聖日礼拝 「造り主の姿に倣う新しい人を身につける」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 サムエル記上15章22~23節
新約聖書 コロサイの信徒への手紙3章1~11節
わたしたちはクリスチャンになるとき、教会に入るとき、洗礼を受けます。
古代の教会では、洗礼は、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのように、水の中に体を沈めて洗礼を受けていましたが、その際、洗礼を受ける人は、それまできていた服を脱ぎ捨てて、水の中に入り、水から上がると、真っ白な新しい衣をまとったと言われています。
今日読んでいる、9節後半と10節に、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」と書かれていますが、ここで言われている「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」というのは、まさに洗礼を受ける人が、それまで着ていた服を脱ぎ、それを脇に置いて、新しい白衣を身にまとったことと重なります。
その洗礼について、パウロはガラテヤの信徒への手紙で、それはキリストを着ることだと言っています。そこを開いて一緒に読んでみたいと思います。3章27節(346頁)です。
そうすると、今日読んでいるコロサイの信徒への手紙3章10節で、身に着けなさいと言われる「新しい人」とはキリストだということになります。
洗礼において身に着ける新しい人がキリストならば、では、それまで着ていた服、脱ぎ捨てるべき「古い人」とはだれのことでしょうか。
それは最初の人、アダムのことです。アダムは、神に造られましたが、神に対して罪を犯し、神に背を受けて、神から離れてしまった人間の先祖です。わたしたちも神から離れ、神に背を向けて生きるなら、アダムと同じ「古い人」だと言わざるを得ません。
洗礼において脱ぎ捨てる「古い人」はそもそも神に造られた人間だった。神は人間をご自身の形に、その姿に倣う者として造られたのです。しかし、その神の形が損なわれてしまった。
その損なわれた神の形を脱ぎ捨てて、キリストを着ることによって、もう一度、造り主の姿、神の形を持つ人間に回復されること、それが洗礼の意味であると言えます。
つまり、コロサイ書はキリストを着なさいというところを、造り主の姿に倣う新しい人を着なさいと言っているのですが、それによって、キリストこそ造り主の姿に倣う新しい人でありと言ったのです。この造り主の姿、形であるキリストを着ることによって、私たち人間は本来、神によって創造された本当の姿を回復することになる、それが、私たちが洗礼を受ける意味なのだと言ったのです。
みなさん、洗礼を受けること、キリストを着ることは、神が人間を創造された真の姿、目的に沿う人間になるためなのです。
しかし、どうでしょうか。この日本では洗礼を受ける人は人口のわずか1%ほどに過ぎないために、人々は、洗礼は、一部の人だけが受けるものなのだと思っているのではないでしょうか。洗礼は特殊な人のみに関わることだと思っているとすれば、そうではないということです。洗礼は、普遍的なこと、全ての人間に関わることなのです。人間は等しく神によって神の姿、神の形に造られています。その本来の姿、形に回復されるのが洗礼です。そうなれば、1%とか、10%と言った問題ではありません。まさに100%に関わる問題なのです。
先ほど読んだガラテヤ書3章でも、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」(28節)とキリストという新しい人を着るとき、キリストを纏う者の間に違いや、差別はないと言われ、今読んでいるコロサイ書3章11節でも、洗礼を受けた者たちの間に区別がないと言われています。
わたしたちは、教会の中には差別がないこと、お互いの違いをこえる一致が神から与えられることを信じています。でも、この一つであることは、教会の中だけで通用する、特別な恵みだと思うなら、それは違います。この一致はそもそも、人間がひとしく神から創造されているということからくる一致なのです。
例えば、人種が違う。白人か黒人か。これは歴史的にも現実的にも大きな違いではないか。でも黒人も白人も、肌が赤いと言われるインディアンも、わたしたち黄色人種も、すべては神によって創造されたものです。神に創造されたのでない人種があるでしょうか。それゆえ、神から創造されているという点において一つなのです。
文化の違い、言語の違い。これも非常に大きく、深刻です。でも、そもそも、どんな言語であれ、どんな文化を築こうとも、それを用いる人間は神に創造された人間であることに違いはないはずです。すべての言語、文化は神から頂いた賜物です。神から受けていないものは何一つありません。その点で一つなのです。
