聖日礼拝 「見ないのに信じる人は、幸いである」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇36章10節
新約聖書 ヨハネによる福音書20章24~29節

 

見ることと信じること
復活の主イエスがトマスに言われた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という、この最後の言葉はどのように受け止めたら良いのでしょうか。
前から読んでくれば、そこにはトマスの不信仰に対しての非難、叱責が込められていると受け取れるかもしれません。
24節、主イエスの12人の弟子のうち、トマスだけが復活節の夜、主イエスが弟子たちにご自身の姿を現されたときに、そこに居合わせませんでした。他の弟子たちから「私たちは主を見た」と言われても、彼は、頑なにそれを信じようとせず、自分の目で見なければ信じないと言い張ったのでした。
一週間後、主イエスが再びご自身の姿を現されたとき、今度はそこに居合わせたトマスに対して、主イエスは「わたしを見なさい、わたしに触れるが良い」と言って、最後に「信じないものではなく、信じるものになりなさい。」「わたしを見ないのに信じるものは幸いである。」と言われています。
他の弟子達の言うことを信じようとしなかったトマスの不信仰を主イエスは咎められたのだ、信仰というのは、見て信じるものではない。見なければ信じないというのは不信仰であって、見ないのに信じるのが本当の信仰だと主イエスが言われたと、ここを受け取る、そのような受け止め方があり得ると思います。
しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。見ることと、信じることとは対立する、相容れないのだと主イエスは言われたのか、聖書は信仰と見ることは両立しないと言っているのでしょうか。

見ることによって信じる幸い
19節からもう一度この箇所を読めば、どう書かれているでしょうか。ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子達は、復活の主イエスを見て喜んだのでした。彼らは主イエスを見て主イエスを信じたのでした。29節の言葉を疑問文として訳さないで、「あなたはわたしを見て信じている」と訳す聖書もあります。最初の夜、主イエスを見て信じた弟子達にしろ、次の週に遅れて信じたトマスにしろ、彼らは主イエスを見て信じることを許された、幸いな人たちであったと言えないでしょうか。
ですから、29節の本来の意味は、弟子達のように主イエスを見て信じた人たちは幸いであるが、それだけでなく、そのような体験をもはやし得ない人々、それゆえ見て信じることはできないけれど、見ないまま、聞くだけで信じるようにされる人々もまさるとも劣らず、幸いだと言うことと読むことができます。つまり、ここでは、見ることと信じることが対比されているのではなくて、復活の主イエスを見て信じた弟子達と、弟子達の言葉を聞いて信じている、次の世代の信仰者の対比だと言うことです。
古代教会にポリュカルポスという使徒教父とよばれる人たちいました。この人は、主イエスの生き証人、復活の目撃証人である使徒ヨハネにaって、使徒ヨハネから直接、「わたしは主イエスを見た」との証を聞いた人です。
主イエスの生き証人、復活の目撃証人である使徒たちは、やがて一人一人と世をさって行きました。その中でヨハネが最後まで生き残ったと言われていますが、そのヨハネもやがて世を去って行ったのです。でも、使徒たちのように主イエスを直接見たのではない、使徒たちの語る言葉を聞いて信じた幸いな信仰者たちが生まれたのです。そして、その連鎖は、世代を越えて、幾世代も、幾世代もたえないで、今に至るまで続き、これからも続いてゆくことでしょう。わたしたちを含めたこのような主イエスを見たわけではなく、主イエスを見た人たちの言葉を聞いて主イエスを信じる人たちの幸いを主イエスはここで語っておいでなのだとここを読むのです。

わたしたちの信仰への問いかけ
先週の説教、特にその最後に、私たちが自分自身に対する問いかけとして受け止めたいと思ったことがありました。それは、主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われたのですが、それに倣って、主イエスは果たして、「わたしを信じるものを見る者は、わたしを見たのであり、わたしを見ることによって、父を見るのだ」と言われるのかどうかということでした。

