聖日礼拝『ただ主に仕えよ』

説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 申命記6章10~15節
新約聖書 マタイによる福音書4章8~11節 によって

 主イエスがうけられた第三の試みは、非常にはっきりとした試みでありました。悪魔を拝め、神ではなく、悪魔に礼拝を捧げよ、わたしの前にひれ伏して、わたしを拝めと、悪魔は言いました。
 主イエスが荒野で試みに遭われたのはこれで三度目だと言われていますが、この3と言う数字は、多数の、ありとあらゆる試みにあったことを象徴している、そのような3であったと言えると思います。主イエスは生涯において、肉体的な飢えと渇き、精神的な孤独と非難、中傷、誤解といった、ありとあらゆる試みをうけられました。そして、その生涯において、神の子であられる主イエスがありとあらゆる試みをうけたのは、わたしたち人間のため、人間がうけるすべての試みを御自分がうけることによって、人間を助けるためであったと聖書に書かれています。ヘブライ人への手紙に、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。
 そして、今、主イエスが受けているこの第三の試みもまた、わたしたち人間が、わたしたち信仰者がうける試みであり、そのわたしたち、教会と信仰者がうける試みを、主イエス御自身がうけてくださったのです。
 主イエスはこの悪魔の要求を、神の言葉の剣をもって、きっぱりと、一刀両断のもとに、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言って、斥けられたのでした。

 今日、礼拝後教会総会が持たれますが、その中で、わたしたちは、わたしたちの教会がうけたこの試みについて取り上げようとしています。かつて戦争中、わたしたちの教会は礼拝の初めに、宮城遙拝をして、天皇を拝むようにとの、国家からの命令に抵抗できず、天皇を拝んで過ちを犯しました。そのことについて、教会の総会において悔い改めの決議をしようとしています。わたしたちの教会は戦争中、この神以外の者を神として拝めという試みをうけたとき、その試みに負けたのです。わたしたちが負けてしまった試み、そして神さまに罪を犯してしまった試みは、しかし、主イエスもうけられた試みだったのです。わたしたちは、かつて教会として、この試みに打ち勝つことが出来ませんでした。しかし、主イエスは同じ試みに遭い、そしてその試みに勝利された御方として、教会を助けてくださるのです。今日という日に、神さまの前に過ちと罪を認めて、悔い改めをなし、同じ試みをうけて、その試みに打ち勝ってくださった主イエスから、助けをいただいて、教会が神さまに従う者たちとなってゆけるように心から願い、せつに祈ります。

 悪魔の試みは、悪魔に頭を下げよ、悪魔を礼拝せよ、神以外の者に礼拝をささげよ、そうすれば生かしてやろうという、悪魔の言葉に聞き従うと言うことです。これは悪魔の力を承認すること、そして悪魔に命乞いをする、悪魔に頭を下げて、悪魔によって命を許し与えてもらうということです。
 国民儀礼をしたということは、天皇や国家権力に頭をさげさせられる、それをだれも喜んでしたわけではなく、いやいやながらも受け入れたのは、そのようにして、かろうじて命を守るためであったと思います。天皇や国家の持つ力を認めて、それを恐れて、その言うことは聞かざるを得ないと観念する。もし、さからえば、命の保証がない、迫害され、投獄され、命を奪われるかも知れない。悪魔は服従を要求しますが、その命令と支配に逆らうものには容赦なく、その命を奪おうとして攻撃するのです。その攻撃を恐れて、悪魔的権力に服従するのだと思います。
 キリシタンが踏み絵を踏まされたのも同じです。踏み絵を踏まなければ、幕府の役人は殺すぞと脅します。命惜しさに踏み絵を踏みます。しかし、踏み絵をふんで死を免れたとしても、そのようにして生き延びたとしても、その命に自由はなく、喜びもなく、平安もない。悪魔はいつまたさらなる脅しと要求をするかわからない。悪魔の奴隷となって恐怖に支配され、ビクビクしながら生きてゆく生き方しか残されていません。それは信仰者としての、神の子としての自由な、はればれとした、喜びに満ちた命、生き方とは程遠い命であり、生活なのです。
 遠藤周作の「沈黙」という小説がありますが、その小説の中で、踏み絵のことがでてきます。踏み絵を踏まされるキリシタンたちの苦しみ、信仰と良心の葛藤が描かれていますが、その中で、小説の主人公であるロドリゴという神父が、踏み絵で踏まれるキリストが、さあ、踏むがよい、わたしを踏みなさいと言われるのだという場面があります。キリストは踏み絵を踏まなければ生きて行けない弱い人間に対して、わたしを踏んでも良いと、それを認めるというのです。
 これは、沈黙という小説の最も中心的なメッセージですが、キリストが踏み絵を踏んでも良いという、この踏み絵を踏んでも良いというキリスト、キリストが「わたしはあなた方に踏まれる為にいるのだ」と言われる、そのように描かれたキリスト、これは、わたしは、はっきり申しますが、偶像礼拝だと思います。なぜならば、イエス・キリストが言っていないことを、イエス・キリストに言わせて、そのイエス・キリストを信じなさいと言って促すからです。イエス・キリストは、踏み絵を踏みなさい、悪魔に頭を下げなさい、神のみを神とすると言う戒めを守らなくても良いなどと、いつ、どこで言われたでしょうか。そうは言っておられません。それは作り事です。イエス・キリストは、はっきり、ここで聖書の御言葉を引いて、神のみを拝みなさいといわれました。神と並んで、悪魔にも頭を下げることがあっても良い、それを許すなどと言われませんでした。そのようにキリストに、キリストが言われないことを言わせて、架空のキリストを作りだすこと、そしてそのキリストを受け入れ信じること、それは十戒の第二戒を破ることです。自分が考え出した神を、自分の心と頭が造り出した神を、自分が勝手に思いついた仕方で、自分の思うような仕方で、好きなように礼拝する罪、それが十戒の第二戒に反する罪です。

