聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第13回「そのために遣わされた」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7~10節
新約聖書 ルカによる福音書 4章31〜44節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第13回「そのために遣わされた」

今日、わたしたちが読みますルカによる福音書4章31〜44節の記事は、マルコによる福音書では1章21〜39節に記されております。そこを開きますと、カファルナウムの会堂での、汚れた霊に取り憑かれた人の癒し、会堂を出られた主イエスがシモンの家で、彼のしゅうとめを癒された話、そして、翌朝、一人で祈っておられた主イエスに人々がカファルナウムに留まってほしいと願うのに対して、主イエスが「ほかの町にも行って、神の国の福音をのべ伝えよう。わたしはそのために遣わされたのだ」と言われたということが、マルコでもルカでも同じ内容、同じ順序で記されていることがわかります。

わたしたちの目は、片方の目だけでなく、両方の目で見るときに、距離、奥行きが捉えられるといいますが、今日読むこの箇所も、マルコかルカどちらか一つだけを読むのでは捉えられないことが、二つを比較しながら読んでゆくことによって、見えてくるように思います。

31節
ここは前からの続きで、主イエスがこのとき故郷のナザレの町から同じガリラヤにある町、カファルナウムに来られたと言うことが書かれています。「下った」とあるのは、ナザレが山地にあり、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムへは下り道だったので、「下った」と書かれているのでしょう。でも、30節から31節へのつながりを読むとき、単に地理的に高いところから低いところに降りてきたというだけにとどまらないものを、主イエスはこのとき心の中に抱えていたのではないかと想像されないでしょうか。預言者は故郷で歓迎されないと言われる通り、主イエスはナザレから追い出されたばかりか、怒った人々によって崖から突き落とされそうになったこと、それを主イエスはどう心の中に引きずりながら、ナザレからカファルナウムへの道を下ってゆかれたのでしょうか。

32〜36節
カファルナウムの会堂で起こったことについては、マルコもルカもほぼ同じように書いており、会堂で主イエスの教えを聞いた人々が、非常に驚いたと書かれています。でも、わたしたちはルカでは、マルコと違って、カファルナウムの会堂での記事の直前に、ナザレの会堂での出来事を記しているのを見ますと、このときカファルナウムの会堂で起こったことが、先にナザレの会堂で起こったことに重ねられているように読めるように思います。すなわち、ナザレでもカファルナウムでも、一方では主イエスの教えに対する賞賛や感嘆がありますが、それと正反対の反応が、どちらでも起こっているということです。ナザレでも、カファルナウムでも人々は主イエスの教えを聞いて驚き、その教えを称賛しながら、ナザレでは主イエスに対して憤り、殺意を抱くことさえ起こりましたが、それと同じようにカファルナウムでも悪霊に取り憑かれた人が大声で叫ぶということが起こっているという風に、ここでの出来事をルカは見ているように思われるのです。

悪霊が主イエスのことを、「神の聖者だ」と叫ぶこと、また後の41節でも「お前は神の子だ」と喚くこと、そして、悪霊は主イエスがメシアだと知っていたと書かれていますが、ルカは、これらの悪霊の言動は、最後には主イエスを崖から突き落とそうとしたナザレの人々が、最初、主イエスを褒めて、その言葉に驚いたと言われているのと相通じるものだ見ているのではないかと言うことです。

主イエスを「神の子」であるとか、「神の聖者です」と告白するのは、本来、聖霊によって与えられる信仰告白です。でも、ここでは聖霊によって告白されるべき「主イエスは神の子である」ということが、悪霊の叫びとして主イエスから黙りなさいと命じられているのです。一体、「主イエスは神の子だ」と言うことが、一方で悪霊によって言われ、他方で聖霊によって告白されると言うことを、わたしたちはどう考えれば良いのでしょうか。

ところで、会堂で語れる主イエスの言葉に権威があったという、その権威とは何かといえば、それは14節に記されているガリラヤの宣教に帰られた主イエスに満ちていた聖霊の力だといえます。そして、聖霊によって、主イエスを神の子であると告白する信仰告白へと、わたしたちを導くのは、主イエスが聖霊に満ちて宣べ伝えられた福音でした。それは先週の説教でともに聞いた「貧しい人に告げ知らされる福音」です。

