聖日礼拝 「体を住みかとしていても、体を離れているにしても」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書37章1~9節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(二)4章16~5章10節

 

先週の月曜日、北九州から筑豊にかけて、戦争の末期、韓国から強制的に炭鉱労働者として日本に徴用されてきた人々の足跡をたどる旅をしました。東アジア平和センター・福岡と西南学院大学神学部の共催によるこの平和ツアーには、西南学院大学の学生たちとわたしたち教会関係者、合わせて25名ほどが参加しました。
このツアーに二人の方がガイドとして、付き添ってくださいました。午前中は在日大韓基督教会小倉教会の朱文洪牧師、午後からは日本基督教団の川本良明牧師でした。福岡を出発して小倉教会について一日のツアーを始めようとするとき、朱牧師はこう言われました。
「わたしたちは今から、戦時中、強制連行された人々の足跡をたどろうとするのですが、それは墓地から墓地を巡ることにならざるを得ないのです。」
今から80年前に生きていた人々の記憶、それを手繰り寄せようとするとき、わたしたちに残されている手立ては、その人々が葬られている墓を訪れることしかないと朱牧師は言われたのでした。
最初に訪れたのは、北九州にある永世園という納骨堂でした。それは、在日大韓基督教会小倉教会の朱文洪牧師の前任者であった崔昌華牧師が設立した納骨堂で、崔昌華牧師が筑豊の方々のお寺に粗末に、ある遺骨は石炭箱に放り込まれるような状態で置かれていた韓国人炭鉱労働者たちの遺骨を移設して納めた納骨堂でした。遺骨が粗末に扱われる様子を見た崔昌華牧師は、生きているときに人間扱いされなかった人たちが、死んでからも人権を奪われていると言われて、その人々の尊厳を少しでも回復したいとの願いをもって納骨堂を建て、ご自分の遺骨も遺言によってそこに納められたのでした。
炭鉱で命を落とした人々の遺骨に囲まれて納められている崔昌華牧師夫妻のお骨の下に、小倉で在日韓国人の方々と共に生涯を送ったカナダ人のマッキントッシュ宣教師の遺骨がありました。マッキントッシュ宣教師は、自分が愛した、最愛の友人である在日韓国人たちと死んでからも一緒にいたい、そして、苦難と辱めに満ちた人生を送ったこの人たちが、終わりの日に神様の栄光を受けるときに、自分も一番近くで、その栄光に共にあずかりたいとの遺言によって、そこに納骨されているということを聞きました。

旅は永世園から、さらに小田山墓地というところへと続きました。そこは、戦争が終わった1945年の9月、北九州の若松から韓国へ帰国する人々を乗せた船が、台風によって沈没し、海岸に流れ着いた多数の水死体が集団で埋葬された墓地でした。小田山墓地のある北九州から筑豊に回り、最後は、夕日が傾く頃、荒れ果てた茂みの中にある墓地の、立派に建てられた日本人の墓石の周りに、小さな石が申し訳程度に置かれている、韓国人労働者の埋葬の場所を訪れました。日向墓地と呼ばれるその墓所を訪れる韓国人同胞はあまりの光景に号泣されると聞きましたが、同胞ではない日本人の私の胸も張り裂けそうになりました。最初に訪れた永世園にも名前のわからない「不明」と書かれた遺骨があって、胸を突かれる思いがしましたが、最後に訪れた日向墓地に埋葬されている人々は、名前はもちろん、そもそもその人たちの墓が存在していることさえわからない状態でそこに葬られていました。一体、なんと言う名前の、韓国のどこから来た人たちが、どのような死を遂げて、どのようにしてそこに葬られたのか。また誰がその人たちを無残な死に至らしめ、また尊厳のかけらもないような仕方で葬ったのか。

創世記の4章に「アベルの血が土の中から主なる神に向かって叫んでいる」(4章10節)と書かれていますが、筑豊の荒れ果てた墓地の片隅に人知れず葬られている人たちが土の中から、今、神様に向かって、またわたしたちに向かって叫ぶ叫びが心に響きました。

私はその旅の締めくくりに、求められて、ツアーに参加された人々の前で一言、今日皆さんにお配りした「認知症・汝の見知らぬ隣人を愛せよ」で読んだことに思いを重ねながら、次のように述べました。「認知症は人々から記憶を奪い、自分でも自分が誰かわからない状態になることさえある。しかし、そのように、自分で自分が誰だかわからなくなっても、そのようなわたしたちを神は訪ねてくることをおやめにならない。終わりの日に、神さまがここに葬られている人々を訪れてくださることを私は信じる。そして、わたしたちが今日、この場所を訪れたことは、神さまが終わりの日にこの人たちを訪れてくださることの前触れであり、印であると思う」、と。

