聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第76回
「1%の者を愛される神」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 申命記 21章 18〜23節
新約聖書 ルカによる福音書 15章 1〜7節

1、 2節
わたしたちが今朝読んでいるのはどういう時、どういう場面の話でしょうか。
主イエスの話を聞こうとして、徴税人や罪人が近寄ってきた、というのは、いつのことで、どこでの話でしょうか。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。
それは主イエスが徴税人、罪人と一緒に食事をしておられた席でのことでした。
このとき、主イエスはこれらの人たちに話を聞かせるだけでなく、その人たちと親しく、一緒に食事をしていました。

そのような主イエスの姿を見て、ファリサイ派の人々や律法学者は主イエスを非難しました。
おそらく、それだけでなく、主イエスが徴税人や罪人と一緒にお酒を飲み、楽しく食事をされる振る舞いを見て、一般の人々の中に、驚きをもって見つめる人は少なくなかったのではないかと思います。

主イエスが有名な99匹といなくなった1匹の羊の喩えを語られたのは、そのような食事の席においてだったのです。そして、そこには2つのグループがいました。主イエスが中心にいて、主イエスと食事をしている徴税人や罪人、それを取り囲んで見守っているファリサイ派の人々や律法学者です。
これらの人々は、主イエスの語られた羊の喩えに登場するもののそれぞれ何に相当するでしょうか。まず、100匹の羊のなから1匹だけいなくなってしまい、羊飼いが捜し回った羊、発見されて大喜びのうちに連れ戻された羊とはだれでしょうか。それはファリサイ派の人々や律法学者から罪人と蔑まれていた、徴税人や罪人たちのことです。
では、そこにいたファリサイ派の人々や律法学者は、この喩えの中で誰に相当するのでしょう。それは羊を見つけた人が、家に帰り、友達や近所の人々を呼んで、一緒に喜んでくれと言った、あの友達や近所の人々に当たるのが、ファリサイ派の人々や律法学者だと思います。
そして、いなくなった羊を捜し回って、見つけると肩に乗せて連れ帰り、大喜びをする人は主イエスであり、主イエスの父なる神さまに他なりません。

3、4節
ルカによる福音書の15章には、同じテーマの譬え話が3つ、最初にいなくなった羊の喩え、次に無くしてしまった銀貨の喩え、そして最後に、いなくなった息子の喩えと続けて書かれています。
なくなったのが、最初は100匹の中の1匹の羊、次が10枚のうちの1枚の銀貨、三番目では兄と弟の二人息子のうちの弟。パーセンテージで言えば、最初は1%、次は10%、最後は50%になります。
数字的に考えると、100%のうちの1%なら、いなくなってもどうということはない、99%のためには1%を失っても、あえて目を瞑ると考えるかもしれません。でも10%となると、そうとも言えない。必死になってさがそうとするでしょう。50%なら、失っても、まだあと50%残っているからよしとしようとは決して言わないでしょう。大切な子どもを失った親に、あなたは他にまだ一人か、二人、子どもがいるから良いですねと言う人は、子を失った親の悲しみがわからない人です。
問題は数ではないのです。割合の問題でもありません。名前を持っている、一人一人が問題なのです。本人の身になってみれば、それは切実な問題です。例えば、沖縄は日本の人口の1%です。1%だから、そこにアメリカ軍基地の70%を集中させても、99%の他の人たちの犠牲になってもらうのは仕方がないと言われて、はいわかりましたと言えるはずがありません。一人一人は神の前で、だれにも代わってもらえない、かけがえの無い、尊く、愛されるべき、平等な存在なのです。1%でも、10%でも、50%でも、神さまが注いでおいでになる愛は同じで、変わらないのです。

それが「見失われた」と言われています。この「見失う」と訳されている言葉は、最初の喩えでは羊ですから、「見失うと」訳しますが、2番目の銀貨の例えでは、「無くなった」と訳し、3番目の放蕩息子の喩えでは「いなくなった」と訳されていますが、原語で使われているのは、同じ「滅びる」と言う言葉です。羊は単に見失われていたのではありませんでした。群れを離れたところで、狼に襲われるか、衰弱して動けなくなるか、刻一刻、死に近づいていたのです。滅びようとしていた状態から救いへと連れ戻されたのです。死から命へと救い出されました。発見されたことは羊にとってどんなに大きな安堵であり、喜びだったことでしょう。
しかし、それにも増して大きいのは、羊を発見した主人の喜びでした。そして、この主人はそれを共に喜んでくれと周囲の人々に呼びかけるのです。

主イエスにとって、徴税人や罪人と一緒にしていた食事は、何よりもまず、これらの罪人が滅びから救いへ、死から命へと連れ戻された喜びの食事、祝いの食事でした。そして、このことを一緒に喜んでくれと主イエスはファリサイ派の人たちや律法学者たちにも呼びかけておられたのです。

わたしたちの礼拝も、この主人である、主イエスと主イエスの父なる神さまが、ご自身の喜びを一緒に喜んでくれと呼びかける、その呼びかけに応えて、共に喜ぶ場所であり、そういう時なのです。
昨日結婚式がこの教会でありました。私たちも一緒にお祝いの席に招かれました。一緒に喜んでくださいと言われたのです。

礼拝は、神さまから、神さまの喜びを、わたしたちも一緒によろこんで欲しいとの呼びかけを受けて、それを喜ぶことです。

7節
主イエスから呼びかけられているファリサイ派の人々や律法学者は、悔い改めの必要のない99人の正しい人たちでした。神様はその正しい99人のことをも喜んでくださっていたのです。その喜びよりももっと大きな喜びが、徴税人や罪人の悔い改めのゆえに、神様と主イエスのうちにあったのです。そのことをファリサイ派の人々や律法学者も喜びとすること、自分たちが喜びとされていることを喜ぶよりも、神さまが徴税人や罪人の悔い改めを喜んでおられることを、自分の喜びとすることを主イエスはお求めになります。

それこそが、主イエスの主イエスたるゆえんなのです。主イエスは自分が神から喜ばれ、愛されることよりも、神さまが、わたしたち罪人を喜びとされることを喜ばれるのです。
神さまさえ、ご自身を愛するよりも、わたしたちを愛することを喜びとなさいます。
神さまは、わたしたちを愛するゆえに、最愛の独り子さえ、ご自身の命よりも大切な独り子までも私たちに与えて、わたしたちを愛されました。そのために、主イエスは恥や誤解を受けることをあえてなさっただけでなく、わたしたちを愛する愛の故に、十字架につくことを恥となさいませんでした。
わたしたち、一人一人も、見失われ、滅びに向かっていた中から、主イエスによって発見され、父なる神様のもとに連れ戻された罪人たちです。わたしたちには、この神さまを父として愛する以上の喜びはありません。

わたしたちがそのような愛をもつようになるとき、天において、神さまのもとで、わたしたちの悔い改めのゆえに、大きな喜びがあるのです。そして、その喜びをすべての人に向かって共に喜んでくれと主イエスと、主イエスの父なる神が、今日も呼びかけておられるのです。

父と子と聖霊の御名によって。