聖日礼拝 「家に帰りなさい」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書43章8~15節
新約聖書 マルコによる福音書2章1~12節
1〜3節
ガリラヤのカファルナウムにある家とは、シモン・ペトロの家のことでしょう。そう広くはない家の戸口のあたりまで、立錐の余地もないほどに、人々が押しかけてきたのは、主イエスのお語りになる「御言葉」を聞くためでした。
ここで、主イエスが語られた「御言葉」の内容は何だったでしょうか。
今日読んでいる箇所に主イエスの御言葉が二つ書かれています。一つは、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)であり、もう一つは「私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)です。
いずれも、四人の人に運ばれてきた中風の人に対して語られた言葉です。
主イエスが神からこの世に遣わされたのは、何を語るためだったのか、そもそも父なる神は主イエスにいかなるメッセージを告げさせようとして、主イエスをこの世に送られたのでしょうか。
ここに書かれている二つの言葉には、主イエスが父なる神から世に遣わされたお方としてお語りになるメッセージが集約されていると言えるでしょう。
一つは罪の赦しです。もう一つは罪を赦されたものが営む新しい生活です。そして、いずれも一人の人に向けて語られています。一般的な真理の言葉ではありません。教えですらありません。あなたの罪は赦された、と中風の人に向けて語られ、立って家に帰りなさいと、歩けなかった人に向けて語られています。
6〜9節
主イエスが語られた御言葉についてそこに居合わせていた人々の間から議論が湧きあがりました。主イエスが「あなたの罪は赦される」と言われることに対する非難であり、反発です。
主イエスはご自身に向けられたそのような反対の声に対して、質問の形で答えておられます。中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。(9節)
皆さんは、どちらが易しいと思われるでしょうか。
ここに出てくる「どちらが易しいか」と言う表現は、主イエスが別のところで用いておいでになるものです。
「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)
ラクダが針の穴を通ることは不可能です。それが不可能であるよりも、金持ちが神の国に入ることはさらに不可能であると言う言い方です。
中風の人に向かって、起きて床を取り上げて歩きなさいと命じることは易しいでしょうか。私たちに中風の人に向かって、起きて床を取り上げて歩きなさいと命じることはできるでしょうか。それは難しいことです。それと比較して、あなたの罪は赦されると言うことは可能でしょうか。それは、起きて床を取り上げて歩きなさいと命じることよりもはるかに難しいと言うよりも、あなたの罪は赦されるなどと言うこと自体、そもそも人間である私たちには許されていません。その言葉を語ることが根本的に不可能なのです。
私たちは中風の人に向かって、起きて床を担いで歩きなさいと、全く実現の可能性のないことを、またそうなるはずもないと思いつつ、それでも、口先で唱えることはできるでしょう。ですからそう口で言ってみたとしても、何も起こりません。それに比べて、罪の赦しは、それが起こらないどころか、最初から口に昇らせることが、そもそもわたしたちにはできない言葉なのです。
しかし、主イエスの口から、本来、人間には語ることができない言葉が語られるのは、このお方が、神から遣わされた方だからです。神様はこの言葉を語らせるために主イエスをこの世界にお遣わしになられたのです。主イエスの口から、「あなたの罪は赦される」との御言葉が語られるとき、父なる神さまが、そのお言葉通り、中風の人の罪を赦してくださるのです。この言葉を主イエスは全身全霊をもって請け合われるお方なのです。
主イエスは人の罪を赦されます。それは父なる神が人の子主イエス・キリストに地上で罪を赦す権威をお授けになったからです。
そして、わたしたちにとって、さらに驚くべきことは、神が主イエスに授けられた権威、人の罪を赦す権威を、復活された主イエスが弟子たちにお授けになったことです。ヨハネ福音書20章22節。
わたしたちの礼拝は、かつてカファルナウムの家にひしめくようにして集まった人たちが耳を傾け、中風の人がその語りかけを受けてとめた主イエスの御言葉が語られ、それが聞かれるところです。今日もわたしたちに対して語られる主イエスの御言葉は、「あなたの罪は赦される」と言う言葉です。そして、この御言葉が主イエスから遣わされた御言葉のしもべの口から語られるとき、主イエスが、また天におられる父なる神が罪をわたしたちの罪を赦してくださるのです。
それは不可能なことですが、不可能なことを神は可能となさいます。「神にはできないことは何一つない」と言われる神さまに対して、わたしたちは処女マリアのように、「わたしは主のはしためです。御言葉通り、この身になりますように」と信仰を告白します。
中風の人は、二つの不可能なことを聞きました。一つは罪の赦しです。もう一つは立ち上がり床を担いで家に帰ることです。二つのうち、どちらがより不可能かといえば、罪の赦しでした。でも、その罪の赦しは確かなのです。そのよりあり得ないことが実現している元で、立ち上がって床を担いで家に帰ると言うもう一つの困難なことも実現するのです。
中風の人には罪が赦された平安だけで満足し、こころ安らかに床に身を横たえながら生活すると言うこともあり得たでしょう。中風の人はもうそれだけで十分ですと思ったかもしれません。しかし、彼に床を取り上げて家に帰りなさいと言ってくださったのは主イエスでした。
家に帰りなさい。中風の人に主イエスが許し与えてくださる生活は、家に帰ってする生活でした。それは家で普段通りに、地道に生きる生活ではないかと思います。でもそれがどれほど大きな恵みであるかを日々感謝し、喜んで生活しなさいと、主イエスは御言葉によって命じてくださっているのだと思います。
あなたの罪は赦された、これはわたしたちが礼拝で聞く御言葉のうち、最大の福音、最大の恵み、最大の喜びのおとずれです。しかし、それと合わせて、主イエスはその罪赦された慰め、平安、感謝と喜びの中で、普通の生活を、特別なことではない細々とした務めの一つ一つを果たしてゆきなさいと言われているのです。これもまた、私たちが礼拝で聞くもう一つの大切な恵みのみ言葉として、聞き落としてはならない御言葉ではないでしょうか。
わたしたちは、しばしば、日常生活において、罪のゆえに心乱して、不安にかられ、怒り、憎しみ、妬み、争いの中で惨めになり、自分を責め、疲れ果ててきました。しかし、主イエスは御言葉の主として、今日も礼拝においてわたしたちに語られます。
「わたしはあなたに言う。あなたの罪は確かに赦された。だから、起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。
わたしたちの家での生活はいつも、繰り返し約束されている罪の赦しの慰めと励ましの元にあるのです。それゆえ、罪赦された者の慰めを力として、落ち着いて、それぞれに与えられた持ち場で、自分に与えられた務めを忠実に果たさせていただきましょう。
父と子と聖霊の御名によって