 今申しました、使徒教父、すなわち主イエスを見た弟子たちから主イエスの御言葉を聞いた人々は、弟子たちを通して主イエスの言葉を聞きましたが、同時にそれを語る弟子たちを見ているのです。その弟子たちを見た人たちは、それによって主イエスを見たと言えるのではないでしょうか。人々が主イエスを信じる信仰に導かれたのは、御言葉を聞くと同時に、それと共に主イエスを信じる弟子を見たことによってだったのだと思うのです。

人々は主イエスの御言葉を語る弟子たちの言葉を聞くだけでなく、その彼らの生き方、死に方を見て、主イエスを信じたのです。そこに、主イエスを見て、主イエスを信じたのだと思うのです。ですから、主イエスの「わたしを見たものは、父を見たのだ」とのみ言葉に倣って、「わたしを信じるあなた方を見るものは、わたしを見るのだ」と主イエスは言われるのだと思うのです。

その場合、主イエスを信じる私たちのような信仰者を見ることによって、主イエスや、また主イエスの父なる神を知らない家族や、私たちの周りの人たちが、私たちを通して主イエスを見たり、知ったり、さらに主イエスの父なる神を知ったり、見たりするとすれば、それは私たちの良い行い、立派な行い、信仰者の名に恥じない、模範的な生き方を言うのでしょうか。そうでない、失敗、恥、罪の数々は、躓きにこそなれ、周囲の人々がそれを見ないようにしてほしいことになるのでしょうか。

人を見てはいけない。信仰者といえども、その人を見たらつまずくしかない。特に罪びとの集まりである教会に至っては、教会を見たら神さまなど信じられなくなる。だから、目を神様にだけ向けなさいと言われるのを聞いたことがおありでしょう。そして、その通りだと思って来られた方がおられるかもしれません。

見ることと信じることは相容れない、対立する。信仰は見ることではない。見て信じることはできない。否、見たらかえって信じられなくなる。だから見たらいけないのだ。

そのような主張は正しいのでしょうか。そのような主張は聖書的なのでしょうか。聖書は本当にそのようなことを言っているのでしょうか。いいえ、聖書はそれと正反対のことを主張していると思います。
弟子達は見て信じたのでした。彼らが見たことは、良い面、明るい面、肯定できる一部分のみではなく、悲しいこと、恥ずかしいこと、あってはならないようなこと、理解できないことも含めて、すべてをありのままに見ながら、それらを通して、主イエスを見て信じ、父なる神を見たのです。そして父なる神を信じたのです。

ですから、わたしたちを見る人は、私たちの一部だけを見るのではなく、ありのままのわたしたち、恥も、罪も、見て欲しくない、躓き以外の何物でもないことを含めた私たちを見ながら、そのような私たちが救われていることを見るのではないでしょうか。

主イエスを見て、父なる神を信じることは、先週も申しましたが、恵みなのです。目の見えない人が自力で見えるようになることは不可能です。同じように神さまが、恵みによって信じることができるようにしてくださらないなら、信じることはできません。私たちが主イエスを見て、父なる神が見えるようになるのは、見えなかった目を主イエスが見えるようにしてくださったとしか言いようのない恵みの出来事です。それと同様、主イエスを信じるわたしたちを見て、主イエスを見る人は、主イエスがそれを見る信仰の目をその人に与えてくださって、初めてそれを見ることができるのです。主イエスによって、その目を開いていただいて、主イエスを信じる人々を見て、主イエスを見る人、さらに、そこに見る主イエスを通して父なる神を見る人たちは、なんと幸いでしょう。

私たちはそのような人たちを見ています。それはなんと言う幸いでしょうか。
わたしたちは弟子たちのように生前の主イエスを直接肉眼で見たり、触ったりはできませんが、弟子たちが残した聖書の言葉を通して、そして、それを信じた人々を見て、主イエスを見ています、そして主イエスを信じています。

そして、さらに主イエスを信じるわたしたちを見る人が、それによって主イエスを信じるようになる、そんな幸いがあるということです。私たちが受け継いでいる幸いは、わたしたちを見る人たちが、主イエスを信じて幸いを受けるようになるような幸いなのです。
そして、新しく信仰に招かれ、幸いを受ける人は、さらにその人を通して、他の人々が幸いを受け継いで行くような幸いを受けるのです。

父と子と聖霊の御名によって