聖日礼拝『神に喜ばれる礼拝』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記4章1〜10節
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章4〜7節

音声ファイルが二つに分かれおりますことをお詫び申し上げます。

 


『神に喜ばれる礼拝』

「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(4節後半〜5節)
激しく怒ったカインは、その怒りを抑えることができずに、弟アベルに打ちかかり、彼を殺すに至ります。なぜ主なる神はアベルとその献げ物だけに目を留めて、カインとその献げ物には目を留められなかったのでしょうか。

ここで「目を留める」と訳されているヘブル語の元の言葉は、例えばおじいさんのところに久しぶりに孫が訪ねて来たとき、おじいさんがその孫の成長ぶりを喜んで、しげしげと見つめるような見方をすることです。あるいは贈り物をもらった人がそれを手にとって飽かず眺めるような、見つめ方をすると言う意味です。

ここで主が見つめたのは、アベルやカインの献げた物だけでなく、それをささげる本人にも視線を向けていることに気づかされます。

カインとアベルの二人と二人の献げ物が神の目にどううつったか、それがここでの問題なのですが、神の目ではなく、人間の目にはどううつるでしょうか。

これは今日的に言えば礼拝に関わることですから、礼拝に置き換えて考えてみましょう。
一方に、集うものの数が多くて、歌われる賛美も力に満ちており、ささげられた献金の額も多い礼拝があるとします。他方、集まりがごく少人数で、賛美の声も小さく、わびしいもので、献金の額も乏しい礼拝があったら、その二つの礼拝を比べて、私たち人間だったら、どちらを喜びとし、誇りとするでしょうか。数が多く、力強く、盛んで豊かな礼拝に目を留めないでしょうか。

アベルの献げた物とカインが献げた物をお金に換算して比べたなら、おそらく、カインの献げた物の方が金額的に多かっただろうと思うのです。でも主イエスがエルサレム神殿の賽銭箱の前に座って、そこに献金を投げ入れる人々を見て、わずかレプトン銅貨二つを捧げたやもめが誰よりも多く入れたと言われたように、人の目には数字的に大きいことが目にとまるかもしれませんが、神が目に留められるのは、人間が目に留めるのとは異なるのです。

次に、二人が捧げたものではなく、礼拝を捧げる二人を比べて見ましょう。アベルは羊を飼う、遊牧民です。カインは畑を耕す農耕民です。遊牧民と農耕民の関係は普通どのようなものでしょうか。たとえば北海道のアイヌは熊や鹿を狩で仕留め、鮭などの魚を取る狩猟民族でした。しかし、シャモと呼ばれる本州からの人間が入植し、畑を作るようになると、アイヌは次第に土地を奪われて、それまで住んでいた生活の土地から追われるようになりました。アメリカのインディアンも同じ末路をたどりました。白人が入植するに及んで、インディアンはバッファローを追っていた草原から、狭い居留地に囲い込まれて行きました。歴史的に見ても、社会経済的に見ても農耕民の方が遊牧民よりも優勢で、力を持ち、支配的になって行くのがわかります。

比較的弱い立場にある遊牧民のアベル、そのアベルの生活の中で、家畜の初子が産まれることは祝福であり、とても嬉しいことに違いありません。主なる神が慈しみの眼差しをアベルとアベルの献げ物に注いでも不思議ではないと思います。

神がこのとき、主はアベルとその献げ物に目を留められたのに対して、カインとその献げ物には目を留められなかったというのは確かなことです。そうであったとしても、カインは素直に、主がアベルとアベルに目を留められることを、アベルのために喜ぶことはできないのでしょうか。弟アベルが神から喜ばれ、祝福を受けていることを何よりアベルのために、アベルと一緒になって喜ぶことはできないことなのでしょうか。兄弟だったら本来そうするのが本当ではないのでしょうか。

先ほど詩編133編による賛美歌を歌いました。「見よ、兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び」
しかし、これはあくまでも兄弟が二人いたときに、二人が同じように祝福されている場合のことであって、どちらか一方だけが祝福され、他方は祝福されないというような場合には、喜ぶことなどできないと思われるかもしれません。
でも、礼拝は一人で守るものではありません。兄弟がともに神の前で守るものです。そして、礼拝をともに守る兄弟の間に、現実的に見るならば、様々な格差や違いが厳然として存在しているのは否定できない事実ですし、それをなくすことはできないことです。

カインとアベル、二人は主なる神の御前で兄弟です。そして二人のうち一人が神から目を留められ、他方は目を留められないということが起こっています。聖書の他のところでもエサウとヤコブ、ヨセフと他の兄弟たちの間で、どちらかが、誰か一人が偏愛されるということがあります。兄弟は同じ両親から生まれながらも、同じではありません。カインとアベルのように従事する仕事も違うし、結婚相手も、造る家庭も違ってきます。そして実際に、どちらかがより幸福で、どちらかが不幸であるといったことは必ず避けることのできないこととして起こってくるでしょう。

