聖日礼拝 『付加も削除も禁じる』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 申命記4章1~4節
新約聖書 ヨハネによる福音書1章1~3節

 

『付加も削除も禁じる』

加えることも、減らすこともしてはならない
申命記4章2節に、主なる神さまがお命じになる言葉に何一つ付け加えることも、それを削って減らすこともしてはならないと記されています。ここ以外にも、聖書には神の語られる言葉に付け加えたり、そこから削ったりすることを禁じると言う趣旨の言葉が繰り返し出て参ります。
教会が旧新約聖書66巻のみを正典として認めるのは、ここから出てくることです。66巻以外に付け加えることも、66巻からどれかを減らすこともしません。
それはなぜなのでしょうか。なぜ、神さまはご自身の言葉に付け加えることも、そこから一部を削除することも禁止なさるのでしょうか。最初にその理由から考えてみたいと思います。

付加も削除も禁じられる理由
この言葉をヨハネ福音書の冒頭の御言葉と結びつけて考えたらどうなるでしょうか。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1〜2)
ここでヨハネが「初めに言葉があった」と言う、その言葉とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストが創造の初めに、創造に先立っておられた。そのイエス・キリストはヨハネ黙示録では「わたしはアルファでありオメガである。初めであり、終わりである」と言われます。
それゆえ、初めであるイエス・キリストよりも先には何もなく、そこで語られる言葉もない。また終わりであるイエス・キリストの後にも言葉はないことになります。
キリストが語り終えた後に、何かが足らないからと言って、後から付け加えることはありません。またイエス・キリストが一度語られた言葉を、後から、あれは取り消そうとか、撤回しようとか言って、削除が行われることもないのです。
これが神の言葉に付け加えたり、それを削除したりすることがない理由だと言えると思います。
そこから、神の言葉を記す聖書が、付加されたり、削除されたりしない理由が出てきますし、神の言葉を語るよう命じられる預言者、例えばエレミヤが次のように命じられる理由も理解できます。「わたしが命じる言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。」
エレミヤ26章2節。

歴史的反省に立って
今日、神の言葉を語るつとめに召され、たてられた牧師たちは、果たしてこの命令に忠実に説教しているでしょうか。
申命記の4章では十戒の第二戒が取り上げられ、戒められています。十戒の第二戒とは「あなたはいかなる像をも造ってはならない」と言う戒めですが、ハイデルベルク信仰問答はこの戒めは「わたしたちが決して神を模写したりせず、彼が御言葉のうちに命じたもうた以外のどんな方法によっても礼拝を行うことがないように」と言う、礼拝に関する戒めであると教えています。すなわち、神さまを礼拝する方式は、神が御言葉でお命じになる仕方に付け加えたり、減らしたりしてはならないと言う意味だと言うことです。
申命記4章12節に「主なる神は声を通して語りかけられたが、その姿、形をお見せにはならなかった」とあります。私の家にテレビが入ったのは、私が小学2年生の時でした。それまでラジオで耳で聞いていたのが、テレビで目で見ることができるようになりました。それによって、何倍もの情報が伝達されることが可能になりました。聞くことと見ることには大きな違いがあります。それは対象である何かを、あるいは相手を見ることには、相手を支配することを伴うと言うことです。それゆえ、主なる神は人間がご自身を見ることを禁じられます。神はあくまでも主であられ、自由であられ、人間の認識を超えた人格であられます。私たちの心に抱く、私たちが思い描く神のイメージで私たち人間が神を礼拝することを、神は偶像礼拝としてかたく禁じられます。
神をいかに礼拝するかは、人間の側の思いつき、好み、主観によってはならない、主がお求めになる仕方で礼拝されることを命じられるのです。サムエルがサウル王に告げた言葉は有名です。「主が喜ばれるのは、焼き尽くすささげ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳をかたむけることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)
旧約のイスラエルの民は、荒れ野で金の子牛を造って礼拝しましたが、その時の罪は他の神ならざる他の神々を礼拝したのではなく、主なる神を礼拝すると唱えつつ、自分たちが勝手に考え出した方法で神を礼拝する罪でした。以後、その罪はイスラエルの歴史の中で繰り返されました。戦中の日本の教会が国民儀礼をしたのも同じ罪の繰り返しでした。

