聖日礼拝 『黙っていなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書65章24~25節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)14章26~40節


『黙っていなさい』
今日の説教の題、「黙っていなさい」は、34節からとりました。34節から35節にパウロが記している言葉は、21世紀に生きる大多数の女性にとって受け入れることが困難な言葉かもしれません。ただ、今日読んでいる箇所を注意深く読むと、「黙る」ように命じられているのは、女性だけではないことに気づかされます。28節では異言を語る人に対して、異言を解釈する人がいない場合「教会では黙っていなさい」と言われています。30節でも、預言する人に対して、別の人に「啓示が与えられたら」、自分が先に語り出し、まだ話の途中であっても「黙りなさい」と命じられています。

わたしたちの聖書では、今日読んでいる箇所に「集会の秩序」という見出しがついています。教会の集会、今日のわたしたちで言えば、ともに集まって守る礼拝について、使徒パウロがコリント教会において具体的にどのように守るべきか、ここで実践的な勧告を与えています。
わたしたちの聖書は28節をこのように訳していますが、ある聖書は次のように訳します。「それぞれは賛美を担当し、教えを担当し、啓示を担当し、異言を担当し、解釈を担当する」と。つまり、礼拝の中のある部分を、それぞれが担当していたということです。となれば、担当する部分同士がかち合ってはいけないので、それぞれの担当部分をどういう順番で、また、それぞれの持ち時間がアンバランスではいけないので、どれくらいの長さにするか、そうやって礼拝全体をどのように組み立てるのかということが当然考えられなければならなくなります。

その際に、何を基準にして礼拝全体を組み立てたら良いのかが問題にならざるを得ません。礼拝は全体として何を目指すのか、礼拝の目的は何か、それが明確でないなら、礼拝全体を組み立てられないでしょう。

パウロはその礼拝の目的は、「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」と言います。造り上げるというのはギリシャ語の原文ではオイコドメオー、家を建築するというと意味の言葉です。家が建てあげられる、あるいは、共同体が形成されてゆく。
そこには調和、バランス、美しさが求められます。無秩序、混乱、アンバランスがあれば、建物は傾き、歪み、ついには崩壊するでしょう。

教会の群れが一つの体、共同体として形成されてゆくとき、それは最終的に何を目指しているのでしょうか。礼拝がささげられ、礼拝共同体が形成されてゆくとき、その礼拝は最終的にいかなる目標をもっているのでしょうか。

ウェストミンスター小教理問答の第一問に大変有名な問答があります。
「人間の第一の目的は何ですか。人間の第一の目的は神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。」

わたしたちの人生の目標と、礼拝の目標は一つであり、同じです。教会が礼拝共同体として形成される目標も同じです。神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶこと、それです。
それは言葉を変えれば、神が神として知られ、認められ、信じられ、告白され、賛美されることであると言えます。神が創造主として、また救い主として告白され、崇められ、賛美と栄光が神にささげられることです。

神を神として崇め、その栄光を表す目的にふさわしく教会の礼拝を整えることをパウロはコリント教会に求めるのです。

そのように考えると、コリント教会の礼拝には、神の栄光を表す礼拝にふさわしくない無秩序や混乱の可能性があったことがわかります。27節に書かれている異言に関して言えば、異言を語るものが多すぎたり、長すぎたり、いっぺんに同時に異言を語る無秩序、異言を解釈するものがいないために、異言の内容が他の人には何も理解されないまま異言の時間が終わる可能性がありました。このような礼拝における無秩序や混乱がどうしてもたらされるのか、どうしたら、そのような無秩序や混乱を礼拝から取り除けるのでしょうか。

今日の箇所で使徒パウロは黙りなさいと言います。繰り返し、黙りなさいと言います。
黙らなければならない理由は何でしょうか。
教会で語られるべき言葉は神の言葉です。それゆえに、語るものはまず語っておいでになる神に聞かなければなりません。自分が勝手に喋っていたら、神が語っておられても、神に聞くことはできません。神が語られるのを聞くためには、まず黙らなければならないのです。
神の言葉が礼拝で語られるためには、ひたすら、神に聞かなければなりません。神に聞くためには黙って静かに耳を傾けて聞かなければなりません。

