聖日礼拝『福音の確かさと望み』 説教 内田 聡長老
使 徒 書 ヨハネの黙示録21章1〜4節
福 音 書 マルコによる福音書16章19~20節

 

 

本日は、澤牧師が福岡筑紫野教会で総会議長を務められますので、長老が説教を担います。よろしくお願いします。
福岡城南教会では昨年11月から、“伝道”を覚えて礼拝して参りました。それは今年も引き継がれていく課題です。本日の説教は、福岡筑紫野教会の祈祷会で行った奨励を基にしています。それは「伝道とは何か」をテーマとした奨励で、私自身の学びを交え少し自由に語りました。今回も朗読された聖句の釈義に囚われず、語りたいと思います。

“伝道”と言う時、わたしたちは何を伝えるのか?イエス・キリストの福音です。福音とは新約聖書のギリシャ語でエユアンゲリオン、嬉しい知らせという意味です。わたしたちは嬉しい知らせを教会で聞きました。その喜びに満たされると、嬉しい知らせを誰かに知らせたくなります。嬉しい気持ちが溢れ出す。これが“伝道”の本質でしょう。
では、何が嬉しい知らせなのか? これについては、前回の祈祷会で大いに反省させられました。私にとって嬉しい知らせとは「イエス・キリストの復活」です。しかし、それは全てのキリスト者が前提としているものではありませんでした。福音を自分の言葉で語るということが“伝道”には欠かせません。まず、私の福音についてお話したいと思います。

