聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第22回「「弟子は師にまさらない」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇 103編1~13節
新約聖書 ルカによる福音書 6章37〜42節

 

2023年4月30日 ルカによる福音書連続講解説教 第22回
「弟子は師にまさらない」 ルカによる福音書6章37〜42節

人生訓とか、処世訓と呼ばれる格言があります。人がどう生きるべきかについての知恵を授ける格言が多くあります。日本では、それは「いろはカルタ」などで、諳んじて心に刻まれています。
今日、これから読んでゆこうとするルカによる福音書6章37節以下には、人生訓として取り出しても良い言葉、人生訓として古今東西、そのまま通用するような言葉が出てまいります。

あなたがたは自分で量る秤で量り返される。(38節)
盲人が盲人の道案内をすることができようか。(39節)
弟子は師にまさるものではない。(40節)

これらの言葉を人生訓として心に刻んで生きてゆく、そのように聖書を読むことはできると思います。聖書をまさに人生の「バイブル」として読もうとする読み方です。
しかし、それで、聖書を正しく読んだと言えるのでしょうか。そのような読み方は、例えて言えば、綺麗な花だと思って、花だけを切り取るようなもので、花瓶にいけて、しばらくは部屋に飾っておくことはできるでしょうが、やがて枯れるでしょう。花の命は幹や根に支えられており、命を保つには、最終的に実を結ぶには、花だけを切り離してはいけないのです。

先ほど申しました言葉も、それだけ切り離して取り出しても、意味を持ちそうですが、本来、前後の文脈の中で書かれている言葉です。その文脈から切り離してしまったら、正しい読み方にはなり得ません。文脈の中で読んでこそ、初めてその本当の意味がわかるでしょう。
そのことを、39節の言葉についてまず考えてみたいと思います。

「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」
主イエスは、ここでたとえを話されたと言われています。一体、誰のことを言うためにこの「盲人」のたとえを引かれるのでしょうか。盲人にたとえられているのは誰でしょう。「盲人を手引きする盲人」、自分が盲人であるのに、盲人の手引きができるように思い込んでいる盲人。滑稽というか、痛切に批判されるような人とは一体誰のことでしょう。

41節以下で、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中にある丸太に気がつかないという話は、39節の「盲人の手引きをしようとする盲人のたとえ」と重なる面があると思います。人の過ちに気づいて、それを指摘し、それを正そうとする人は、盲人を手引きしようとする人に似ていますが、その人が、自分の目にある丸太に気がつかないとすれば、その人自身目が見えていません。盲人の道案内をしようとする盲人です。

一般的に人を導くのは教師です。導かれるのは弟子です。ただ、教師と弟子という上下関係、師弟関係にない場合、お互いの関係が対等である、兄弟同士でも、一方が他方に注意や忠告をすることはあります。41節以下で語りかけられているのは「あなた」です。つまり人を導く立場にあるわけではない「あなた」も盲人を手引きする盲人となりうるということです。

ごく一般的に、この「盲人を手引きする盲人」は政府・国家の指導者などに当てはめることができます。かつて国民を悲惨な戦争に導いてしまった当時の指導者はまさに、盲人を手引きする盲人でした。二人とも穴に落ちるというように、国と国民を二度と繰り返されてはならないような破滅に陥らせたのです。

ここでも、師であるイエス・キリストが弟子たちに教えと導きを与えておられます。そういたしますと、盲人の道案内をする盲人になってはならないと警告を受けているのは、弟子たちに他ならないということです。弟子たちは、つまり、今日の教会、クリスチャンは他の人々、クリスチャンでない人々に向かって、あなたがたは間違っています、あなたがたは罪の中にいます、あなたがたは正しい道を歩まなければなりません、そう道案内や指導をしようとしていないでしょうか。そういうあなたがたクリスチャンは、盲人を手引きする盲人ではないと果たして言えるのかとの問いかけを主イエスから受けていることになります。

37節
この言葉は主イエスの弟子たちに向けられているということは、ただ、一般的に人を裁いてはいけない、人を罪人だと決めつけてはいけないというのではありません。この言葉が向けられているのは、外でもない私たちです。主イエスの言われるのは、あなたがたクリスチャンは、人を裁いてはいけない、人を罪人だと決めつけてはいけないということです。このことは特に教会で指導者の立場にある牧師、長老が肝に命じて耳を傾けなければならない言葉だと思います。

先週、わたしたちは「あなたがたは敵を愛しなさい」という主イエスの言葉を聞きました。敵という存在は、考えてみれば、なぜ敵なのでしょうか。それは相手が正しくない敵対的行為をしている、あるいはしようとしているから、悪いことをするような存在だから敵だと思っているのではないでしょうか。ですから、わたしたちは敵を裁いており、罪に定めているのです。

しかし、主イエスは弟子たちに対して、ひいては今日の教会やクリスチャンに向かって、あなたがたは人を裁くな、人を罪に定めるなと言われます。
どういう理由で、そう言われるのでしょうか。それは神さまが、あなたがたを罪に定めないからです。神さまが、あなたがたを裁かれない以上、あなたがたは人を裁いたり、罪に定めたりすべきでないからです。
それだけではありません。神さまがその人を罪に定めないと言っているのに、あなたはなぜ、神が罪に定めない人を裁き、罪に定めるのか。