ここでのカインとアベルの関係ですが、7節の後半をある聖書は、「お前は彼を治めなければならない」と訳し、その意味は兄のカインが弟のアベルを保護しなければならないという意味だったと註をつけていました。まさしく、主がカインに「あなたの弟アベルはどこにいるか」と問うたときに、カインが「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」と答えますが、先の翻訳では「知りません。わたしが弟の守り手でしょうか」となっていました。農耕民であるカインが遊牧民であるアベルよりも経済的にも、社会的にも有利な立場にあったとすれば、カインはアベルを兄弟として保護し、守り、助ける責任があったはずなのです。

箴言に「友はいずれの時にも愛する。兄弟はなやみの時のために生まれる」(口語訳17:17)という言葉があります。兄弟が病気をするとき、困難な状況に陥るとき、真っ先にその弱さを受け入れ、助けるのが兄弟ではないでしょうか。互いに愛し合うのが本来の兄弟の姿であるはずです。

聖書は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と勧めますが、私たちの兄弟が困難なときには兄弟を助け、反対に兄弟が尊ばれ、祝福されるときは、自分自身が尊ばれ、祝福されたようによろこぶべきではないでしょうか。

そう言われても、それはあくまで綺麗事であって、現実はそうではないと言われると思います。人間はたとい兄弟であっても、自分以外の者の幸福を喜ばない、かえって不幸を喜ぶ邪悪さを持っている。人の幸福を妬んでしまう。カインの姿はまさにありのままの人間の現実、醜さを示しているのだと言われるでしょう。その通りだと思います。
兄弟は、兄弟同士、本来愛し合うべきなのに、憎み合い、殺し合い、血を流しあっているそれが人類の現実、世界のありのままの姿であると言わなければなりません。

しかし、そのような世界になってしまっている原因は人間にだけあるのではなくて、そもそも神様が不公平なことをなさるから、人間を平等に愛し、恵みをお与えにならないからだ、カインは確かに悪いかもしれないが、カインを怒らせるようなことを神さまがなさらなければ、こういうことにはならなかったのではないか、そういう反論がなされるかもしれません。

ここには神に向けての二つの叫びと嘆きの訴えがあります。一つは殺されたアベルの血の叫びです。もう一つはカインの嘆きの声です。
イエス・キリストは、そのようなアベルの血の叫びと、カインの嘆きの声が満ちている世界に来てくださったのです。イエス・キリストは互いの血を流しあう、カインとアベルの末裔であるわたしたち人間の兄弟になるためにこの世界に生まれてこられたのです。

イエス・キリストがわたしたちの兄弟であってくださること、それをカインとアベルの兄弟関係に重ねてみたらどう見えるでしょう。
カインはアベルが自分より弱い立場にあるとき、アベルを助けようとしませんでしたが、主イエスは私たちの弱さを誰よりも深く、良く知って、私たちを助ける本当の兄弟となられました。
カインはアベルが、アベルだけが神から祝福されるのを見て、神に激しい怒りを抱きこそすれ、アベルを祝福しようとはしませんでした。しかし、主イエスはご自身が十字架の上で神から呪いを受けて、捨てられる中から、私たちのために執り成しの祈りを祈って、私たちの罪の赦しを神に願い求め、私たちを祝福してやみませんでした。

そのような主イエスは、わたしたちにとって心から尊ぶべき、愛すべき兄弟です。それゆえに、主イエスが神から祝福を受け、復活され、勝利されたことは、私たちにとってこの上ない喜びですし、主イエスがわたしたちの兄弟として、今、天の栄光の座に引き上げられていることは、わたしたちの最大の誇りであり、誉れです。
しかし、私たちにとって兄弟である主イエスが喜びであるだけでなく、それと同じように、主イエスにとっても、この私たち、ありのままの私たちが、主イエスの喜びとされる兄弟なのです。主イエスは、それゆえ、わたしたちの小さな幸福、喜びをご自身の喜びとなさり、私たちの小さなわざ、小さな信仰、貧しい愛をすら誇りとし、喜びとしてくださる兄弟なのです。

わたしたちの礼拝はこのお方が兄弟となってくださり、兄弟としてともに座っていてくださる礼拝です。
この主イエスのゆえに、そうです、私たちの兄弟となって、私たちを喜び祝福してくださる主イエスにあって、私たちはたとい自分自身が不幸であったり、人よりも劣っていたり、人のことを妬んで素直に喜び祝福できないような邪悪さを持っていたとしても、そのような罪深く、ひねくれて、僻みのゆえに、心のねじ曲がってしまったような私をも兄弟として愛し、その罪を赦し、喜んでくださる私たちの兄弟である主イエスを喜びとし、主イエスにあって、主イエスが兄弟として愛する全ての人を、私たちの喜び、愛する兄弟として愛し、喜ぶ者としていただけるのです。

私たちの兄弟であるこの主イエス、長子である主イエスにあって、私たち一人一人は神に喜ばれ、神の祝福を受け、それゆえ、素直に兄弟を喜び、兄弟を祝福するものとされます。そのような私たちにしていただいていることを主のみ前に喜び、感謝し、自分自身を喜ぶのです。こうしてすべての兄弟とともに主の御前で、自分自身を、また兄弟を、そして誰よりも主イエスと主イエスの父なる神を、喜び賛美するのが礼拝です。そして、そのような礼拝こそ、神に喜ばれる礼拝なのです。

父と子と聖霊の御名によって。