主イエスは貧しいわたしたちのところに天の父なる神さまから遣わされて、低いところへと下って来てくださいました。低いところにいる、貧しく、小さいわたしたちのために、貧しくなって、小さくなって、下って来られました。そして、見ることのできないわたしたちの目を、主イエスが開いて、主イエスが見ているものを見させ、聞くことのできないわたしたちの耳を、主イエスが聞いておられる声を聞くことができる耳にしてくださり、わたしたちの受けている洗礼の恵みが、どのようなものであるかがわからないわたしたちのために、ご自身、洗礼を受けてくださり、主イエスの受けられた洗礼において、わたしたちの洗礼がなんであるかを示し、わたしたちがそれを知り、感謝するようにしてくださいました。

主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、主イエスの上に天が開けましたが、そのとき主イエスは何を見られたのでしょうか。また、そのとき、主イエスはどのような天からの語りかけを聞かれたでしょうか。洗礼に際して、主イエスの上に何が下ったでしょうか。

天が開けたとき、主イエスが見られたのは、父なる神の御顔から照らされる慈しみの光と、愛の眼差しであったでしょう。その主イエスが見られた父なる神の慈しみの御顔の光と、愛の眼差しがわたしの上に注がれているのを見ること、
あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものであるとの御声は、わたしに対しても語りかけられているのを聞くこと、
そして、主イエスの上に鳩のように降った聖霊は、今、わたしにも降ること、
すなわち、主イエスが見、主イエスが聞き、主イエスが受けた聖霊を、主イエスと共に私たちが聞き、見、聖霊の導きをいただいて歩むこと、
これが、主イエスが父なる神から遣わされて宣べ伝えている神の国の福音でした。

悪霊と聖霊の違いははっきりしています。悪霊は、一見、正しいこと、真理にかなった知識を持たせますが、それを頭だけの知識や、理論にとどめて、現実にその恵みに預かって私たちが生きることをさせないのです。キリストを褒めそやしておきながら、一線を引いて、ああ、ナザレのイエス、わたしたちにかまわないでくれ。わたしたちを放っておいてくれ。と言うのです。こうして、神の恵みの御支配を拒否します。悪霊は、主イエスは神の子だと言っても、自分自身は、主イエスと共に神を崇め、喜びをもって神に服従して生きてゆこうとは決してしないのです。
しかし、聖霊は、わたしたちに主イエスと共に神を喜び、愛し、神に従って心から生きてゆくようにさせるのです。その点が悪霊と聖霊の明白な違いです。

42〜44節
主イエスはナザレにも、カファルナウムにも、そして、そこにとどまらずほかの町々にも行って、神の国の福音を告げ知らせなければならないと言われます。それは神が王であられるのは、地の果てに至る、あらゆるところだからです。それゆえ、主イエスは神が王であられる全てのところに、神から遣わされた者として、福音を携えて出て行かれるのです。

神が王として、恵みを持って支配されるところは、限られたところ、限られた国、限られた民族の間だけではありません。地の果てまで、神によって創造されたすべての人が、神が王となられたと言う福音を聞かされるために、福音の使者が遣わされてゆきます。
また、空間的な広がりだけでなく、時間的な広がりについても同じことが言えます。神が支配されるのは、ある時代、ある期間、ある時間だけではありません。

それゆえ、神の恵みの支配は、今だけ、ここだけ、わたしたちだけということはないのです。
主イエスが父なる神さまから遣わされながら、そこをそのまま残して、そこに赴かれない空白地帯、空白の時間帯、空白の領域が果たしてあるのでしょうか。主イエスが赴かれない国や、時代や、民族があるでしょうか。父なる神は御子をご自身が創造された全領域に向けて遣わされるのです。
翻って、わたしたちの信仰の歩みにおいて、わたしたちが主イエスと共に、主イエスが見られたものを見ること、主イエスが聞かれたことを聞くこと、主イエスが受けられた聖霊の命にあずかることが、限られた範囲においてしか、実現していないと言うことが言えないでしょうか。わたしたち未だに、十分とは言えない空白部分を多く残しているように思います。

主イエスは全世界に神の国の福音を満たして行かれると同時に、わたしたちひとりひとりの人生にも福音の恵みを満たして行かれます。主イエスは父なる神から遣わされた使命に忠実なお方ですから、それを必ず成し遂げて行かれるのです。そこで、わたしたちは主イエスと共に、主イエスが見たことをわたしたちの目で見、主イエスが聞いたことをわたしたちの耳でも聞き、主イエスが受けられた聖霊を、私たちも受けて、その命に生きて、主に従いたいと思います。それこそが、主イエスが「私はそのために遣わされた」と言われたのと同じミッション、同じ使命を持って、私たちもそのために遣わされたと言う生き方をすることになるのだと思います。

父と子と聖霊の御名によって