私がキリスト者となった要因として、大学で受けたキリスト教学の講義があります。それは「イエス・キリストの復活」と題したものでした。講義では、イエス・キリストの復活が歴史的事実か、或いは象徴表現か、という二者択一を排し、出来事として理解するということを学びました。一般学生を対象としているので、教会の教理を教条的に押し付けることはできません。「知るとは何か」から出発し、自然科学、社会科学、人文学の違いを理解した上で、哲学や歴史学から神学へのアプローチを行い、現代におけるイエス・キリストの復活の意義を考えました。担当された森泰男教授はとても博識で、大学受験のために詰め込むだけだった知識を、見事に結び付けてくださいました。その後、福音書に描かれたイエスへの共感から信仰に導かれ、21才の時に受洗しました。現在はイエスの思想的な背景として旧約聖書を、キリストの思想的な展開として使徒文書を、さらには 聖書に含まれなかった外典や偽典をも総合して、批判的に読んでいます。
聖書にはいくつもの奇跡物語が書かれています。それらが歴史的事実であったのかどうかは分かりません。二度と再現できないことが、奇跡だからです。一方、奇跡物語を神話として捕え、ある事柄を象徴的に表現したのだという見方もあります。この場合は、奇跡そのものより、それによって伝えようとした内容の方が重視されます。極端な言い方をすれば、奇跡は起こってなくてもいいのです。科学万能の時代に、文学を勉強した者として、奇跡を象徴的な表現とする見方は納得できるものでした。しかし、そのような私が唯一認めている、否、信じている奇跡があります。「イエス・キリストの復活」です。
この奇跡は、ナザレのイエスの公的な人生と切り離して考えることはできません。彼はユニークな話しと振る舞い、(新しい価値観と倫理観と言っても良いかもしれませんが) それによって神の国を伝えました。抑圧されていた民衆たちは、救い主として彼に期待しましたが、現実的な解放の見込みが薄れると彼を見捨てました。公的な裁判を経て、彼は十字架刑で処刑されました。ナザレのイエスは、救い主キリストとして受け入れられませんでした。イエスの言葉と業は空しく終りました。これは歴史的事実です。
「イエス・キリストの復活」。この奇跡は歴史的事実を逆転させます。ナザレのイエスの話しと振る舞いの故に、裁き、処刑した者たちは、「復活」によって世界の調和を失ってしまいます。神学的に言うなら、「復活」とはイエスの言葉と業に対する神の肯定です。 この奇跡は出来事として、既に起こってしまいました。出来事なので誰も言い逃れでません。広島・長崎と福島の出来事を前にして、原子力の有効利用が語れないのと同じです。
但し、ナザレのイエスが復活する瞬間を目撃した者は誰もいません。復活の知らせを聞くのみです。新約聖書の112頁、マルコによる福音書16章6節以下をご覧下さい。
若者は言った「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜し
ているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。 確かに、復活の知らせがあるのみです。それを知らせる若者が天使であるとも書かれていません。御覧なさい。お納めした場所である。 復活の証拠はがらんとした空間、空の墓です。あるはずの死体がありません。死は消滅しました。そして、この知らせを聞いた者は、直ちに福音の伝道を命じられます。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」そうです、弟子たちもペテロでさえも、復活の知らせを聞いただけ、伝道された福音を聞いた者に過ぎないのです。多分、この復活の知らせは歴史的事実でしょう。では、その知らせが直ちに福音、嬉しい知らせであったのか? そうではありません。8節をご覧ください、
 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。超常現象を目の当たりにして、取り乱したと思われますが、それだけでもないでしょう。自らが救い主として期待したナザレのイエスを結局は見殺しにした罪責感に襲われたのかもしれません。調和を失っているのは彼を裁き、処刑した者ばかりではないのです。彼女たちが復活したキリストを信じることで自らの罪の赦しを理解して初めて、復活の知らせは嬉しい知らせ、福音となります。
しかしながらマルコによる福音書は、本来この8節で終わります。復活したキリストは登場しません。9節以下は後の時代に書き加えられたものです。なぜ、マルコはここで終わらせたのでしょう。十字架につけられたナザレのイエスの復活の知らせ。指し示された空の墓。悲劇と思われた物語が、突如として喜劇に変わる。「これはいったいどういうことになのか?」。ここで読者自身が物語に巻き込まれるのです。
復活した今という視点からすれば、ナザレのイエスを裁き、十字架につけて処刑したこと、彼を裏切り、見殺しにしたことは、どちらも意味を失いました。その死か消滅したのだから、彼の死の責任を問うことができません。無条件で一方的な赦しです。復活した今という視点から、もう一度マルコによる福音書を読み返す時、イエス・キリストの言葉と業は、この復活に向けた神の国の徴、象徴表現であったと気づきます。ナザレのイエスの話しと振る舞いは、キリストであることの証しであったのです。ガリラヤ伝道の始めに語られた言葉「時は満ち、神の国は近づいた。」は真理です。マルコによる福音書の冒頭1章1節には、こう書かれています。神の子イエス・キリストの福音の初め。 神がその子を捨ててまで成し遂げようとする、人間への一方的な愛。無償の愛。この愛を喜ばずに人間は何を喜ぶのでしょう。
イエス・キリストの復活は本当に起こった出来事でした。この出来事から全てが明らかになります。既に起こった出来事であるが故の、揺るぎない安心。これがわたしの福音です。「悔い改めて、福音を信じなさい」と語り掛けるイエス・キリストに、アーメンと答える時、わたしの中でも復活の出来事が起こっているのです。この時、わたしは復活したキリストに出会っているのでしょう。聖霊が働いているのでしょう。
マルコが、福音書を16章8節で終わりにし、復活したキリストを登場させない真意はここにあるのかもしれません。読者の中で復活の出来事を起こして、復活したキリストに出会わせたかったのだと。これから続く物語は復活したキリストに出会った人々の福音の証言です。この福音は、最初のイースターの朝から、死が消滅したあの空の墓から、いまここで捧げられている礼拝に至るまで、繰り返し伝道されたものです。わたしたちも復活したキリストに出会った者として、福音の証言を語り継ぎましょう。伝道しましょう。 それは誰かに問いただされて、或いは誰かに命令されて、伝道するのではありません。イエス・キリストの復活の知らせが、嬉しい知らせ、福音となり、嬉しい気持ちが溢れて、誰かに知らせたくなるからです。

にもかかわらず、そう、にもかかわらずです。具体的な生活の不安で、福音の喜びが薄れていく。そのようなことはありませんか?私は、今、九州バプテスト神学校で教義学を聴講していますが、わたしたちが伝道するにあたって福音の確かさと望みを実感する学びがあったので、ご紹介したいと思います。
講義のテキストはカール・バルトの『教義学要綱』。「使徒信条」を解説したものです。「使徒信条」は説教後に朗読される「ニケア信条」の基になったもので、暗記されている方も少なくないでしょう。古代ローマにおいて、復活したキリストに出会った人々の集まり、教会が、共に信じていることを短くまとめて、公に告白した文章です。
讃美歌の146頁、93-4 使徒信条のAをご覧ください。

 天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより來たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。

今、朗読したのは「使徒信条」の中ほどで、キリストについて述べた項目の昇天と再臨に関する部分です。始めにキリストの“昇天”について。ここでは福音の確かさを学びました。