わたしたちはキリストの教会の中に、神から与えられた素晴らしい一致の賜物があることを喜んでいますが、この一致の恵みは、本来、創造主であられる神にあって、全ての人々に関わる一致を目指しているものなのです。キリストの教会の中に文化的多様性、人種的多様性があるのは、それを通して創造主なる神の姿が、ありのままの姿において示されるためなのです。もし、キリストにある一致、教会の一致が、狭い、一部の人たちにしか通用しない、また一部の人しか相手にしないような一致になるなら、それは本当の教会の一致、キリストにある一致ではありません。創造主なる神に向けて開かれた一致、閉ざされない一致が、キリスにある一致なのです。
今日の説教は、イエス・キリストこそ「造り主の姿に倣う新しい人」であるという説教です。わたしたちの救い主であられるイエス・キリストにおいて、わたしたちのうちに造り主の姿、神の形が回復されるということです。
ということは、イエス・キリストを通して、わたしたちは神の形とは何か、造り主の姿はどういう姿をしているかを見るということです。その場合、姿、形と言ったからといって、目に見える顔形、容貌、背が高いか、低いかと言ったことを言うわけではありません。
姿、形は見えるものです。ですから、それは、人々の前に明らかになる生き方、倫理と言ったらいいでしょうか。前後を読むと、生き方、心の思い、口から出る言葉が並んで書かれています。そこで人々が見たり、聞いたり、感じたり、受け止めたりする人格、生き様、振る舞い、言葉のことだと言えます。
それゆえ、造り主なる神の思い、言葉、行為が、造り主の形、姿だと言って良いと思います。
そして、主イエスはそれを体現される、主イエスの思い、言葉、行為、生き方において、造り主なる神の姿、形があらわされている。
今、主イエスにおいて、主イエスの人格と生き様を通して、はっきりと私たちの面前に突きつけられる、神の形、姿、として特徴的だと思われる、3つの場面、3つの言葉をあげたいと思います。その3つと言うのは、私にとって、これまでずっと、受け入れることが困難で、躓きとなる言葉だったのですが、おそらくみなさんにとっても、そうではないかと思います。
第一は、マルコ福音書8章34節以下の言葉です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
主イエスの生き方は、ここにはっきり示されています。主イエスは父なる神から十字架を負わされたとき、それから逃れること、十字架を捨てようと思えば、捨てることができたはずです。しかし、主イエスは十字架を捨て去ろうとなしない。十字架を拒否すれば、自分を救えたはずです。しかし、自分の命を救おうとはしないのです。
これは新しい人です。古い人はそうはしないからです。
創造主なる神の姿、形がここに示されているのです。自分の命を救おうとしない人です。なぜか。創造主なる神は、無から有を呼び出すお方として、命を与えてくださったし、与え続けておられるし、命をたとい失っても、また与えてくださることを信じているからです。
古い人なら、命は失えば終わりだと思い、必死に命にしがみつくでしょう。
第二は、ヨハネによる福音書15章13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
主イエスの生き方、愛は、自分を愛するように隣人を愛する生き方です。自分が死んで、友が生きるなら、友の中に自分の命が生き続けることを喜びとします。
古い人は友のために命を差し出したりはしません。これも新しい人です。
第三は、マルコ福音書10章21節です。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」
主イエスにおいて示されている造り主の形、姿は、ここにもはっきりと示されています。わたしたちはこの造り主の形、姿に倣う生き方ができないと思って、主イエスの前を悲しみで顔を曇らせながら、立ち去っていった人に同情するかもしれません。でも、その人にとっての神、その人が拝んで、礼拝していたのは富でした。この人は造り主の形、姿に造られた人間なのに、造られた、朽ちてゆくものに過ぎない富に縛られ、拘束された不自由な奴隷になってしまっています。これが古い人の姿です。
しかし、新しい人はそうではありません。自分に委ねられた富は神さまが造られたものであり、神さまは、わたしたちに神さまに倣って、進んで与え、喜んで施し、貧しい人、困窮の中にある人をそれによって助けることを喜びとします。そのように生きて、神さまに倣うよう求めておいでになることがわからないのが、惨めな、哀れむべき人が、古い人の姿です。
「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」
みなさん、どうか、わたしたちの信仰理解、教会についての理解がもっと広くされて、キリスト者になると言うことが、また教会に連なって生きるということが、万物を創造された神によって真実に生きることであり、普遍性を持つこと、それゆえ、すべての人と共に生きる新しい世界を追い求めることだと言うことに、わたしたちの目が開かれますよう、主の導きを祈りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。