聖日礼拝『時を知る』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1〜13節
新約聖書 マタイによる福音書25章1~13節

 


『時を知る』

みなさんの中で、今日読んでいる「コヘレトの言葉」のコヘレトというのがどういう意味かご存知の方がどれくらいおられるでしょうか。

コヘレトとは、ヘブル語で「集会」を意味するカーハールという言葉から派生した言葉で、集会で語る人、集会の主宰者という意味だそうです。そして、ヘブル語のカーハールは旧約聖書のギリシャ語訳聖書では、新約聖書の教会、すなわちエクレシアと訳されるので、コヘレトは、今日で言えば教会で説教する者ということになります。

3章の言葉、これは大変印象的で、一度読んだら忘れられないような言葉です。とても味わい深い言葉です。
2節から8節に並べられている様々な時は、人生の明るい面と暗い面を表しています。こどもが生まれてくる時は、明るさと光に満ちています。それは幸いな時、喜びの時です。それに対して、愛する家族が死ぬときは、光は失せて、すべてが暗闇の中に閉ざされてしまいます。それは不幸を悲しみ嘆くときです。人生にはその両方があります。
人生はいつも順調であることできない、幸福だけというわけにはゆかない、順境の時があれば、また逆境の時もあります。
ではその二つは全くなんの脈絡もなく、無作為に、全く偶然に、あずかり知らない運命のまま、盲目的に訪れてくるのでしょうか。

いいえ、それは偶然ではない、とコヘレトは言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(1節)

今、愛する人を失って、泣く人、嘆く人、病気をし、怪我をして、かけがえのない仕事や能力を失う人は、なぜ、この時がそのような時なのか、どのような意図を持って、いかなる計画のもとで、自分にこのような時が訪れたのかを問うでしょう。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(1節)
すべては偶然なのではない。定められた時なのだ。その時を定められたお方がおられるのだ。そのお方の意図のもとに、計画のもとで、このこと起こっているのだ。だからそれを問うことができるのだ、それがコヘレトのメッセージです。

11節の御言葉は口語訳の聖書ではこう訳されていました。「神のなさることは皆、その時にかなって美しい。」別の翻訳でも「神はすべてをその時にかなって美しく造られた」と訳されています。

神の定め、ご計画には美しさがある。ここで用いられている「美しい」という言葉は、聖書の他のところではレバノン杉の美しさとして用いられています。神の定め、ご計画には、この世において見出す最高の美しさをさらに凌駕するような美しさがある。そして、それを通して人は心に永遠を思うというのです。

心に永遠を思うとは、様々な明暗、順境と逆境、出会いと別れ、それらすべてを通して、最終的に定められた時の終わり、最終的に行き着く目標を心に思うということでしょう。

11節は、こう続きます。私たちは神の永遠のご計画を心に思い浮かべ、想像するとしても、人間の理解と認識能力には限界があるので、神のなさることを始めから終わりまで見極めることはできないということです。イザヤ書55章8節9節の御言葉をここに思いあわせることができるでしょう。

しかし、そのもとで、「永遠の相のもとで」人生のあるべき姿とは何かをわたしは知ったとコヘレトは言います。12節。
私たちに許し与えられている幸福を喜び楽しんで一日、1日を生き、一生を送ることこそが、私たちにとって最も幸いなことなのだと言います。

12節と13節にヘブル語の「良い」を意味するトーブという言葉が2回使われています。一度は、12節の「楽しむ」でそれはヘブル語では「トーブをつくる」となっており、もう一度は13節の「満足する」で、ヘブル語で「トーブを見る」となっています。
この良い、トーブという言葉が聖書で最初に出てくるのは創世記1章の、天地創造の記事で、「神はこれを見て良しとされた」、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」とある、良しとされる、良かったという言葉としてです。

私たち人間が、楽しむこと、満足することは、それに先立って、神が見て良しとされる、神ご自身が、私たちとこの世界を楽しんでくださり、喜んでくださり、満足しておられることに倣うことなのです。

先日亡くなられた中村哲さんが、アフガニスタンの貧困にあえぐ人々、飢餓に苦しむ子どもたちを見て、この子供達に満足に食べるものがあることが幸せの意味なのだと言われました。
私もアフリカのガーナを訪れた時、朝食のテーブルに一枚のビスケットがお皿に乗せられているだけなのを見て心が痛んだことがあります。その時、その家のご主人が祈った食前の祈りが忘れられません。「神様、この朝、食べるものが何もない人たちのお皿にせめて何かを与えてあげてください。」

今日の一日、新しい命を与えられ、その命を養い支える食べ物が与えられ、しかも、豊かに、素晴らしい飲み物、食べ物が備えられていること、それは素晴らしいことです。私たちがそれを楽しみ、満足し、喜ぶことを神様は喜びとされます。これは美しいことです。
そして、それがさらに素晴らしく、また美しいのは、神様がこの地上での幸いを通して、私たちに永遠の幸いを望み見させてくださっているからです。この食事は天における祝宴の先取り、リハーサルなのです。

先ほど読まれたマタイ25章の十人のおとめのたとえに出てくる、油を用意していた賢いおとめと、油を用意していなかった愚かなおとめの違いとは、一体何だったのでしょうか。その違いとは、今申し上げたことを知って生きているか否かの違いでした。油を用意するとは、生きる時間の時計の針が、花婿の到来、キリストの再臨の喜びの日、喜びの時にあわせて今の時を生き、また死んでゆくということです。

パウロはローマの信徒への手紙13章でこう言います。13章11〜14節。
私たちには主イエスの再臨の時がいつかを知ることは許されていません。それを待たずに私たちの人生が終わって、眠りにつく時が来るのかもしれません。でも、それがいつであれ、神様が私たちのために、すべての時を定め、ついには花婿キリストの到来の日、終わりの喜びの時が来ることを私たちは知っています。

それを知っているものとして、今日一日を喜び、楽しみ、神様に感謝と賛美をささげて生きてゆくこと、それが時を知ることなのです。

父と子と聖霊の御名によって。