 “天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり”――文末の“たまえり”という動詞は原語では現在形です。すなわち今、復活したキリストは天にいるということです。確かに天は地を超えていますが、「イエスは、この空間を超えてい給うことによって、この空間を満たしたまい、またこの空間に対して現臨し給う。」とバルトは書いてます。神が世界を統治するように、復活したキリストも神の右に座して統治しているということです。キリストの“昇天”は、福音がキリスト者の内的な出来事、独りよがりの確信ではなく、全世界に及ぶ出来事であることを示しています。キリストの“昇天”によって、福音は主観的にも客観的にも本当のことになりました。これが福音の確かさです。
この福音を教会だけが知っています。教会が信じているからです。教会の外は福音を知りません。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
この派遣命令は復活したキリストから、彼に出会った者たちに向けて発せられています。嬉しい気持ちがあるから強制されるものではありません。天に復活したキリスト、地にはキリストの体である教会。キリストから聖霊が注がれ、個々のキリスト者を支えます。先程、朗読された福音書でも「主は彼らと共に働き」とありました。大丈夫です。

しかし、これで終わりなのではありません。復活したキリストは再び地上に来られます。
次にキリストの“再臨”ついて。ここでは福音の望みを学びました。
 “かしこより來たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。” ――果たして、最後の審判は恐怖でしょうか。再臨するキリストは、ミケランジェロが描いた筋骨隆々とした方ではありません。手足と脇腹に刺し傷がある方です。わたしたちの身代わり否、わたしたちと同じように、裁かれる者の痛みを知る方です。無慈悲ではありません。そして、福音を聞いて信じる者たちは救われます。だから天にいますキリストは待っておられるのです。一人でも多くの者が救われるように。地にある教会は一刻も早く、全世界に福音を知らせねばなりません。伝道せねばなりません。
人間は神に応答する人格を持って創造されました。陶器師の想いに応答することができない土の器ではありません。人間は神に立ち帰ることが許されています。この自由があるから審かれるのです。キリストは人間を愛しています。キリストの愛は人間を神に立ち帰らせます。だからキリスト者は伝道を諦めません。キリストの再臨を全世界が喜べるように。最後の審判を救いとするために。これが福音の望みです。それから完全な神の国が到来するのでしょう。先程、朗読された黙示録にも預言されています。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」 アーメン。

カール・バルトの『教義学要綱』を学んでいますと、復活と昇天と再臨のキリストが同じ姿であることに気づきます。先程の黙示録の言葉は、復活にも昇天にも妥当するでしょう。バルトは、地にある教会の想起(想い起すこと)と待望(待ち望むこと)として、このように語りました。「キリスト教会が、キリストにおける出来事、すなわち、キリスト最初の臨在(その生涯・死・復活)を回顧するとき、教会がこの想起において生きるとき、それは、単なる想起、つまりわたしたちが史実と呼んでいるものではありません。それどころか、最後決定的に起こったあの出来事(復活の出来事だと思います)は、神的現在の力を持っています。かつて起こったこと。それは、今もなを起こるのです。さらに、そのようなものとして、将来もまた起こるでしょう。キリスト教会が―イエス・キリストに対する信仰告白をたずさえながら―そこから由来した場所は、キリスト教会がそこへ向かっていくのと同じ場所なのです。キリスト教会の想起は教会の待望でもあります。」
昨日も今日も明日もイヌマニエル(神、我と共にいます)は、キリスト者が福音を信じる根拠です。福音を聞いて、喜び、知らせることができます。イヌマニエルは教会が伝道するための力です。
だからイヌマニエルが実感できる礼拝を、毎週、捧げたいと思います。説教、礼典、賛美、祈りの全てによって。わたしたちが喜びに溢れていないなら、福音を知らせることはできません。派遣命令は教会への動員命令となり、伝道は成果主義に陥ります。まずわたしたちが喜びましょう。喜ぶために、喜ぶための礼拝を捧げましょう。
教会の外は復活したキリストを本当に知らない世界です。イエスの言葉と業は、死によって空しく終わったままです。イエスはジョン・レノンが 『イマジン』で歌うような夢想家の一人と見なされています。イエスを十字架刑にした世の道理は正しく、人間は不条理な罰を受けて、苦しんでいます。では、罰の原因となる罪の数々を律法によって教えたのなら、この苦しみは無くなるのでしょうか。わたしたちは知っています。イエスの言葉と業、十字架の死の意味、そして復活したキリストを。この全く新しい価値と倫理を、自分の話しと振る舞いにして、さあ知らせにいきましょう。福音を伝道しましょう。

伝道を覚えて祈ります。

父なる神様、主の日の礼拝を感謝いたします。
聖書を正しく読み、イエス・キリストの復活の出来事を起こしてください。
復活のキリストに出会った者たちの証言を、尊ぶことかができますように。
福音の確かさと希望よって、日々を生きる者とならせてください。
福音の喜びに満たされ、隣人に語り継ぐものとならせてください。
この祈りを、私たちの救い主イエス・キリストの御名によって、受け入れたまえ。
アーメン。