聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第75回
「神の招きを断った人たち」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書 25章 6〜10節
新約聖書 ルカによる福音書 14章 15〜24節

15節、16節
主イエスは食事の席で、同席していた客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というのを聞かれて、一つの例えを話されました。それはある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招くという例えでした。

わたしたちも、来月、教会コンサートを開くにあたり、案内を千枚印刷し、それを使って多くの人をコンサートに招こうとしています。

17節、18節
主イエスの時代、パレスチナの人々の間では、ここに書かれているように、宴会のかなり前に、招待状を出しておいて、いよいよその日、その時刻になったとき、改めて人を遣わして、客を招待するのが習わしだったそうです。

ところが、この例えでは、招待を受けた人々が、主人からの宴会への招きを次々に断ります。

その断りの理由が3者3様に書かれています。
最初の人は言います。18節。
二番目の人は言います。19節。
最後のひとは別の理由を持ち出します。20節。

それぞれもっともらしい理由で、断ります。わたしたちが教会コンサートにだれかを誘う際にも、このような断りを聞くかもしれません。

主イエスがこの宴会への招きの例えを語ったのは、最初に申しましたように、食事をともにした客の一人の、「神の国の食事にあずかる人は幸いだ」との発言を受けてのことでした。つまり、主イエスがこの例えを語られたのは、神の国の食事への招きのことを語ろうとしてのことでした。この世の人々の間では宴会への招待を断る人があるけれど、神からの招きに対して人はどうするのかということを問いかけようとしておられるのだと思います。そして、今日読んでいる最後の24節にはこう書かれています。「招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう人は一人もいない」。

人は神から招かれたとき、その招きに応じようとするかどうか、それを考える上で、わたしたちが普段の生活で、人から受ける招待に対してどう対応しているか、その二つには相通じるところ、共通点があると言っておられるのだと思います。

わたしたちはもし、だれかの結婚式に招かれたら、結婚式の招待状はかなり前に届くと思うのですが、手帳やカレンダーに印をしておくでしょう。その後で、何かの予定が入りそうになったら、その日はすでに結婚式に出席するという先約があるからと言って、その日には予定を組まないようにします。

ですから、主人から宴会への招きを受けながら、その招待を断った人は、本当はその日、その時がすでに宴会への招待を受けている日だと言うことことはわかっていたはずなのです。宴会の当日になって、都合が悪くなったので、いかにも仕方がないかのように言い訳をしようとしますが、その宴会への出席と言う先約があるから、自分の用事を後回しにしようとはしなかっただけのことなのです。要するに、主人からの招待よりも自分の用事を優先させることを自分が決めたのです。

神からの招きについても同じことが言えます。例えば、日曜日に何かの予定が入ったとします。ある人は、日曜日は神様を礼拝する日だから、日曜日を避けて、別の日にしてもらうとか、それができなければ、欠席するということを選ぶことも、自分がそうしようと思えばできないことはありません。でも、家族や親戚、またお付き合いのある友達、また職場の人たちはクリスチャンではないのだから、その人たちと一緒に生きてゆくためには仕方がない、礼拝を休んでそちらに行こうとするかもしれません。

どちらを優先させるかを決めているのは自分なのです。

15節に出てくる主イエスと食事の席に同席していた人はこう叫びます。「神の国で食事をする人は、なんと幸いでしょう。」と。この人はどういう人なのでしょう。この時の食事は14章1節にあるように、安息日に主イエスがファリサイ派の議員の家で摂っていた食事でした。そこに同席していたのは、律法の専門家やファリサイ派の人たちだったと3節に書かれています。おそらく「神の国で食事をする人は、幸いだ」と言ったこの人は、その幸いな人に自分が含まれていると思ってそういったのではないかと思います。この人は、神さまのからの招きを最優先させる、神さまのことを第一にする、自分自身もそうだけれど、そういう人はなんと幸いだろうと言っているのかも知れません。

しかし、自分で自分はなんと幸いなのだろうと言うことと、神様が、あなたは幸いだといってくださることは別です。この人は、自分が神様からの招きに応じることを最優先することで、神の国の食事を味わせていただけると思っているのでしょうが、果たして、この人は主イエスが最後に、「招かれながらも、食事を味わうに至らない」と言われる人に含まれているのでしょうか、それとも含まれていないのでしょうか。それが今日の聖書を通してわたしたちに問いかけられていることだと思います。

自分で、このわたしは「神の国で食事する幸いな者だ」と言うのでなく、主イエスが幸いだと言われたのは、21節以下に出てくる人たちのことでした。

招きを受けた人たちが一様に断ったので、怒った主人が食事に連れてきた人たちのことです。この人たちは、13節にお返しのできない人と呼ばれていた人たちです。さらに、まだ席があったので、23節に書かれている人たちが連れて来られます。

これらの人たち、最初は招かれていなかったのに、主人が後から招いて、その招きに預かって食事を味わった幸いな人たちでした。

神の国の食事への招き、それを13章28節以下で主イエスは次のように言われていました。「そして、人々は、東から西から、南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」これは、わたしたちが聖餐式の式文の冒頭で繰り返し読んでいる聖句です。

聖餐式は、神の国における、終わりの日の祝宴をあらかじめ告げるものです。聖餐式は復活の主とともに、今、ここであずかる食事です。そのような聖餐式、復活された主イエスと弟子たちがともに守った食事として、最も鮮烈な印象を与えるのは、ヨハネによる福音書21章に書かれている、ガリラヤ湖畔で朝の光の中で、弟子たちが主イエスとともにあずかった食事の光景です。

岸辺に立っているのが復活の主イエスだとわかった時、ペトロは裸で船にいましたが、上着をまとって湖に飛び込み、岸辺に立っておられる主イエスのもとに行こうとしました。

このときのペトロがそうだったように、主イエスとの食事に招かれ、そこに向かおうとするのは、主イエスの愛と、赦し、その主との喜びを心から喜ぶ思いからなのです。わたしたちが神の国への招きを喜び、何にもまさって神さまを愛し、誰よりも主イエスを愛するのは、わたしたちが招かれるに相応しくなかったのに、神さまが恵によってわたしたちを招いてくださったことを喜んでいるからです。

神さまのことを第一にすることによって、その見返りとして神の国で食事の席に着かせていただくためではないのです。主イエスは健康な人に医者はいらない、いるのは病人である。わたしが来たのも義人を招くためではなく、罪人を招くためであると言われた通り、神の国の食事への招きは恵みの招きなのです。

さらに、ふさわしくない、罪を抱えている自分がそこに招かれていることだけでなく、否、それ以上に神さまが、お返しのできないような人々を含めて、すべての人を招かれることが嬉しいからなのです。神さまは東から西から、また南から北から人々を神の国の食事へと招かれます。東西に対立し、南北に分断されている人々の中から、父なる神さまは、ご自身の子供達として、お互いを兄弟姉妹として多くの人々を一つの食卓につかせ、平和を実現してくださる、そこにわたしたちのすべてにまさる願いと喜びがあるからなのです。

父と子と聖霊の御名によって。