聖日礼拝
「種をまく者、水を注ぐ者」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 126編 5〜6節
新約聖書 コリント 3章 6節
1節
今朝は来たる週に青木麻里子先生をお迎えして朝の伝道礼拝が、午後には教会コンサートが計画されていることを覚えながら、わたしたちの教会の伝道について、今読まれました、パウロがコリントの教会に書き送った手紙から、み言葉に聞いて参りたいと思います。
「兄弟たち」と、パウロは親しくコリントの教会の人々に呼びかけます。コリントの教会はパウロの開拓伝道によって生まれた教会でした。パウロがここで兄弟たちと呼びかけている人々は、かつてパウロとはなんの関わりもなかった人々でした。これらの中にはパウロの同族であるユダヤ人ですらない、異邦人であるギリシャ人も多くいました。でもそれらの人々は、今、パウロにとって父を同じくする兄弟、一つの神の家族に連なる人々となりました。
肉の人、すなわち自然的な人間関係からいえば、人種も、言葉も、文化も違っていたコリントの人々が、今や一人の神を信じる、信仰の家族として結びつけられるようになったのです。
それを聖書の言葉で表現すると、肉的関係から霊的な関係に入るようになった。生まれながらの生き方、人生を送る、肉の人から、神さまを知り、神さまによって導かれ、神さまの教会のメンバーとして生きる霊の人になったということです。
そのような肉的世界から霊的な世界へ導き入れられる、肉の人から霊の人へと移ってゆく移行というのは、いきなり起こるのではなく、少しずつ、徐々に、初めの段階から、一歩一歩前進するという仕方で起こります。パウロはそれを食べ物で例えています。
すなわち最初は乳を飲ませたというのです。それから徐々に、乳児がミルクから離乳食を食べるようになり、歯が生えてくると今度は少し固い食物を食べられるようになります。
赤ちゃんにいきなり普通の食物を与えても、消化できません。赤ちゃんは最初ミルク以外受け付けないのです。
2節
これは幼い子どもを育てる親として正しいことです。だからといって、いつまでもミルクばかり与え続けることはしません。それでは正常に成長しないし、大人になってゆけません。
パウロがここで食べ物によって例えているのは、信仰的な養いのこと、信仰的な成長を与えるみ言葉の養いのことです。
では、み言葉の養いにおける乳、ミルクとは何なのでしょう。どのようなみ言葉でしょう。そこから大人になってゆくための固い食物とは、どのようなみ言葉の教えのことでしょうか。
それを端的に、一言で言えば、ミルクは、「神は愛である」、「神はあなたを愛してくださっている」という恵みの福音であると言えると思います。それに対して、固い食物とは、神が愛しておいでになるのは、あなただけではないということ、神から同じように愛されている兄弟がいるということだと言えると思います。
こどもは親の愛を一身に受けます。それはとても大事なことです。親から自分が愛されていることを知ること、それ以上に大事なことはないと言えるほど、重要なことです。
しかし、愛されているのは自分だけで、自分が世界の中心であるかのように思うとしたら、それは幼さです。
信仰においても同じことが言えます。「神は私を愛してくださる」。「主我を愛す」。日曜学校で習う賛美歌です。私は神から愛されている、この信仰は大事です。しかし、神が自分だけを愛しておいでになるかのような、生き方、振る舞いに終始する、いつまでも、そこに留まることは、大人になりきらない信仰です。たとえ、知識としては、神は自分だけを愛されるのではなく、すべての人を等しく愛されるということが頭ではわかっていても、実際の、普段の生き方や、振る舞いが自分中心の生き方、振る舞いから脱却できないでいる場合は非常に多いと思います。
3、4節
コリントの教会も、頭ではわかっていたのかもしれませんが、現実の教会生活、信仰生活では幼さにいまだに留まっているとパウロは指摘します。
どこがこどもっぽいのか、それは自分を信仰に導いたパウロでないと、説教が聞けないなどというところに幼さを見ています。
5、6節
こどもは、ある意味自分中心の見方、考え方しかできないものです。だからこどもなのです。しかし、自分以外の世界があること、神は世界全体の神であり、そこで多くの他者を通して働かれる神であることを知ることは、大人になってゆくことです。
自分を信仰に導いてくれたパウロだけがみ言葉の教師なのではない、他にも同じ神によって立てられた多くの教師がいること、そしてパウロも掛け替えのない教師であるけれど、アポロもまたそうなのだということを理解し、他の教師たちからも学ぶことが大人になることです。
7、8、9節
大切なのは、多くの奉仕者を用いて、その奉仕を通して働かれるのが神であるということです。ですから、それらの奉仕者たちは、お互いに肩を並べて、神のために協力して働くものたちなのです。そして、それらの働き人の働きの場、畑は神の畑であり、その働きを通して建て上げられていく建物とは神の建物だということです。
では、今の私たちにとって、ともに協力しあって神様のために働く人たちとはだれでしょうか。来週、城南教会にお招きするミッションスクールの先生たちと、私たちはどのように協力しているでしょうか。
ある方が言われました。ミッションスクールでは種がまかれている。そこで学んだ人たちの中にはみ言葉のタネがまかれている。でもだれが水やりをしているだろうか。水を注がなければ、タネは芽を出さないままに終わってしまう。その水やりをするのは教会ではないのかと。
神の畑、神の建物とはどこでしょうか。私たちは九州中会という群、つながりを持っています。島原、大分、柳川、八女、そして沖縄などの教会と私たちは繋がっています。
でも、そこを訪ねたこともない人にとっては、それらの教会のことは知らないし、その教会が抱えている困難もまた喜びも理解できないでしょう。しかし、私たちが自分の教会のことしか知らない、自分の教会のことしか考えられないとしたら、それがこどもっぽさであることは確かです。
日本の教会がいつまでも成長しないで、人口の1%にとどまるということ、どうやってもっと多くの人がクリスチャンになるように伝道するか、それを考えること、それは正しいと思います。しかし、そのことばかりを考えて、日本よりももっと厳しい北朝鮮のような国のことを考えようとしないのは問題だと思います。中国の教会のことを知ろうとしない、考えようとしないのも問題ではないでしょうか。厳しい状況に置かれている国の教会のことだけでなくて、この前この教会を会場にして結婚式をした福岡でインドネシア語で礼拝を守っている教会のこと、この福岡で、ベトナム語、中国語で礼拝を守っている教会のこと、それらも、神の畑であり、神の建物なのです。そのことを知らないなら、私たちは自分自身を知ることにもならないと思います。
わたしたち自身が実は、そのような大きな神さまの働きの中で与えられた実りであるからです。パウロはこの3章を次のように結んでいます。
21節
父と子と聖霊の御名によって。