聖日礼拝 「天は神の栄光を物語る」 説教 川越 弘牧師
旧約聖書 詩篇19編1~15節
新約聖書 マタイによる福音書6章12節

 

ダビデは「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(19章1,2節)と歌います。世界は神の栄光を顕(あらわ)しております。神はご自分の栄光のため、ご自分を鏡に写し出すようにして天と大空を創造されたのです。世界の初めは闇で混沌としていましたが、神は「光あれ」と宣言されて、光が世界を輝かせたのです。その後に、「天に光るものが、昼と夜に分け」られたと記していますから、神が最初に造り出した光は、太陽や月や星の光ではなく、神の愛と憐みと義と知恵と希望の光です。神ご自身の喜びと讃美の光です。「光あれ」という宣言から、神御自身の栄光のために太陽は輝き、空や山や森や木や草や川や海が造られたのです。そして私たち人間が神の形に似せて造られたのです。私たちの身体とその器官は、奇跡的な神の手の業の中にあります。子供が生まれるのも奇跡の業です。教えなくとも赤ちゃんはお母さんのお乳を吸い、生きることを心底から喜びます(詩編8:3)。地上の生き物や最も小さな昆虫さえも、巧みな神の能力と知恵によって造られ、生かされているのです。人間も自然も動物や昆虫や海の生物すべてが、神の栄光を喜び、神を讃美するために造られたのです。

私たち人間においても、神の栄光のために生きるように律法を与えてくださいました。8節には「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」(19章)と歌っています。律法をまとめると、第一は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」です。もう一つは「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」です。神は、人間が生活するために秩序を制定されたのです。神を信じない者にとっても、万人ひとり残らず「自分を愛するように隣人を愛する」という律法のもとで生きるようにされたのです。私たちには罪がありますから、律法に生きる能力を失っています。にもかかわらず、神は人間が社会生活をするために、神の律法を行わざるを得ないようにしておられるのです。人は自己利益と自己栄誉のために生きようとしても、社会や隣人に奉仕をするという労働をしなれば生きて行けないようになっております。こうして神の律法は人間の社会を支えておられるのです。

トーマス・セドラチェクは「善と悪の経済学」(280頁)の中で、アダム・スミスの「国富論」を取り上げて、「見えざる手」について語っています。「我々は食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである」。さらに「各人が社会全体の利益のために努力しようと考えているわけではないし、自分の努力はどれほど社会のために役立っているかを知っているわけでもない。自分の利益を増やすために…生産物が多く売れ、品物の品質の価値が良くなるために労働しているに過ぎない。だが、それによって『見えざる手』に導かれて、自分が全く意図していなかった目的を達成することになる。…その目的とは、社会の利益と人間の生活と福祉を高めるということである」(「国富論」第一編第二章・第四編第二章)と言っています。

この世の人々と私たちは、罪があるために「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という律法に生きる能力を失っております。にもかかわらず、神は私たちが社会生活をするために、律法を行わざるを得ないようになさっておられるのです。詐欺や霊感商法の類は別ですが…。どんな職業でも隣人の生活が益になるためにあります。金儲けをしたいと思うならば、人が生きるのに役立つ働きをするか、人々が喜ぶ物を生産することです。私たちのどんな仕事でも、どんな労働でも、どんな活動でも、隣人の生活と福祉と健康と、隣人の自立の向上のためにあります。ほとんどの多くの人が自分の生活のために、自分の利益と名声のために生きていても、社会に生きる隣人を「愛する奉仕」をするという律法を行わなければ、生きることが出来ないようになっているのです。

ダビデは9節で「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える」と歌っています。私たちはそれぞれ職業をもって生きております。主婦の場合は、主婦という職業があります。そんな中で、どんな仕事でも「自分を愛するように隣人を愛する」ようにして労働することです。この世の多くの人々は、自分の金もうけのため、生活のために、あるいは名声を拡げるために働いているかも知りません。しかし「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛する」者の生き方は、「隣人を愛する」ために労働することです。その結果として、自分の生活が支えられるのです。その結果、報酬を受けるのです。
私たちは、世の中の様々な利権に巻き込まれる中で生きております。そこから距離を保つことです。この世の労働や運動や活動をすることは、前向きに、積極的に、全力投入をすることです。しかし、この世の世俗の川に流されないことです。世俗に存在の根拠を置くと、名誉心・金銭欲・上下意識から来る差別感情・復讐心・羞恥心・敵対感情・羨望心等によって、世俗の川の中に溺れてしまいます。

しかし律法に生きる者は、金銭欲や虚栄という地上の愛着や欲望にとらわれないで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛せよ」という律法を、いつも心の中に置くことです。私たちの本国は天にあります。私たちは、この地上は仮の宿です。この地上の生活は流浪の旅です。いつも目を天に挙げ、そこから「自分を愛するようにして隣人を愛する」ようにして、自分に与えられた労働をすることです。律法に生きることは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(11節)からです。

