聖日礼拝 「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書 52章11〜12節
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章1~14節  

 

「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」(4節)

主イエスがこの言葉をお語りになったのはいつ、どのような時だったのでしょうか。この直後、主イエスはゲッセマネの園で捕らえられ、翌朝には裁判にかけられて、十字架刑に処せられようとしていました。この言葉は主イエスの地上での最後の夜に語られた言葉でした。

主イエスはこのとき、弟子たちを後に残して、まさにこの世を去って行こうとしていたのです。世を去ってゆかれる主イエスが一体どこに行かれるのか、弟子たちには、その行き先がわかっていると主イエスは言われますが、本当に弟子たちにそれがわかっていたのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

主イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」と言うと、すかさず弟子のトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と答えています。

トマスは正直な人です。心に思ったこと、感じたことをそのまま口に出します。この時もそうでした。主イエスがどこに行かれるのか、わからずに不安だったのは何もトマスだけでなく、他の弟子たちにもわかっていなかったのでしょう。主イエスがいなくなって、自分たちが後に取り残されるようになったら、どうなって行くのか不安を感じない弟子は一人もいなかったに違いありません。

今日読んでいる聖書の箇所の直前に、主イエスとペトロの間に交わされた問答が記されていまし。13章36〜38節。

ここで問われているのも主イエスがどこへ行かれるのか、主イエスの行かれるところに、弟子たちがついてこられるのかどうかでした。

主イエスのためなら命を捨ててついて行くと言い張るペトロに対して、「わたしの行くところに、あなたは今ついてくることはできない」、と主イエスは言われました。しかし、「後でついてくることになる」。(36節)

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

「わたしがどこへ行くか、その道をあなた方は知っている」。そう主イエスが語られたときに、ご自身が世を去って、行こうとしているのがどこかは、だれの目にも明白なことだと思っておられるように感じられます。主イエスが世を去って行こうとしているのは、天の父なる神のもと以外でありようがないからです。

しかし、主イエスの行く先が父のもとであり、それがだれの目にも明白であったとしても、天の父のもとへゆく道もまた、だれの目にも明白だと言えたでしょうか。主イエスが天の父なる神のもとへとのぼる道は、どこに、どのような形で開かれていたでしょうか。

道というのは、出発点があり、最後は到達点、終点があります。主イエスにとって父のもとにたどり着く道は、どういうルートを辿る道だったのでしょうか。

私たちがクリスマスに歌う賛美歌の257番には次のように歌われています。父なる神のもとから、人としてこの世界に生まれて来られた主イエスは、3節で「貧しい馬小屋から、苦しみの十字架へ、歩まれた」と歌われているように、主イエスの辿られた道は、反対者から受ける敵意や迫害、人々から受け入れられない孤独、様々な危険、試練や逆境が待ち受ける厳しい難路の連続だったといえるだろうと思います。

主イエスが父なる神のもとを目指して進まれた道は、エジプトを出て約束の地カナンを目指したイスラエルの民が、40年間荒れ野を旅した時の苦しみと試練の道に重なっています。しかし、荒れ野のイスラエルの民の進む道が、どれほど困難と苦しみに満ちていても、昼は雲の柱、夜は火の柱がイスラエルの民から離れることがなかったように、そのようにイスラエルの民の40年の旅路において、主なる神がイスラエルとともにいてくださったように、主イエスご自身が10節、11節で言っておられる通り、父なる神が主イエスと共におられたのです。父なる神は主イエスにとって、目指す目標に、はるか遠くにおられて、主イエスを待っておられるだけでなく、主イエスの旅路において、その苦難と試練のただ中において、十字架の死の谷を行くときにも、共にいてくださるお方なのです。

主イエスにとっての道が、父なる神のもとへと向かう道であり、父なる神がその道の終着点であると同時に、父なる神のもとに辿り着くまでの、一歩一歩が、父なる神が共に歩んでくださる道でもあったこと、そのことは、弟子たちにとっても、主イエスが道であるというときに同じように言えるのです。

改めて考えてみたいのですが、道というのは、一本の辿って行く線、そこを一歩、一歩進んでゆくことによって、目的地に辿り着くルートではないのでしょうか。東海道であれば、日本橋から53の宿場を通って京都に至る道です。でも、主イエスが道だということは、わたしたちの前に続いている一本の道が示されているということ以上のことを意味しています。

主イエスは弟子たちを後に残して去ってゆかれます。主イエスは弟子たちに先立って父なる神のもとへと行かれます。しかし、去ってゆかれる主イエス、弟子たちに先立って父のもとへと去って行かれる主イエスは、なんと弟子たちと共にいてくださいます。父なる神が主イエスと共に歩まれたように、弟子たちが、父なる神のもとへと進んでゆこうとするときに、主イエスは弟子たちと共に歩んでくださいます。

主イエスは天に去ってゆかれ、今、天の父のもとにおいでになられます。そうでありながら、弟子たちと共にいてくださるのです。弟子たちは、彼らとともにいてくださる主イエスによって、天の父の家に向かって、そこをはっきりとした目標として歩むことができます。

主イエスが道であるとは、地図が広げられて、目的地までの道筋が示されて、あとは自分で旅してゆきなさいということではないのです。主イエスが道であるとは、主イエスがわたしたちの先を進み、また、しんがりを守ってくださる中で、父なる神のもとへと進むことだからです。

ペトロは初め「なぜ、わたしはあなたの後について行くことができないのですか。命を捨ててでも、あなたについて行きます」と言いました。しかし、そう言ったペトロは主イエスのために自分の命を捨てるどころか、反対に自分の命のために主イエスを捨てました。

信仰を捨て、主イエスを捨ててしまったゆえに、神さまからも見捨てられて当然だったのは、ペトロだけでなく、他の弟子たちも同じでした。彼らは主イエスが離れてゆかれたために孤児として取り残されただけでなく、主イエスと神様を捨てたために、神様からも見捨てられる他ない孤児だったのです。しかし、主イエスはその孤児同然のペトロや弟子たちのために、父なる神の家に場所を用意しに行かれ、戻ってきて、弟子たちを主イエスのおられるところに迎えてくださいました。

放蕩息子が父の家から遠く離れた異国の空の下から、もう一度父の家のある故郷の空を目指して歩き始めたとき、父は家の門に立って息子の帰りを待っていました。主イエスが弟子たちのところにもう一度戻ってきて、弟子たちを迎えると言われるのは、放蕩息子の帰りを待って門に立ち尽くす父の心を携えて、父の家に向かってトボトボと歩む息子を迎えにきてくださるようなものです。

主イエスが道です。主イエスは迷い出た羊、失われた硬貨を探しに行く道であり、帰ってくる放蕩息子を迎えに行く道です。

心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい。

わたしたちは父なる神さまの家を目指して、この世の旅路を一歩、また一歩、歩みながら生きています。わたしたちは、今日という日に、今という時に、主イエスが私たちと共にいてくださる平和、私たちと共に歩んでくださる平和、主イエスがわたしたちの目標である父の家に辿り着くまでをわたしたちを導いてくださり、励ましてくださり、力づけてくださる、この恵みの一日、一日を喜び、感謝したいと思います。

父と子と聖霊の御名によって