このツアーから帰ったとき、私は以前読んだ「三度の海峡」という帚木蓬生の本を読み返しました。この本はまさに韓国から徴用され、炭鉱労働者として働かされた人々のことを書いた本でした。今回読み直して、そこに最初から最後まで、炭鉱労働者を葬った墓のことが全体を貫くモチーフとして書かれていたことに改めて気づかされました。私は、かつてこの本を読んで深く感動し、この本が記憶に刻まれていたはずだったのに、今回、その土地を訪れ、実際に墓を目にするまでは、そこに書かれていたことが、自分の心と魂と、さらに体の中に、本当には刻まれていなかったと思いました。実際にその地を訪れて、そこに身を置いて初めて、そこに書かれていることが、ちょうど釘や杭を打ちこむように自分の体の中に打ち込まれた気がしました。

今日読んでいる4章18節に、「見えるものは過ぎ去ります」とあります。過ぎ去ってゆく見えるもの中には、私たちが地上で生きる人生の歩みが当然含まれますが、それだけでなく、炭鉱労働者を葬った見る影もないような墓もまた見えるもの、そして過ぎ去ってゆくものの中に含まれていると思います。しかし、わたしたちはその過ぎ行く見えるものではなく、それを超えた、目には見えない、過ぎ行くことのない、永遠に存続するものに目を注ぐのです。それは終わりの日に、神さまがわたしたちを訪れてくださり、わたしたちに辱めと苦しみに代えて与えてくださる栄光と慰めです。

パウロがここで見えるものと見えないもの、過ぎ行くものと過ぎ行かない永遠のものとを対比しながら語るとき、彼の心の思い、心情を二つの言葉で言い表しています。
彼は言います。「私たちは落胆しない」。また言います。「私たちはいつも心強い」。
炭鉱労働者たちが味わったと思われる不安、悲しみ、絶望、不受理と苦しみの数々を思えば、その境遇に置かれた人々も、それに想いを馳せる私たちも「落胆」せざるを得ないのです。しかし、パウロがまさにこの世界と人生の「落胆」せざるを得ない現実に目をそらしたり、目をつぶったりしないで、それを直視しながらも、なお、目には見えない神さまの与えてくださる救いのゆえに「私たちはいつも心強く」あることができるといいます。

この「心強い」という言葉を主イエスは繰り返し、お語りになりました。
中風の人に、「安心しなさい、あなたの罪は赦される」と言われ、長血を患っていた女の人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われ、嵐の中で船が沈みそうになって恐れる弟子たちに「しっかりしなさい、私だ、恐れることはない」と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われた、これらの言葉が、いずれも、主イエスが私たちに「心強くありなさい」と語りかけてくださるお言葉なのです。

パウロの心強さは、わたしたちにはこの地上の「体」、見えるものが過ぎ去っても、よみがえりの体が与えられると言う神の約束から来ています。主イエスは体を持ってよみがえられたのです。復活の主イエスは幽霊ではなく、体をお持ちでした。わたしたちも「霊の体」と呼ばれる体に復活するでしょう。それは神さまが天において私たちに与えてくださる新しい体のことです。そもそも体というのは、生命を活動や行為を通して表現する媒体とでも言えるでしょう。つまり、体は生活や行動と切り離し難く結びついています。

そして、天においていただく復活の体は、今、地上で私たちが持っている体と切り離せない仕方でつながっています。ですから、パウロは9節、10節で言います。私たちは、天の栄光の体に目を注ぎ、それを目指しますが、その栄光を目指す私たちが地上の体をもって行う一つ一つのわざ、語る言葉が、天において主に喜ばれるように、地上でも主に喜ばれるものでありたいのです。終わりの日に神さまのもとで栄光を喜び、感謝することを望むわたしたちは、今、ここで神さまを喜び、神様に喜ばれることを行い、喜ばれることを語りたいと願うのです。地上の体も神さまの栄光を表す手段でありたいのです。罪と死に支配されていた状態にとどまるのでなく、聖霊によって新しく生かされる体でありたいのです。それは地上ではほんの少しばかりの始まりを経験するに過ぎなくても、天における完成を目指したいのです。

終わりの日に、多くの人が私たちにこう言うでしょう。あなたはあの時、私のもとを訪ねてくれましたね。私が認知症で、自分が自分でもわからなくなっていた時にもあなたは私を訪ねてくれた。私の墓など、誰一人訪れてくれなかったときにもあなたはそこを訪ねてくれた。監獄に囚われて、誰も訪ねてくれなかった私を、あなたは訪ねてくれましたね、と。

反対に、残念でした、あなたは結局、一度も私のところに来てくれなかった。待っていたのに。あなたは私のことなど知ってもくれなかった、知ろうともしなかった。そう言われる人もあるのです。わたしたちはそのどちらの生き方をしているでしょうか。

でも、私たちは落胆しないのです。神さまは私たちを訪れてくださるお方だからです。神さまからの訪れをわたしたちは喜び感謝しています。さらに神さまが、私たちをも用いて、私たちが神さまの存在を携えるようにして、寂しい人たち、悲しい人たち、忘れ去られている人たちを訪ねさせてくださるのです。

しっかりしなさい、勇気を出しなさい。あなた方は神様に喜ばれ、愛されているのだから、心を強くして、神様を愛し、神さまが愛されるすべての人を心から喜んで、愛しなさい。

父と子と聖霊に御名によって。