聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第25回「死人が起き上がった」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 列王記上 17章17~24節
新約聖書 ルカによる福音書 7章11〜17節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第25回
「死人が起き上がった」 ルカによる福音書7章11〜17節

11節
「それから間もなく」。岩波聖書訳はここを「さて翌日」と訳しています。原語では「後に続いて」という意味だそうです。つまり、福音書記者であるルカは、今日読みますナインの町で起こったやもめの一人息子のよみがえりの出来事を、先週読んだ、カファルナウムでの百人隊長の僕が癒された出来事に続いて起こったこととして書こうとしているのです。
カファルナウムからナインまでは歩いて8〜9時間の距離だそうですから、朝カファルナウムを出発すれば、夕方にはナインに着けたでしょう。
福音書記者であるルカは百人隊長の僕の癒しの出来事を記すときにも、その前に書かれた平原の説教との関連、続きを意図していたことが7章1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」と書かれていることから伺えます。
平原の説教は、主イエスが「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」(6章47節)と言われてお語りになった、岩という土台の上に家を建てる人と、そうでない人の喩えで締めくくられていました。
主イエスのもとに来て、主イエスの言葉を聞いていた人々には、まず弟子たちがいました。その周りに、ユダヤ人の民衆がいました。そして、さらにその外側に百人隊長がその一人であった異邦人の民衆がいたのでした。その続きで今日、わたしたちが読むナインの町のやもめの一人息子が登場しているのです。この一人息子は主イエスとの位置関係において、一体どこに立っていたのでしょうか。
先週の百人隊長の部下は病気で死にかかっていました。でもまだ死んではいませんでした。先週ここを読んだとき、心に刻みましたように、部下の癒しを願った百人隊長は主イエスと直接、面と向かって会うことがなかったのでした。使いに遣わしたユダヤ人の長老たちや百人隊長の友人たちを間にして、主イエスから遠く隔たったところに立っていたのです。癒された百人隊長の部下にしても主イエスが、彼のところに来て、彼の手を取ってくださったわけでなく、直接、彼に語りかけてくださったわけでもありませんでした。
でも、百人隊長は遠くにあって、「ただ一言おっしゃってください。それで僕を癒してください」と主イエスの言葉を求めたのでした。彼は、遠く離れたところからでしたが、主イエスの言葉を聞いて、それに従う人、主イエスの言葉を岩の土台として、その上に立とうとする人でした。今日のやもめとその一人息子は、では、どうだったでしょうか。主イエスがナインに来られたとき、やもめの一人息子はすでに死んでいました。今や、その葬列が町の門を出ようとしていたのでした。

12節
ここ、ナインの町の城門で二つの行進が鉢合わせしています。一つは墓に向かう行進です。すでに息を引き取った若者の遺体とその棺を担ぐ人々、それに寄り添うやもめと彼女に同情して泣き悲しむ町の大勢の人々が門を出て墓に向かって進んでゆきます。一人息子を失った母親にとって、この行進は、心の支えも、また経済的な支えも失ってしまった中で、彼女自身の死に向かってゆく歩みでした。この行進にストップをかけることは誰にもできない、死に向かって行進だったと言えます。
その行進と主イエスとその一行がナインの町の門でぶつかったのです。このとき若者の葬列が進み出るのを見た主イエスが、その行進を避けて、その場を通り過ぎてしまわれたらどうだったでしょうか。あるいは、その死に向かう行進の前で、主イエスがなすすべもなく、黙って、そこに立ちつくされたならどうだったでしょうか。

13節
福音書記者のルカは、主イエスが主語の場合、たいてい「イエスは」と書いています。ところが、ここだけはいつものように「イエスは」と書かずに「主は」と書きました。ナインの城門から出てくる葬列と棺に寄り添う母親を見たのは「主」だと言うのです。
墓に向かう行進、死に向かう歩み、それは誰にも阻止することのできない一方通行の歩みではないでしょうか。わたしたち人間がすべて宿命づけられている死の行進を見て、それに真っ向から、逃げることなく、避けることなく、対峙される主イエスを、ルカは「主」と呼んでいます。「主」とは世界と歴史のすべてを主権と権威をもって支配なさるお方のことです。
主は、母親を憐れに思って「もう泣かないでよい」と言われました。
悲しみ嘆いている人には、泣くがよい、存分に泣きなさい。そう言うべきではないでしょうか。到底、癒しえない悲しみを、せめて涙が枯れ尽くすまで泣くことこそ、悲しみの中から立ち上がる道なのではないかとも思います。泣くべき人に、泣くべきときに、泣くなと言われるのは無情なことと思われるのに、主イエスが母親に泣くなと言われるのは何故なのでしょうか。
墓で泣き悲しんでいた女性に主イエスが「なぜ泣いているのか」と声をかけられた場面を思い起こします。復活節の朝、主イエスの遺体が取り去られたと思って泣いていたマグダラのマリアです。主イエスは彼女に「なぜ泣いているのか」と問われたのでした。
主イエスがこの時も、息子を失った母親に「もう泣かないでよい」と言われたのは、なぜだったか、それは、復活節の朝、死者の中から復活されたお方として、マリヤに泣かないで良いと言われた主イエスが、ここでも彼女の息子を死の中から取り戻して、母親の手に返してくださるからでした。

