降誕節聖日礼拝『わたしは光として世に来た』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇36編6~10節
新約聖書 ヨハネによる福音書12章44〜50節

 

歴史の中で
新型コロナウイルスが世界中に流行するようになってから、今年で2度目のクリスマスを迎えました。去年のクリスマスを覚えておられるでしょうか。クリスマスキャロルも歌えない、クリスマスの祝会も持てない、初めて経験するさびしいクリスマスに戸惑いと悲しさを覚えながら、その時を過ごしました。その点、今年は新しい変異株が登場した緊張感はありますけれど、感染者数も減少した中で、少し落ち着いた気持ちでクリスマスを迎えられるように思います。
3年前の2019年のクリスマスを振り返って考えて見ますと、わたしたちはその直後に、中国の武漢からパンデミックが世界中に広がることなど、まったく考えもしていませんでした。過去3回のクリスマス、2019年に普通に祝ったクリスマスと、昨年のクリスマス、そして今年のクリスマスを比較すると、それぞれ大きく変化して来たことに気付かされます。
このように、たった3年の間に社会と世界が一変するということを、今、私たちは経験していますが、過去にもそういう歴史がありました。今年は真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まってから80年目の年でした。教会の3階の書庫に教会の歴史資料が収納されていて、今回調べてみましたら、そこに1941年12月23日(日)にもたれたクリスマス礼拝の週報が記録として保管されていました。日米開戦の12月8日から2週間後にもたれたクリスマス礼拝の記録です。この礼拝を当時の福岡城南教会の兄弟姉妹はどんな思いで守ったのでしょうか。
その一年前、1940年のクリスマス礼拝の記録も残されていました。その年は12月24日が日曜日でしたが、福岡城南教会はその翌日、12月25日(月)にクリスマス礼拝を守っています。と言うことは記録によれば、今日に至るまでクリスマス礼拝を一貫して12月25日に守ることを伝統としている福岡城南教会は、日米開戦の年、1941年にはそうしていないということに気づかされるのです。ご存知のように、太平洋戦争が始まった1941年と言う年は、私たちが所属していた旧日本基督教会が、軍部の圧力に屈して、戦争協力のために止むを得ず解散し、日本基督教団に合同させられた年です。わたしたちの先輩たちは日本基督教団の指令のもと、やがて礼拝の冒頭、国民儀礼を始めるようになってゆきました。世界と社会の潮流の渦に巻き込まれて、わたしたちの教会は時流に流されていったのです。
わたしたちの教会の歴史を記した「福岡城南教会史」はこの戦時中の時代を「暗黒時代」と呼んでいます。文字通り暗闇の中では、周囲が見えなくなり、自分たちのおかれている状況がわからなくなって、自らの立場をも見失い、その結果教会としてどう進むべきかがわからなくなってしまった、そう言う時代であったと言うことです。そのような80年前の歴史を思い返すとき、今の時代を生きるわたしたちはどうなのでしょうか。新型コロナウイルスの流れに翻弄されている今の私たちも同じように、先が見通せない、自分たちが教会としてどう歩んでいったら良いかが見えないと言うことは、わたしたちが闇の中にあると言うことだと思います。わたしたちが過ごしたこの2年余りを後世の人たちは、暗闇の日々と呼ぶかもしれません。

わたしは光として世に来た
今日読んでいますヨハネ福音書の12章46節で、主イエスが「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言われる御言葉にわたしたちは今日、真剣な思いを持って耳を傾けたいと思います。
暗闇では、外の道路のようなところ、あるいは屋内の部屋の中でも、街灯や照明がまったくないなら、どこが道なのか、どこを歩けば良いのかがわからないし、部屋の中のどこに何があるのか、必要なものがどこにおかれているかがわかりません。しかし、そこに光がともり、光線が差し込めば、どこが道か、どこに何があるかが、闇の中から浮かび上がって見えて来ます。
主イエスが、わたしは光として世に来たと言われるのは、この世界、自然、歴史がまったく見えなかった状態から、主イエスと言う光を通して、その世の周囲の様子が見えるようになることを意味しています。
すなわち、わたしたちが生きている世界、わたしたちがおかれている自然も、そして歴史も、それらすべてを創造し、支配し、導いておられる神さまがおられ、そのお方の御手のうちに世界が、自然が、また歴史があるということを見えるようにしてくださるのです。主イエスが光として世に来られたと言うのはそう言う意味です。
そして、世界、自然、歴史の姿が暗闇の中から浮かび上がるとき、それらに囲まれて生きているわたしたち人間の姿が浮かび上がってくるでしょう。

わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである
ところで、光としてこの世にこられた主イエスを見る人は、主イエスを見るのではなくて、主イエスを遣わされたお方を見ると言われています。45節です。
今日はクリスマスです。神が御子をこの世にお遣わしになり、神が人となって、この世に生まれてこられたことを覚える日です。人となられた神の子イエスの生涯を賛美歌の280番は、「この人を見よ」と歌います。
「この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」。この人なる、主イエスを見ることによって、御子をこの世に遣わされた父なる神を見ることになるのです。
父なる神が独り子をこの世に遣わされたことの中に、わたしたちは神のわたしたちに対する愛を見ます。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」と書かれている通りです。
主イエスの光に照らされて、私たちが自分について示されることは、自分がどれほど神さまから愛されているかということです。主イエスがわたしたちのために命を与えるほどに、わたしたちを愛してくださったことは、最も大きな愛だと言うべきでしょうが、父なる神が自分自身を与える以上に大きな痛みを伴う、独り子を犠牲として与えてくださったと言う愛の中に、わたしたちはこれ以上大きな愛はないほどの愛を見ます。

永遠の命
わたしたちは自分自身について何を語るべきか知っているでしょうか。自分が何をすべきか知っているでしょうか。
自分勝手に語る、原語のギリシャ語では、自分自身から語る、つまり自分の中から湧いてくる考えとして、自分について、人について、神について語ろうとすれば、わたしたちは一体何を語ることができるでしょうか。それは可能でしょうか。少なくとも神様については、神から聞くのでなければ、自分から勝手に語ることはできません。神様から聞かないで自分勝手に語ることは偽りであり、無価値です。
また自分について、人について、わたしたちの考えを語ったところで、一体どれだけの意味や価値があるのでしょうか。
また、わたしたちは自分が何をすべきか知っているでしょうか。
しかし、自分勝手に、自分で考えたことを語るのではなくて、神が私に語るべき言葉と、なすべきことを知らせてくださるなら、そして、それをイエス・キリストを通して、暗闇を照らす光として知らせていただくなら、わたしたちは生きることができるようになります。
49節に、「わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」と主イエスが言われる、その言葉とは、わたしたちが神に愛されており、そのわたしたちになすべきこととして命じられているのは、神さまを愛することであり、神様が創造された自然、世界を愛し、そこで仕えることであり、特に神様が愛されるすべての人々を愛することであると言うことです。この主イエスの語られた言葉を聞いて、信じること、そしてわたしたちに命じられていることを守ることが永遠の命です。

わたしは光として世に来た
主イエスは復活されたとき、弟子たちに聖霊の息吹を吹きかけてこう言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)
弟子たちは、主イエスから派遣された者たちとして、主イエスに倣ってこう言うことになります。44節〜46節。
主イエスは弟子たちを、またわたしたちを遣わしされます。それによって、主イエスが遣わされた者たちを見て、世の人々が主イエスを見るようにされるのです。(空に舞う凧)
主イエスが世を照らす光であるように、弟子たちやわたしたちも、周りの人々や社会に光を放つことができるのでしょうか。わたしたちが神様から愛され、神様の永遠の命をいただいていることを人々に表すことができるのでしょうか。(ぶどうの枝)
47節、48節.
主イエスはここで、主イエスが語った言葉を、当時の人々が受け入れず、主イエスが人々から拒まれるとしても、そのとき、そのような人々を裁くことはしないと言われます。そのように、今の時代でも、わたしたちが主イエスの言葉を語っても、この世の人々は耳を傾けて聞いてはくれず、拒まれるか、あるいはいい加減にしたらどうか、馬鹿も休み休み言ったらどうだと嘲られるかもしれません。
実際、わたしたち自身、自分でそうだと言い切る自信も資格もないでしょう。わたしたちが神様から愛されている者たちであり、わたしたちが神様を愛し、神様が愛されるすべての人を愛して生きること、そこに永遠の命があると信じ、そのように生きていると言おうとするとき、人々の前で、わたしたちにそう言い切る自信が果たしてあるのか、人々にそう信じてもらえる客観的証明があるのか、それがないのに、どうしてなお、そう言うつもりなのかと問われるかもしれません。
しかし、この言葉は、主イエスが語られた故に、また父なる神が主イエスに語るようにお命じになられた言葉であるゆえに、この言葉が正しいことの証人は神ご自身であられます。それゆえに、わたしたちはこの言葉を信じます。そして、これこそが永遠の命であることを信じます。

主イエスはこの世界に光として来てくださいました。そして暗闇の中にいるわたしたちの光となってくださいました。この光によって、私たちは自分について、自分が何者であり、何をすべきかを知らされるようになりました。すなわち、わたしたちは神から独り子を賜るほどに愛されている者たちであり、その愛の神を信じて、わたしたちのなすべきこととして、神を愛し、お互いに愛しあい、また神の愛されるすべての人を愛すべきであること、この主イエスの命じられることの中に永遠の命があることを知らされるようになりました。

わたしたちは自分自身の罪の中から、弱さと破れの中から、無知と迷いの闇の中から、主イエスの光に照らされて、神の愛を知らされて、神の愛を受けて、この永遠の命に向かって歩むとき、わたしたち自身が、小さな灯火となって闇夜を照らし、夜空に輝きわたる小さな星々となって、神の栄光を表すものとしていただけるのです。
メリークリスマス!

父と子と聖霊の御名によって。