履歴書・公文書の改竄
ところで、付け加えたり、削除したりしない、またそれが許されないものが私たちの間にもあります。例えば履歴書がそうです。結婚の見合いに際して、あるいは就職に際して差し出す履歴書は、後から何かをつけ加えると言うことがなされれば、不信感を抱かれないでしょうか。大事なことだから付け加えさせてほしいといえば、そんなに大事なことならどうして最初から書かなかったのかと言われかねません。また、履歴書からある部分を削除すると言ったら、これも信用を失うに違いありません。なぜ、履歴書には付加したり後から削除するようなことがあってはならないのでしょう。
履歴書と並んで後から書き換えること、付加したり、削除したりすることが許されないのが公文書です。近頃、痛ましい事件があったことを多くの方がご存知でしょう。公文書の書き換えを上司から命令された公務員の方が、心ならずも命令に従って、公文書を改竄してしまった。それを後から後悔し、良心的呵責に耐えかねて命を絶ってしまわれた事件です。
公文書の改竄を誰が、なぜ命じたのでしょうか。公文書に記録されている事実が、ありのままの事実として知られたら、自分が権力の座を追われ、失脚することを恐れた権力者が自分にとって都合の悪い事実をもみ消そうとして公文書の改竄を要求したに違いありません。
都合の悪い事実であっても、付け加えたり、削除したりしないで事実は事実として正直に、誠実に認めて責任をとると言う態度、姿勢は、公文書を改竄しないと言う姿勢と一つに結びついています。

聖書に付け加え、聖書から削除する
ところで、キリスト教の歴史の中でも、聖書、特に旧約聖書に書かれている記述に関して、ある箇所は非人道的であり、残虐であると言う理由で、削除した方が良いと言われたり、ある箇所は非科学的であると言う理由で、書き換えたほうが良いと言われることがありました。また新約聖書は「愛」を教えているから素晴らしいが、旧約聖書はそうではない。聖書は新約聖書だけあれば十分で、旧約聖書は不要だとも言われてきました。このように、聖書を後から、時代精神に合わないと言う理由で何かを付加するか、削除することが必要だと言われてきました。最近でも、中国の習近平政権は、ヨハネ福音書8章の姦淫の罪を犯した女の人の罪を主イエスが赦される記事を書き換えるよう命じたと言うニュースを聞きました。
しかし、聖書に都合が悪いことが書かれていると言う理由で、その部分を削除せよと言うのであれば、公文書の改竄とどこが違うでしょうか。百歩譲って、不都合だと思われるような箇所が聖書にあるなら、例えば、旧約聖書は怒りと裁きの神について語り、新約に至って愛の神が語られるようになったのだと、もし、そう言うのであれば、その違いを認める上でも、それを削除してはならない、それを残すべきではないでしょうか。
わたしたち自身の履歴に何か不都合な過去があるからといって、それを隠すことが正しいことなのでしょうか。

神は偽ることのない真実なお方である
神さまは神さまご自身に対して偽ることのない、真実なお方です。
申命記の箇所と関わる旧約聖書の聖句にコヘレトの言葉3章14節があります。
「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」
今世界が苦しんでいるパンデミックを始め、大震災、津波、恐ろしいテロ、戦争、それらの出来事のうち、あるものは神さまの業ではない、余計なことで神の業から取り除かれてしかるべきだと多くの人が思うかもしれません。
しかし、「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」と聖書は語ります。神さまはすべてについて、付け加えることも、除くこともなさいません。それら全てについて全責任をお取りになります。
神さまがご自身の言葉に付け加えたり、後から削除したりなさらないのは、この言葉をお語りになる方は生きた人格であられて、この言葉に対する人格的責任を負われるお方であるからだと言えるでしょう。

神さまがご自身の言葉に付加し、削除しないように、自分と隣人についての言葉に付加も削除もしない
神さまがご自身の言葉に付け加えたり、後から削除したりなさらない方だと言うことから、お互いに関して聞き取りたいことがあります。それはわたし自身とお互いについての反省につながることです。
わたしたち人間が、神さまがご自身なさらないことを、すなわち、神様に向かって、これこれが足らないから、付け加えなさいと言うことは身の程知らずの傲慢です。また、神さまに向かって、神さまの言葉の中で、これこれは余計だから削除しなさいと言うことも自らをわきまえない愚かなことです。

私たちはそれを神様に対してすべきでないだけでなく、隣人に対してもすることも許されていないと思うのです。隣人が自分自身について語る言葉に対して、あなたにはこれが足らないと言って、付け加えようとすることはないでしょうか。反対に、これは削除しなさいと言うことは正しいことでしょうか。わたしたちは神さまがご自身に対してなさらないことを、隣人に対して求めてはならないのです。

神さまを愛すること、また隣人を愛することをわたしたちは命じられています。神さまを愛することとは、神さまをあるがままに、神さまがご自身を示し、語ったすべての言葉に責任を持ち、付け加えたり、削除したりなさらない、その真実な神さまをありのままに信じ、愛することです。そして、隣人を自分のように愛することも同じです。
わたしたちが、神さまから受け入れられ、赦され、愛されているように、私たちの隣人も主イエスにおいてありのままに受け入れられ、信じられ、愛されている人なのです。それを認め、受け入れて生きることがわたしたちに許されています。

父と子と聖霊の御名によって。