神に聞くこともなく語る説教者、自分の主張を、神に耳をかたむけることをしないで一方的に喋る説教者がいるならば、そのような説教者は黙らせなければなりません。その人は偽預言者だからです。神が語っていないことを、神に聞くこともせずに、神の言葉であると偽って語る偽預言者に教会で語ることを許してはなりません。黙ることを知らない人、黙ることをしない人は、預言者としてふさわしくなく、教会で語る説教者としての資格を持たない失格者なのです。

パウロは黙りなさいと言いますが、わたしたちには黙ってはならない時もあるのではないでしょうか。言って聞かせなければならない相手には、しっかりというべきことを言わなければならない場合があるのではないでしょうか。そういう時には黙っていてはいけない。叱るべき時には叱り、注意すべき時には注意しなければならない。さもなければ後で反省し、悔いることになると。しかし、相手がすでにわたしたちの語り聞かせることを、知っていたらどうでしょうか。叱られるべき失敗をしたこどもが、十分反省して、こちらの言うべきことを言わなくてもわかっていたらどうでしょうか。そのときは、黙るべきです。

ところで、みなさんは教会が大切にしている会議に参加したり、その会議を傍聴したりされた経験がおありでしょうか。わたしたちの日本キリスト教会で言えば、大会会議、中会会議、それと小会会議があります。教会員としては、年に一度参加する教会総会という会議もあります。

29節〜31節の言葉は教会の会議のことを思い浮かべるとぴったりくる言葉です。
会議ではメンバーが一人一人発言します。他の人は注意深く、それぞれの発言を吟味しながら、何が正しいかを判断します。別の人が、より良い見解を述べたら、それまで発言していた人も謙虚に、黙って耳を傾けようとします。

昨年亡くなられた日本キリスト教会の指導者であった渡辺信夫牧師は、教会の会議と礼拝は同じ原理に立っていると言われました。それはマタイ18章20節の御言葉です。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」礼拝も教会の会議も主イエスの名によって集まり、そこに共にいてくださる教会のかしらなる主イエス・キリストの御声に聞きしたがう点において、同じ原理、原則に立っていると言われました。

でも実際に日本キリスト教会の大会や九州中会の会議に出席された長老たちが抱く印象、感想はそれとは程遠いものです。牧師たちの多くが、自分の意見に固執し、少しも相手の主張に耳を傾けようとしないで、延々と自説を述べ合うのを見て、呆れ、失望します。また教会の会議と称していても、教会の会議とは名ばかりで、この世の会議でも見られないほどの無秩序、混乱を目の当たりにすることもあります。

黙りなさい。
「主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ」。(ハバクク書2章20節)

黙らないで、どうして神さまの語っておられる言葉を聞くことができるでしょう。
神さまは語られます。語っておられます。それゆえに静かにし、黙って耳を傾けなければなりません。神さまに対しての沈黙です。
もう一つは、神さまが語られる声を、わたしたちの隣人、兄弟が聞き取っている、その心と魂に響いている神の声に耳をかたむけなければなりません。そのために、兄弟に対しても沈黙し、耳を傾けるべきです。

詩編19編にこう歌われています。
わたしたちが教会の礼拝でささげる賛美に先立って、この「話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、世界の果てまで響いている」み言葉の響きに耳をかたむけることないしに、わたしたちがどんな賛美をささげようとも、それは騒がしい騒音に過ぎないでしょう。

神さまの御前に、静まり、黙り、全世界に響き渡る神のことばに耳を傾けるとき、そのとき初めて、わたしたちは天と地に満ちる神の栄光を仰ぎ、全地に満ちる賛美の歌声に加わることを許されるのです。

父と子と聖霊の御名によって。