でしょうか。それは血のつながっている人々だけではありません。主イエスが兄弟となってくださった人たち、それによって父なる神のこどもとされる人々はわたしたちの家族です。

主イエスが兄弟となって父の家に迎え入れてくださるすべての人々がわたしたちの家族なのです。人種の違い、立場の違いを超えて、主イエスが愛されたすべての人が、わたしの兄弟であり、家族です。

主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。

わたしたちは、今日、血の繋がりのある身近な家族の救いを信じましょう。わたしたちの生きている間にその約束が実現しなかったとしても、神さまを信じましょう。
さらに、世界中の人々が、人種の違い、立場の違いを超えて、主イエスが愛されたすべての人が、わたしの兄弟であり、家族であること、その家族が、真実な和解と赦し合いと、平和のうちに生きる世界が必ず来ることを信じましょう。

父と子と聖霊の御名によって。