14、15節
主イエスは棺に手を触れて、葬列をストップさせられました。そして、死んでいる若者に向かって、み言葉を語られたのです。
ルカが今日のこの物語を、先週の百人隊長の僕の話の後に書いている理由、意図はなんでしょうか。6章の終わりから、わたしたちは主イエスのみ言葉を聞く人、聞くだけでなく、それに聞き従う人は誰かということを一貫して追う中で、主イエスのみ言葉を聞いて、それに聞き従う人々の輪が、弟子たちから、ユダヤ人の民衆へと、さらにその外側にいた主イエスに直接、会うことのできない異邦人の人々へと、外へ外へと広がってゆくのを見てきました。それは、主イエスに会うこともできない21世紀の極東の日本に生きているわたしたちにまで及んでいます。そして、今日、ナインのやもめの息子の物語は、主イエスのみ言葉が届く範囲は、生きている人だけでなく、死という線をも超えて及んでゆくのを見させられているのだと思います。
しかし、みなさん。神がみ言葉を語りかけられるのは、生きている人だけではないのでしょうか、神の言葉を聞くことが許されるのは、生きている間だけなのではないでしょうか。死んでしまったら、もう神の言葉を聞くことはできないのではないか。そう反論せずに居れない気がします。でも確かに、ここで主イエスは死者となった若者に語りかけられています。死人が神の言葉を聞いたのです。そして、その死人が神のみ言葉に応えて起き上がったのです。
自分たちを顧みて考えたいことがあります。今のわたしたちは生きています。しかし、生きていれば神の言葉を神の言葉として聞けるのでしょうか。神の言葉が語られても、眠っている人がいます。死人のように眠っていて聞こえていない場合がわたしたちの間には多くあるのではないでしょうか。目が覚めていて、眠っていなくても、神の言葉を聞くということに関しては、わたしたちは、いくら呼びかけられても呼びかけに応答しないなら、そのとき、わたしたちは死人です。神はまさに死んでしまっているわたしたちを死から命へと呼び返すように、死者を復活させるようにして、み言葉をわたしたちに聞かせてくださるのです。説教に先立って聖霊の導きを求めて祈るのは、聖霊が働いてくださらないなら、生まれながらにして肉であるわたしたちは、心も頭も鈍くて、まさに死んでいて、到底、神の言葉を聞くことができないのだと思います。死者の中から起き上がったこの若者はわたしたち自身のことなのです。

16節
かつて預言者エリヤはやもめの息子をいきかえらせたことがありました。一人息子のよみがえりを見た人々は、預言者エリヤのような大預言者が再びこの時代に現れたと思ったかもしれません。しかし、主イエスと預言者では違っていることがあります。母親に死んだ息子を返した点では、預言者エリヤと主イエスは同じです。でも主イエスの場合は、ご自身が死人の中から復活されられた方となられたのです。「わたしは復活であり、命である」と言われた主イエスは、父なる神によって復活させられる者となられ、復活の初穂となられました。そのご自身の復活に合わせるようにして息子をよみがえらせて、主イエスは母親に息子をお返しになったのです。
神はその民を心にかけてくださった。「心にかける」は顧みる、見舞う、訪れるとも訳される言葉です。神から忘れられている、見捨てられている、そう思わずに居れなかったときに、神は忘れておいでにならない、見放してもおられない、自ら、訪ねてきてくださり、それによって神が確かにわたしたちとともにいてくださることを知ったということです。
主イエスのみ言葉を聞くわたしたちは、主イエスからどんなに遠く離れたところにいても、百卒長のように主イエスにお会いすることができない者も、ナインのやもめの一人息子のように墓に降っていた者も、み言葉の主から、見捨てられことも、忘れられることもないのです。ルカはそれを、この物語の後に獄中のヨハネのことを記す中で、示そうとしています。

17節
この結果、獄中のヨハネの耳にも主イエスの話が届いたのでした。獄中からヨハネは弟子を遣わして主イエスに尋ねさせます。それに対して、主イエスは行ってヨハネにこう伝えなさいと言われます。「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
しかし、主イエスからのこの言葉を獄中で聞いたヨハネは、この直後にヘロデ王に首を刎ねられて殺されてゆきました。そして、ヨハネが処刑された後に、ヨハネの首を刎ねたヘロデが主イエスの命をも狙っているとファイリサイ派の人々が主イエスに警告したとき、主イエスはこうお答えになったのでした。
「ちょうどそのとき、ファイリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』イエスは言われた。『行ってあの狐に、今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目に全てを終えると私が言ったと伝えなさい。私は今日も、明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。』」(ルカ13:31以下)
みなさん。ナインの町の門から進み出ようとしていたあの死の行進は、今なお続いているのではないでしょうか。時代の闇は依然として濃く、その闇の濃さはいよいよ増し加わっているのではないでしょうか。ウクライナの母親は息子を戦場で亡くし、嘆き悲しんでいます。わたしたちは、その行進が過ぎてゆくのをただ、眺めているのでしょうか。また黙って、そばにうなだれて立ち尽くし、無力さを悲しみ嘆くことしかできないのでしょうか。いいえ、ナインのやもめのように悲しみ嘆く者を、み言葉の主は、かつてご覧になり、憐れに思い、言われたように、今も言われるのです。「もう泣かなくて良い」。また死者に向かって言われるのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
主イエスはみ言葉の主として、前進されます。昨日も、今日も、次の日も、世の終わりに至るまで前進されます。わたしたちはその主に従って、み言葉の証人として、地の果てまで出てゆきましょう。主イエスこそ、世界と歴史を支配しておいでになる主の主、王の王なのです。このお方のみ言葉という岩を土台として、しっかりと立ってゆくことこそ、わたしたちだけでなく、世界の全ての人にとっての希望であり、救いなのです。

父と子と聖霊の御名によって。