 主イエスは、悪魔に頭を下げることで、悪魔から命を許し与えられることを求めません。なぜなら、命は、すべて神からくるからであり、悪魔からではないからです。神によって生きようとする命の中に、少しでも、神以外の悪魔からの命が混じれば、ほんの少しのパン種がパンの固まり全部を膨らませてしまうように、命全体が腐敗し、命のすべてが、人の生き方全部がダメになってしまいます。神のみを拝む、神と並べて、神以外のものを混じり込ませない、そのような純粋な命こそ、神に生かされた命なのです。そして、神に生きる命には、こころから神を礼拝し、神を愛し、神を賛美して生きてゆける自由と喜びと平安があります。悪魔の支配のもと、悪魔の奴隷になっているときは、それは決して得られないのです。
 主イエスは、御言葉の剣をもって、聖書に記された「あなたは、神である主を拝み、主にのみ仕えなさい」という神の言葉によって、悪魔の誘惑と戦って、それを斥けられたのです。
この御言葉こそ、今、わたしたちをも悪魔から守るものであり、御言葉の剣こそ、わたしたちが悪魔に抵抗する時に神から与えられる武器なのです。それを絶対に手放してはなりません。 

 悪魔はそれに対して主イエスの命を狙い、主イエスから命を奪おうとします。しかし、主イエスは、生涯、最後の最後まで、十字架の死に至るまで神に従い、神のみに従い、悪魔に耳を傾けることはなさいませんでした。主イエスは死の力を持つサタン、悪魔をご自身の死をもって滅ぼされました。
 わたしたちは主イエスによって、その死の力によって悪魔の死の脅しに勝利し、守られるのです。
 わたしたちは主イエス・キリストが悪魔に勝利されたその死にあずかっています。洗礼と聖餐を通してわたしたちは、主イエスと結びつけられ、主イエスの死にあずかるのです。わたしたちは、主イエスにおいて死んだ者とされます。主イエスが十字架で死なれたとき、わたしたちも主イエスと一緒に死んだのです。悪魔がわたしたちを脅かしても、わたしたちはもう主イエスにおいて死んでいるので、悪魔はわたしたちを動かすことも、影響を与えることもできないのです。死んだ人に呼びかけても、つついても反応しないように、わたしたちは悪魔の働きかけに対してもう死んでいるので、応えることをしなくなっているのです。死を持って脅かされてももう恐れません。わたしたちは既に罪に対しても、悪魔に対しても死んだ者だからです。

 わたしたちは主イエスを捨てて生き残るのではなくて、自分を捨てて、十字架のイエス・キリスト、三日目に復活された命の主であるキリストを得るのです。自分に死んで、イエス・キリストに生きるのです。イエス・キリストの内に命を見いだすのです。そして、そのイエス・キリストは、神を神として、神以外の者を神とすることなく、神を愛し、神にあって人を愛する、自由と喜びと平安に満ちた命へとわたしたちを導き入れてくださるのです。

 試みははっきりしていました。悪魔は教会に対して、信仰者であるわたしたちにむかって、神社参拝をするか、天皇を神とするかどうかと迫ります。踏み絵を踏むか、踏まないか。そして主イエスの試みに対する勝利、主イエスの救いもはっきりしています。あいまいな道でも、妥協の道でもありません。神以外の者を礼拝することはしない。十字架で死んで復活されたイエス・キリストに従います。ただ心の中だけで信仰を守るというのでもありません。神がこころとともに体をもお造りになりました。その心と体の両方で、はっきりと、心と、口と体をもって、神のみを礼拝し、神のみに仕え、神以外の者を神としないのです。
 それは神がイエス・キリストによって、わたしたちを救ってくださった救い、悪魔の支配から救い、解放してくださった救いが口で言い表すことができないほどに素晴らしいものだからです。自由と光と栄光と喜びと賛美に満ちた、神の子たちの生きる世界が約束されているからです。
 イエス・キリストは復活して、天においても地においても一切の権威を授かった御方として、わたしたちをこの神の国の栄光と自由と平和の中に生かす力をお持ちです。わたしたちはこの御方にひれ伏して礼拝を捧げます。この御方以外の者にひざまずき、礼拝することを決してしない誇りと、確信と、勇気と大胆さをもった自由を、聖霊によっていただけるからです。

 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。