クリスマス礼拝『わたしは光として世に来た』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇36編6〜10節
新約聖書 ヨハネによる福音書12章44〜50節

 


『わたしは光として世に来た』

今日はクリスマスです。
クリスマスの夜、ベツレヘムの野辺で羊を飼っていた羊飼いたちに、救い主の誕生の知らせを告げた天使たちは、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言いました。
羊飼いたちがこの世界に生まれてこられた救い主のしるしとして見たのは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子でした。
新約聖書のヨハネ福音書に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と言われていますが、神がご自身を示すために、この世に送られた神の独り子は、低く、小さく、貧しい姿でした。
そのお方の低さ、貧しさ、小ささ、弱さを見る人は、そこに神の姿を見たのです。

いまだかつてだれも神を見た者はいません。その神が、独り子を通してご自身を示されたとき、その姿はわたしたち人間が思いもしない、考えもしない姿においてであったことを、今日の会報の裏に掲載した、エバーハルト・アーノルドという人の「二つの相反する目標」と題する文章が語っています。

「何度も繰り返して言いますが、それは二つの相反する目標の間の衝突です。一つは、高い地位にある人、偉大な人、精神的に優れた人、賢い人、立派な人、生まれつきの才能によって、いわば人類の山脈の高い頂上を象徴するような人を求めることです。もう一つの目標は、卑しい人々、少数民族、障がい者、囚人など、偉大な人々の高みに挟まれた谷間にいる人々を探し求めることです。彼らは、劣っていると見られている人、奴隷にされた人、搾取された人、弱い人、貧しい中で最も貧しい人です。

第一の目標は、個人がその天賦の才能によって、神に近い状態にまで引き上げられることです。最終的に彼は神となるのです。もう一つの目標は、神が人間になるという驚きと神秘を求めるもので、人間の中で最も低い地位を目指される神を求めることです。

全く正反対の二つの方向。ひとつは、人間の自己顕示欲の強い上昇志向。もうひとつは、神が人間になるための下降運動です。ひとつは自己愛と自己顕示欲の道。もうひとつは、神の愛と隣人への愛の道です。」

神がご自身の姿をベツレヘムの飼い葉桶の中に眠る乳飲み子としてあらわされたことは、ここで言われている「二つの相反する方向」が衝突していることを意味します。つまり、人間がいつも神を高みに、偉大さに、強さと栄光の中に求めようとしますが、神はその正反対を目指し、低さと、卑しさと、弱さの中にご自身を現されたからです。

このような全く正反対の二つの目標の衝突は、わたしたち自身の生き方の真ん中を貫いています。その衝突はわたしたち自身の人生の中に、わたしたちの信仰や、わたしたちの教会のあり方の中でも起こります。

今日はその衝突がわたしたちの真ん中で起こる二つの場面についてお話ししたいと思います。一つは教会の伝道、わたしたちが、わたしたちの周りの人々に証をしたり、伝道したりするところで起こる衝突です。
13章20節で主イエスはご自身が遣わされる弟子たちについて、次のように言っておられます。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ここで、主イエスは、主イエスが遣わされる弟子たちを受け入れる者は、主イエスを受け入れるのだと、はっきり、明言されています。

もしも、人々が神を、あるいは救い主であられる主イエスを求めるとき、先に見た、第一の目標である偉大さ、高邁さ、栄光を目指す方向を追い求めるなら、そのとき、主イエスの弟子たち、あるいは主イエスがわたしたちを遣わされるときに、そのわたしたちのありのままの姿を見て、それが偉大でもなく、高邁でもなく、栄光とは程遠いものでしかない、むしろ反対に、愚かで、罪にまみれていることを知るとき、人々はそのようなわたしたちを受け入れることはできないでしょう。それゆえ、主イエスが遣わされるのが、わたしたちであり、そのわたしたちを受け入れるものが、主イエスを受け入れるのであるなら、人々はわたしたちを受け入れられないというでしょうから、結果として、主イエスを受け入れることもできないことになるでしょう。

しかし、これは神を求めることが、第一の目標を目指すことではなく、正反対の目標を目指すことであることを理解しないところからくる誤解なのです。神は高みにいますお方、近づくこともできない聖なる栄光に満ちた、おそるべきお方ではなく、低くいものを受け入れるために低くなり、弱いものを愛するために、自ら弱くなられるお方なのです。その神が、低く、弱く、罪あるわたしたちを主イエスによって受け入れてくださっているのです。神が本来、低さを目指すお方であることを知る人は、わたしたちのありのままの姿を見ても躓くことはないでしょう。わたしたちが弱いままで、不信仰なままで、主イエスから受け入れられているのを見て、そのわたしたちを受け入れることによって、人々は自分自身もまた弱いままで、不信仰なままで、主イエスから受け入れられることを信じ、主イエス・キリストを信じるようにされるのです。

二つの正反対の目標が衝突するもう一つの場面として、今日もわたしたちがあずかろうとしている聖餐式を上げることができると思います。
今日の会報に書かせていただいていますが、聖餐は洗礼を受けている方があずかることになっており、まだ洗礼を受けていない方は、聖餐にあずかれません。それはどうしてなのか、教会でどうしてこんなことが言われるのか、だれをも差別しないはずの教会で、こんな差別がまかり通されるのかと思われるかもしれません。
ここでわたしたちが良く理解したいことは、聖餐式においても二つの正反対の考え方が働くということです。聖餐にあずかるにふさわしい、敬虔さ、信仰者として恥ずかしくない生き方をしている人が、聖餐にあずかるという考え方は、第一の目標を目指す考え方です。しかし、聖餐式はその正反対の第二の目標を目指すものなのです。そのことが理解されず、誤って、聖餐式を第一の目標を目指すものだと考えて聖餐式を守る人が出ないようにしたいと考えて、このようなことを教会は言っているのです。

聖餐式では、主イエスが最後の晩餐の席上、パンを裂いて「これはわたしの体である」と言って弟子たちにお渡しになったことを記念します。主イエスが裂いて渡されたパンは、十字架の上で弟子たちの罪の贖いの犠牲として裂かれた主イエスの体のしるしです。主イエスは弟子たちに、その裂かれたパンを手にとって食べなさいと言われますが、そのパンをいただくとき、弟子たちは主イエスの体とされるのです。すなわち、聖餐のパンは、弟子たち自身が、主イエスから罪を赦していただかなければならない罪人であり、貧しく、弱い者たちとして、主イエスの体の肢として受け入れられ、愛され、生かされることのしるしなのです。
聖餐にあずかるということは、自分が弱い人間であり、罪多い人間であり、そのような者のために、主イエスが死んでくださったことを知り、信じ、感謝することなのです。そのことが理解されないまま、むしろ正反対の誤解を抱いたまま、聖餐式にあずかることは無意味なことです。聖餐式を第一の目標の追求の手段とすべきではありません。聖餐式にあずかる人にまず洗礼を受けることが求められるのは、洗礼が、自分が弱い人間であり、罪多い人間であり、そのような者のために、主イエスが死んでくださったことを知り、信じ、その信仰を公に告白して、自分の罪を認め、主イエスの愛と救いを信じることの表明だからです。

聖餐にあずかる人は、ともに聖餐にあずかっている人々が、ひとしく罪人であり、罪の赦しを必要としている人々であり、その赦しを心から求め、主に従って生きてゆきたいと願っている人々であることを信じているのです。
それゆえに、わたしたちは一人でも多くの方達が、洗礼を受け、ともに主の体にあずかるようになられることを願ってやまないのです。