聖日礼拝『罪なき者の血を流してはならない』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書33章1~11節
新約聖書 マタイによる福音書21章33~46節

今朝読んでいるエゼキエル書に登場するエゼキエルという預言者は紀元前587年にユダヤの国が、都エルサレムの陥落とともに滅亡したとき、バビロンにいました。その10年前、紀元前597年に、ユダヤの国がバビロンに降伏し、ユダの王エホヤキンをはじめ3千人が捕囚となってバビロンに引きゆかれましたが、エゼキエルはその中にいました。彼はエルサレムと祖国ユダの滅亡の知らせをケバル川のほとりの難民キャンプにおいて聞いたのです。

エゼキエルはその捕囚の地バビロンで召された預言者でした。主は彼を、イスラエルが滅亡してゆく、その歴史の節目において預言者としてお召しになったのです。それは7節にありますように、イスラエルの全家を見張る見張りのつとめを与えられたということでした。

預言者として、イスラエルの家を見張るつとめを与えられるとは、どういうことかは、エゼキエル書 33章1〜6節に語られています。
イスラエルの町は城壁に囲まれていましたが、その城壁の上に作られた物見櫓から、敵の襲来を見張るのが見張りの兵士でした。人々は普段、城壁の外にある畑やら、牧草地に出て行って、そこで仕事をしますが、一旦、敵が町に攻めてきたなら、城壁の中に逃げ込み、城門は固く閉ざされるのです。城壁によって敵の攻撃から守られるためです。
人々がいざという時に城壁の中に逃げ込めるように、城壁の外の野や畑に出ている人に、敵の襲来を告げるのが見張りの役割です。昼も夜も絶えず目を覚まして見張り、一旦、敵の姿を見つけたら、角笛を吹いて警告を鳴らすのです。
見張りが角笛を吹いて警告を発したにも関わらず、角笛の音を聞いても、その警告を無視して、城壁の外にとどまり続ける人は、自分の命を落としたとしても、それは警告に耳を傾けなかったその人の責任です。
しかし、もし、見張りが眠り込み、敵の襲来に気づかなかったり、あるいはそれを見たのに角笛を吹かないで、見張りの責任を果たすことを怠り、その結果、住民が突如として襲ってくる敵により殺されてしまった場合、その流された血の責任は見張りにあります。

エゼキエルはイスラエルの家を見張る見張りとして、イスラエルの国に迫り来る危険を察知し、警告を発するつとめを与えられていました。しかし、エゼキエルが発した警告にユダの人々は警告に耳を傾けなかったので、その結果、ついにエルサレムの都は陥落し、ユダ王国は滅亡したのでした。でも、主がエゼキエルを見張りとして立てて、見張らせたのは、危機と滅亡だけではなかったのです。彼はその滅亡の中から復興し、再び立ち上がる希望と将来をも見ていました。そして主は、その救いのみ言葉をも、崩壊に向かって進む民に預言者の口を通して語らせておられたのです。

旧約聖書におけるこの預言者とイスラエルの家の関係は今日、教会と世界の関係に重ねることができます。教会は神からこの世界を見張る預言者としてのつとめを与えられているのです。この世界に危機や滅亡が迫るのを見たなら、教会は世界に対して警告を発する責任を神から委ねられている、見張りなのです。

私たちは今、教会に限らず、一般的にこの見張りとしての役割の大切さ、警告を発することがどんなに大事であるかを、2011年3月11日に起こった震災、津波、原発事故のことを思い起こすときに、思わざるを得なくされます。それと同時に、警告がなかなか聞かれないこと、過去の教訓が生かされないという重たい現実をも目の当たりにしています。

例えば、今、わたしたちは、ロシアによるウクライナ侵攻という出来事に心底、驚愕し、悲しみ、心を痛めていますし、このようなことが新たに繰り返されることが絶対あってはならないことを思わされています。ですから、ロシアがウクライナを攻撃したようなことが、東アジアにおいて、中国が台湾に攻め込むというという形で繰り返されないよう、今こそ、世界の全ての国々が立ち上がって、ロシアの暴挙を止めなければならないと思います。そのようなことを企てる国や権力者に足しては強い警告が発せられるべきだと思います。

そのような思いを抱いていた私は、先日台湾の方から言われたことが心に深く突き刺さりました。警告が発せられなければならないと言うのなら、本当は2014年にロシアがクリミヤ半島に侵略し、そこを奪取したときに、世界がこぞってそれを非難し、やめさせなければならなかったのに、そのとき世界はロシアの暴挙を黙って許してしまった。それが今回のロシアの行動につながっていると台湾の人々は思っていると言われました。警告が発せられるべきときに、警告がなされてこなかったとの指摘です。

