聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第76回
「自分の十字架を背負う」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 レビ記 2章 13節
新約聖書 ルカによる福音書 14章 25〜35節

25節
今日読んでいる箇所には「弟子の条件」と言う小見出しがついています。
主イエスはご自身の後に従ってきた大勢の群衆に、振り返ってこう言われたと書き出されています。主イエスの弟子になりたいと思って、主イエスについてこようとする人々に、主イエスの弟子になる条件は厳しいと言っておられるように読めます。
主イエスは3度、同じ言葉をくり返しておられます。
26節「〜しないなら、わたしの弟子ではあり得ない」、27節でも「〜でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」、さらに最後にダメを押すかのように33節でも「〜しないなら、あなた方のだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
いずれも非定形で、「〜しなければ主イエスの弟子とにはなり得ない」と、主イエスの弟子になるための条件が告げられています。
第一は、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の命であろうと、これを憎むこと」です。
第二は、「自分の十字架を背負ってついてくること」です。
第三は、「自分の持ち物を一切捨てること」です。

この三つの条件の、第二と第三の条件の間に、二つの喩えが挟まれています。一つは「塔」を建てようとする人の喩えです。もう一つは敵と戦うか、戦わずに和を求めるかを考える王の喩えです。二つとも、ことを始める前に、最後までやり遂げることができるかどうか、計算し、考える人の話です。
同じように、主イエスの弟子となろうとする者も、弟子として主イエスに最後まで従ってゆけるのかどうか、主イエスの弟子になる覚悟が自分にあるのかどうか、それをまず考えなければならないと言うことになります。

教会は伝道をします。今月の終わりには教会コンサートをして多くの人たちを招こうとしています。教会コンサートをするのは伝道のためです。主イエスを信じて、主イエスに従う弟子となる人を生み出すのが教会の伝道です。教会コンサートをするのもその伝道のためなのです。
だとしたら、コンサートに来た人たちに、ここに書かれているようなことを告げたら、その人たちはどう思うでしょうか。
世の中には危険で悪質なカルト宗教があります。カルト宗教は人々に近づくとき、最初、自分たちの正体を隠します。甘い、人々の観心を買うようなことだけを言って騙します。マインドコントロールをしてから、恐ろしい要求や条件を出してきて、気がついたときにはそれに抵抗できない、それに従わざるを得ない状態に追い込みます。

その点で、主イエスのなさることは違います。最初から本当のことを、明らかな形で、少しも隠さずに、はっきりと言われます。そして、無理だと思うなら去ってゆくことは自由だと言われているのではないでしょうか。

これからクリスチャンになろうか、どうしようかと考える人たちにとって、これらの3つの条件はとても無理だと思われる、それゆえ主イエスの弟子になることはやめておこうと思うかもしれません。
すでに洗礼を受けたクリスチャンであっても、考え直そうかと思うかもしれません。できそうもない、そう思って、洗礼は受けたけれど、思い直そうと考えるかもしれない。
では、この聖書を書いた主イエスの時代の弟子たちは、どう思ってこれを書き残したのでしょうか。

この主イエスの言葉を書き残した弟子たちがいました。彼らにとっても、この弟子となる条件は非常に高いハードルだったはずです。主イエスの弟子になることは無理だと思って諦めざるを得ないと思うことは、十分あり得たと思います。そうだったら、なんでこれを書く必要があるのでしょうか。
普通の人の常識で考えれば、一見あり得ないように思われることであっても、ここには主イエスの真実な思いが込められている、35節に「塩」の話が出てきますが、「塩味」のような、他のなに物によっても、とって代えることができないもの、生きてゆく上でなくてならないもの、それが塩です。その命の塩とでも呼ぶような、人間にとっての本当の救いがここにあるからだと思います。

改めて、主イエスの言葉に耳を傾けてみたいと思います。
26節 「憎む」と言う言葉が使われています。主イエスは愛を教えられました。当時、「友を愛し、敵を憎め」と教えられていたのに対し、「わたしは言う、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言って、憎むことではなく、愛することを教えられたのは主イエスでした。その主イエスがなんで、家族肉親を、さらには自分の命まで「憎め」と言われるのか、理解し難く感じます。

「憎む」の反対は「愛する」です。
わたしたちにとって両親をはじめ、妻、子供、家族を愛するのは当然のことです。問題は、それらの人々への愛と神への愛の関係です。神への愛以上に、それらの人々への愛が要求される場合には、それらの人々は神ならぬ偶像になります。

33節でも、自分の持ち物を一切捨てると言われますが、わたしたちは生きていく上で最低限の持ち物はどうしても必要です。さもなければ生きてゆくことはできないでしょう。主イエスが言われるのは、持ち物は必要だとしても、物や富が偶像になってはいけない、富も持ち物も、神さまが与えてくださる、神様からの賜物であり、恵みです。神さまへの愛よりも、持ち物や富に執着することの危険を言っておられます。富も持ち物も容易に偶像になりうることを主イエスは知っておられるのです。

二番目に言われている「十字架を背負って主イエスについて行く」と言うことですが、先月、三輪地塩先生の説教で、ペトロが主イエスを三度知らないと言う話のなかで、三輪先生は、ペトロは主イエスを知らないと言ったとき、主イエスのことが恥ずかしかったのだ、それで主イエスを知らないと言ったのだと言われました。その上で、三輪先生は、ペトロは主イエスを恥ずかしいと思って、主イエスを知らないと言ったとき、自分の背負っていた十字架を捨てたのだと言われました。

主イエスが十字架を背負ったのは、皆さん、わたしたちのためです。わたしたちの罪のためでした。主イエスの恥多い十字架は、わたしたちを恥じないで、わたしたちの罪の赦しのための犠牲として苦しみ死んでくださるためでした。そうしてわたしたちに罪の赦しをもたらすためでした。
わたしたちにとって、自分の十字架を背負うということは、主イエスがわたしたちの罪のために十字架を背負われたことを認めることです。このわたしの罪のために主イエスが死んでくださったことを認めることです。自分が罪人であることを認めることです。しかし、この罪人である自分のために、主イエスが十字架にかかってくださったゆえに、罪を赦していただいた罪人であることを認めることです。自分の十字架を背負って主イエスに従ってゆくとは、自分が主イエスの十字架によって罪を赦していただいた罪人であることを認めて、主イエスについて行くこと、それが、日々、最後の最後まで、自分の十字架を負って主イエスに従うことなのです。

34節 主イエスの弟子としての塩味、それは主イエスが持っておいでになる塩味です。
神を愛し、すべての人を愛する。家族・友人を愛するのは当然です。でも、家族・友人しか愛さない。家族・友人を特別に愛する。それは自己愛の一部です。すべての人を等しく愛される神が愛される人を、神が愛されるゆえに、自分も愛する、それが主イエスの弟子です。神から赦される者として、自分も人を赦す。
人をも富をも、神さま以上に愛することはしない。それが塩味です。

主イエスは振り返って言われました。これらの言葉は塩づけられた言葉です。愛と真実と言う塩で味付けられた言葉です。この言葉を受け入れて、主イエスに従うとき、わたしたちも塩味を持つものたちとされ、神さまから「あなた方は地の塩だ」と言っていただけるでしょう。

父と子と聖霊の御名によって。