41節以下の話で、兄弟の目にあるおが屑を指摘する、というのは、兄弟の小さな罪や過ちを指摘し、兄弟を罪に定め、裁くということです。その際に、神さまが、あなたの裁いている兄弟、あなたが罪に定めている兄弟の罪を赦されることを見ないなら、ましてや神さまが自分の罪を赦してくださることを忘れて、自分自身は神さまから赦されているのに、兄弟を赦そうとしていない、その大きな過ちに気付かないというのは、まさに、自分の目の中の丸太に気がつかないということです。

主イエスが弟子たちに敵を愛しなさいと命じられるのは、神さまが、あなたを裁かず、あなたの罪を赦してくださるだけでなく、あなたがたが裁いている敵、罪に定めている敵の罪をも赦しておられるからです。あなたがたの罪を赦される神は、あなたがたの敵の罪をも赦されるお方であり、あなたがたが敵と呼んでいる相手を愛しておられるのです。だから、あなたがたも敵を裁くことをやめ、赦し、愛しなさいと言われるのです。

40節
弟子たちにとって主イエスは師です。主イエスは弟子たちに、あなたがたはだれでも、「十分の修行を積めば」師である主イエスのようになれると言っておられます。
では「十分の修行を積めば」という、修行とは一体どういう修行でしょうか。主イエスは弟子たちに、盲人を道案内するような盲目の指導者になってはならないと警告されますが、では、主イエスはどういう意味で盲目の指導者ではなく、主イエスに倣って盲目の指導者にならないためにはどうすればよいのでしょうか。

主イエスが弟子のあり方について教えられた記事がヨハネによる福音書の13章に出てきます。そこを今、開いて読んでみたいと思います。(194ページ)

主イエスはここで、弟子のする仕事、弟子の振る舞いを自らがなさいました。師自ら弟子に模範を示されました。が、弟子になられたと言っていいでしょう。
本当の教師は生徒の前で、率先して生徒のすべきことを実践して見せるような教師です。しかも、上から目線ではなくて、生徒の弱さ、その目線に立ってそれを示す教師だと思います。

主イエスという教師は、弟子であるわたしたちがどう生きるべきかを、ご自身が弟子の立場に身を置いて、弟子になりきって、生きられたと言えると思います。主イエスのように生きれば、本当の意味で主イエスの弟子になります。

同じことを別の言い方でこう言い換えることができるかと思います。主イエスは弟子たちに、「あなたがたの父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい。」あなたがたの父なる神に倣って生きなさい。あなたがたは天の父のこどもなのだからと言われます。
その父なる神から愛されるこどもになるとはどういうことか、それを教え、示されたのがまさに主イエスです。主イエスは神の子ですが、高いところに留まらず、低さと、弱さと、愚かさ、また貧しさの中にいる、わたしたちの只中に来て、私たちの経験する飢え、渇き、病を知ってくださり、悲しみの涙を流し、喜ぶ者と共に喜んでくださいました。まさに私たちの一人として、わたしたちに神のこどもの生き方を、神の子とはこのようなものであると示されたのが主イエスです。

最後に38節を読みたいと思います。
「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
わたしたちは人について評価をくだします。それも大きな問題ですが、今日は人に対する評価でなく、自己評価のことを考えたいと思います。さらに、わたしたちが神さまを量る秤のことを考えたいのです。
まず自己評価ですが、新聞で、世界の子どもたちとの比較で、日本の子どもたちの自己評価、自己肯定率が低いということを読みます。自分はダメだとか、たいしたことないと思っている子どもが外国と比べて日本では多いというのです。それは何故でしょうか。
日本の文化で、謙譲の美徳、謙遜であることが良いこととされてきたということも無関係ではないかもしれません。でも自分の子どもが必要以上に自分を卑下するのを見たら親は悲しまないでしょうか。
さらに、わたしたちは、私たちの父なる神さまのことをどう量っているでしょうか。わたしは、父なる神さまが神さまのこどもであるわたしたちに天の国で授けてくださる幸いを思い描くことができません。その神さまは、天国においてすべてのものを与えてくださるだけでなく、今、この地上の生活においても、わたしたちが必要なものを豊かにくださっていないでしょうか。
38節は、主語を補えば、あなたがたが与えるなら、神さまは与えてくださる。あなたがたが量りで量って与えたなら、神さまはマスのような量りでは到底量りきれないほど、懐にいっぱい、押入れ、揺すり入れ、溢れさせてくださる。
だから、今、神さまがあなたに託しておいでになる賜物を喜んで貧しい人、困窮している人、助けを求めている人に与えなさい。あなたの時間を、真心を、親切さを、なにより愛を与えなさい。あなたが、どれほどたくさん与えたとしても、神さまが天においてあなたに与えてくださる恵みに応じることはできないでしょう。私たちの最大のマスで量っても、神さまはマスでは量りきれない恵みを私たちの懐にあふれさせてくださるお方だからです。

父と子と聖霊の御名によって。