しかし、13節にダビデは「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」と祈り求めています。これはどういうことでしょうか。パウロは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:9,10)と語っています。しかし実際は、自分が人の上に立って隣人をさげすむような「知らずに犯した過ち、隠れた罪」から離れないのです。また「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と私たちに勧めていますが、現実は、喜んでいる者を嫉妬したり、泣いている者に「それ見たことか」と、心の中で笑う思いがすぐに芽吹くのです。ここから、いかに自分が自己中心であるか。いかに自分の思いあがりに溺れている邪悪があって、迷路と曲がりくねった脇道に迷い込んでいることか。その「隠れた罪」を知らされるのです。

私たちは幻想をもって自分を見ております。自分を過信するという幻想です。それは、自分の中にある「隠れた罪」です。自分の中にもう一人の私がいるのです。神を敬う自分をほめている私です。人に喜ばれることを行っている自分をほめている私がいるのです。自分の罪を自分で許そうとする私がいるのです。それが自分の心の中に潜んでいる自己愛という「隠れた罪」です。その自分を愛する愛に身を委ねて自分の罪を許そうとしているのです。そのためにダビデは「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」と、祈り求めているのです。

14節に、「あなたの僕を驕(おご)りから引き離し、支配されないようにしてください。そうすれば重い背きの罪から清められ、わたしは完全になるでしょう」と祈り求めております。私たちは律法に生きようとする時、いかに自分の驕(おご)りに溺れきっているか、を知らされるのです。

この自分の思い上がりから切り離すために、主イエスは「主の祈り」を教えてくださいました。その中に「我らが罪を赦すごとく、我らの罪を赦したまえ」という祈りがあります。その意味は「私は、誠実な思いで隣人の罪を赦しますから、神よ、どうか私の罪を赦してください」です。人の罪を赦すことは簡単なことではありません。自分に罪を犯す者に怒りを覚えるのは、自分の中に正しさがあると思うからです。そのために、なかなか赦せないのです。そんな自分の思い上がりから引き離すために、「我らが罪を赦すごとく、我らの罪を赦したまえ」。こう祈れと命じられるのです。赦しても自分の罪が残っている私たちです。それでも罪あるままに赦せとおっしゃるのです。

キリストはこうおっしゃいます。「あなたが隣人を赦すという決意、あなたの赦そうとする行為は不十分である。あなたが隣人を赦そうとしてもどうしても赦せないということを、私(キリスト)は十分知っている。だから私(キリスト)は、あなたの罪を持った赦しの行為をそのまま赦すのだ。人を赦すことのできないあなたの赦しの行為を、私(キリスト)は赦したものとみなすから、人の罪を赦すことができないと言ってあなたは赦しの行為をやめるな。自分はどうしても赦せないと言って、赦そうとする努力をあきらめるな。赦せないながらも赦し続けよ。私(キリスト)はあなたの行為を赦した行為と見なす。だから隣人を赦し続けよ。そして私(キリスト)に赦し祈りを求めよ」とおっしゃるのです。出来なくても精一杯踏み込んで行え、出来ないあなたを赦す。だから出来なくても赦し続けよ、とおっしゃるのです。このキリストの約束を信じて実行することにしか、隣人と共に生きる希望がないからです。それがわずかであっても実行しようとする時、隣人に勇気を与えることになるのです。だから出来なくても行なえ。そして、人の罪を赦すことの出来ない自分の罪を率直に認めて、「我らの罪を赦したまえ」と祈り求めよ、とおっしゃるのです。こうして主イエスは「自分の驕(おごり)りから引き離し」てくださるのです。「重い背きの罪から清められて、完全に」してくださるのです。

ダビデは「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」(15節)と祈ります。神は神ご自身の約束を私たちに語ってくださり、私たちにその神の約束を祈り求めよと、命じておられるのです。藪から棒に口から出まかせに、ただ自分の思いを祈るのではありません。神が約束をもって私たちに告げられる時、その神の約束を私たちに祈り求めるように呼びかけておられるのです。その祈りは聞かれるのです。

私たちは毎日の労働において、自分のために働くのではなく、また義務として働くのでもなく、どんな職業であっても「隣人愛」を実行することです。隣人が向上するために、隣人の生活が有益となるために、隣人が健康になるために、隣人が自立するために労働ことです。その働きは、神のために働くことになるのです。キリストは、出来なくても実行しなさい、と命じられるのです。キリストは、あなたの罪を赦して実行したものとして見做すから、実行できなくても実行しなさい。実行できないあなたを赦す。だから「我らの罪を赦したまえ」と祈って、実行しなさいとおっしゃるのです。この祈りは必ず聞かれるのです。神が与えてくださる約束だからです。それゆえにダビデは「どうか、私の口の言葉があなたの御旨にかない、私の心の思いがあなたの御旨に置かれますように。主よ、私の岩、私の贖い主よ」と祈るのです。

 

門安の言葉 九州中会議長 川越 弘