教会は預言者として、見張りのつとめを与えられている。では教会はこれまで、見張りとしての役割を果たしてきたのか、また今もそのつとめを果たしているでしょうか。
エゼキエルの同時代の預言者たちの中には、見張りとしてのつとめを果たしていない預言者、目を覚まさなければならないときに、居眠りをし、泥棒が来ても吠えない、役立たずの番犬のように、危機が接近しているのを見ても角笛を吹こうとしない預言者がいました。
教会はコロナ以来、社会全体が不要不急なことは自粛し、中止するようになる中で、教会が教会として礼拝を守り続けようとすれば、一体、それはなぜなのか教会の外から問われ、また教会も自らに問わざるを得なくされてきました。教会が礼拝を守るのは、隣人と社会を危険にさらす行為であり、自分自身をも危険にさらすことであるのもわきまえず、自分のことばかり考える教会エゴイズムの現れなのでしょうか。

今日、私たちがみ言葉によって示されることは、教会が神から委ねられている、この世界のために見張りのつとめを果たすこと、目を覚まして世界に迫っている危機、滅亡の危険を見張り、それを察知したら警笛を吹き鳴らすことは、不要不急なことではないと言うことは誤りであり、反対にこれほど緊急性の高いこと、必要なことは世界にとってないと言うことです。

見張りとしての教会が神から語るように命じられるのは何でしょうか。
7節「あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」。 8節「わたしが悪人に向かって、悪人よ、お前は必ず死なねばならない、というとき、あなたは悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らなければならない」

預言者エゼキエルと同時代に、イスラエルの見張りとして立てられた預言者としてエレミヤがいました。彼は主が語られていないのに、主はこう言われると言って、自分の見た夢を語る偽預言者と厳しい対決を強いられました。そのエレミヤが主なる神の口から聞いて語った警告がエレミヤ書7章に記されています。
人々が神殿に来て、「主の神殿だ」、「主の神殿だ」と言いながら守っている礼拝は主なる神の目にどう映っているのか。神殿で礼拝を守る人々が、盗み、殺し、姦淫し、偽証し、貪り、偶像礼拝を続けている。そんなことをしていながら、神殿に来て礼拝を捧げて、自分たちは救われたと言っている。そのような礼拝の場である神殿は主の目に強盗の巣と映っている。その人々に対して主ははっきりと告げられるのです。そんなことを続けているあなたたちは必ず死ななければならない。

預言者が警告を発したにも関わらず、イスラエルの人々は、王も国民もそれに耳を傾けようとはしませんでした。それは具体的には二つの反応の仕方で現れました。
一つの反応は、それを聞いたイスラエルの人々が、33章30節以下に書かれているように、警告を聞くには聞いても、聞くだけで何もしないという反応でした。聞いても、聞き流すのです。聞くだけで何ら行わないのです。
もう一つは10節以下に書かれているように、自分たちの罪が危険と滅びを招いてしまった、此の期に及んで、自分たちはもうダメだ、助からない。滅んで行くほかないとい言って嘆くばかりでした。そこには信仰も希望もない、絶望があるのみでした。

こうして、イスラエルの家の見張りとして立てられていた預言者エゼキエルは、警告に聞き従おうとしなかったイスラエルの人々が滅亡してゆくのを目の当たりにするのです。今日の教会もまた、世界に対して警告しても、それが聞かれず、破滅への道をたどることを防げないのではないかという思いにかられるかもしれません。
9節には預言者が警告しても、人々が聞かない場合、預言者の命は救われるとあります。
ということは、今日、世界に迫る危機と滅亡を教会が世界に対して警告したにも関わらず、その警告に世界が耳を傾けずに、滅亡に至ったとしても、そのとき、教会は預言者としてのつとめを果たしさえすれば、自分の命は救うということなのでしょうか。預言者も教会も、悪人が、また耳を傾けようとしない世界が、その悪のゆえに滅んで行くのは仕方がない、自分さえ救われたらそれでよいと思ったり、考えたりすると言う意味なのでしょうか。果たしてそれで本当に良いのでしょうか。
いいえ、決してそうではないと思います。なぜなら、預言者が、また教会がきく最終的な神の言葉があるからです。悪人が、また世界が神に聞くことを拒んで滅んで行くことは、主なる神の最終的な御心ではないからです。

預言者エゼキエルはユダとエルサレムの滅亡の前に、見張りとして、警告を発しました。その警告は、聞き従わないなら滅びるという警告に尽きるものではありません。この警告の中には、主の愛と、憐れみと、恵みに満ちた、ねんごろな語り掛けが含まれていました。
「悪の道を離れなさい。このまま進めばあなたは必ず死ななければならない。しかし、わたしはだれの死をも喜ばない。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰りなさい。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出しなさい。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは翻って、生きよ。」(18:31)

預言者が、また教会が自分の命を救うという場合、救いによって得られる命とは、11節で「わたしは生きている」と言われる主の命のことです。まことのブドウの木であるイエス・キリストに繋がる枝である私たちは、キリストが生きられるので、私たちも生きるようにされるのです。預言者が、また教会が生かされる命は、主なる神の中にあって生かされる命のことです。
神は、今も、危機に直面する世界に向けて教会を通して語りかけられます。新しい心と新しい霊を造り出しなさい。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは翻って、生きよ。
神は教会を通して、今日、この世界に呼びかけられます。私たちが神に立ち返り、翻って生きることを許される神の中にある命を受け、それに生きるようにと。
この主なる神のめぐみへの招きに、世界の希望と命がかかっているのです。

父と子と聖霊の御名によって