聖日礼拝 「人は生ける神の生きた形である」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編115編1~18節
新約聖書 テモテへの手紙(一)1章12~17節

 

 

この詩編115編は、いつの時代に書かれた詩なのか、どのような歴史的背景を持って書かれているのか、それについては、はっきりとしたことはわからないのですが、1節と2節を読むと、おおよそ、どのような時代、どのような状況の中で書かれたかが浮かび上がってまいります。

ここで「わたしたち」と言っているイスラエルの詩人は、周囲にいる国々の人々から、「彼らの神はどこにいるのか」と嘲りを受けている、詩人が属する主なる神の民の姿は、周りの人々の目にどのように映っていたかといえば、救いがなく、人々から蔑みと同情を受けるほど悲惨な姿だった、彼らの信じている神など、この世界のどこにも存在しないと思われていたということです。

それゆえ、ある人たちは、この詩をバビロン捕囚の時代と結びつけます。
バビロン捕囚はイスラエル民族にとって屈辱的な出来事でした。王国は滅んでしまった。ダビデの子孫である王はバビロン王ネブカドネザルの捕虜となって獄に繋がれている。イスラエルの神を礼拝するエルサレム神殿は焼け落ちてしまった。

神の民イスラエルを見る周りの国々の人々は、もし、イスラエルの神が生きているのであれば、どうしてイスラエルの民がこんなに惨めな状態に置かれているのか。イスラエルの悲惨と無力さは彼らの神がいないことの証ではないかと言い立てるのです。

そのとき、詩人はこう祈るのです。
「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名に栄光がありますように」
わたしたちは屈辱の中にあっても、主よ、御名が崇められますように、主の御名に栄光が帰されますように。主の御名がほめたたえられますように。

この詩人の祈りは、イスラエルの神と、主の民を嘲る周囲の国々の人々が礼拝する偶像との比較へと続いていきます。

わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。
しかし、彼らの神々は偶像に過ぎない。

バビロンの人々は自分たちの軍事的勝利、優勢と支配を勝ち誇り、それは彼らの神々の勝利であると誇っていたのでしょう。

しかし、詩人はそれに対して、目を天に向けます。地上の目に見えることを超越して、目には見えなくても天いいます神が、地上のすべてをみ旨のままに行なっておられるといいます。そして、偶像の虚しさ、無力さを痛烈に批判します。目に見えている偶像はまさに木偶の坊である。そして、最後にこう締めくくります。

偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。偶像礼拝者は、拝んでいる偶像に似た者、それと等しいものとなる。(8節)

偶像礼拝に対する批判は、人々が拝んでいる偶像が空しいものであるというだけでなく、それを拝む者が偶像と同じく、話せず、見えず、聞けず、自分の意思で行動できないものとなることにあります。

偶像を礼拝する者たち自身、話すこと、見ること、聞くことができているではないかと言われるかもしれません。しかし、彼らが語る言葉は無内容、空疎で無意味なのです。指導者であっても、現実を見ているようで何も見えていない、聞いているようでいて、その実、何も聞こえていない者がたくさんいるのです。

目に見える偶像、それがもたらしたかのように人々が思っているバビロンの繁栄、軍事的覇権、帝国支配は、天にいます神が、み旨のままにすべてを行なっておられる、その支配のもとにあるのものです。それが彼らにはまったく見えていなし、それを知ることもないのです。

9〜16節
イスラエルの民は、地上のすべての出来事を超越し、すべてを支配しておいでになる神を、まことの神とし、そのお方に依り頼むように語りかけられます。

そう呼びかけられる相手として、3つのグループが呼ばれています。イスラエルの家、アロンの家、そして最後に「主を畏れる人よ」とあります。それが9節以下、12節以下に2度繰り返されています。

イスラエルの家とは主の民であり、アロンの家は祭司であり、民の指導者であり、三番目の「主を畏れる人」というのは、イスラエルの民に属さない異邦人であって、主なる神を信じるようになった改宗者を指すと言われています。

この詩は冒頭から、イスラエルの詩人が周囲の国々の人々から、その惨めさを嘲られ、お前の神はどこにいるかと責め立てられていました。そのような民を見て、まさか、そのような惨めさの中にある民の神を、イスラエル以外の異邦人が、信じるようになるなどということは想像しがたいことではないでしょうか。

しかし、神さまのご計画は反対なのです。
「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名に栄光がありますように」と祈る祈り、それが周囲に改宗者を生み出すのです。
主イエスと一緒に磔になった犯罪人の一人は、主イエスが救い主の栄光に輝く姿を見て回心したのではありませんでした。また主イエスの十字架の最後を見届けたローマの百人隊長も、主イエスの栄光をみて、この人はまことに神の子だったと告白したのではありませんでした。

最後に17節にみ言葉を聞きましょう。
死者は主を賛美しない。裏返せば、わたしたちもまた、こうして生きてはいる、しかし、生きてはいても、主を賛美することがないならば、それは本当に生きているのではなくて、死んでいるに等しいのです。
反対に、わたしたちが、たとい、死ぬほどの悲しみや、苦しみにあっても、なお、そこで神さまに向かって、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名のゆえに、栄光をあらわして下さい」と祈り、主の御名を賛美するなら、わたしたちは生きるのです。

今のわたしたちも、この詩人が祈ったのと同じ祈りを祈っています。

日本のクリスチャンは人口の1%にも満たない。教会には若者がいない、こどももいない。日本キリスト教会には牧師もいない。日本キリスト教会の神はどこにいるのか。福岡城教会に将来は果たしてあるのか。この教会の神はどこにいるのか。わたしたちの周囲から、またわたしたちの教会の中からもそのような声が聞こえてきます。

そのような嘲りの声に囲まれる中で、わたしたちも、わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われると、詩人とともに歌うのです。それがわたしたちの信仰の応答です。

日本にリバイバルが起こってクリスチャン人口が10%になり、若者が教会に溢れかえっても、それが、神さまがわたしたちと共におられる証なのではありません。そう思う人にとっては、10%といった数字が偶像になっているのです。目に見えるものを信じているにすぎません。

天にいますわたしたちの神が、み旨のままにすべてを行われることを信じましょう。目には見えなくても、主が生きて働いてくださることを信じる信仰、それがわたしたちの信仰です。

父なる神は、十字架の主イエスにおいてわたしたちと共にいてくださいます。十字架の主イエスは権力も、富も、栄光のひとかけらさえお持ちではありませんでした。すべてを剥ぎ取られ、裸にされ、弱さと恥の中で、何一つ持っておいでになりませんでした。それは、死にゆくわたしたちと共にいてくださるためだったのです。そして主イエスはわたしたちを愛する愛のゆえに、ご自身の命をわたしたちに与えて下さいました。この十字架の主イエス・キリストにおいてわたしたちは救われています。

わたしたちは生きるときも、死ぬときも、ただ、この十字架の主イエス・キリストの御名を賛美しましょう。

父と子と聖霊の御名によって。