聖日礼拝『律法と預言者に耳を傾けるがよい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 申命記30章11~14節
新約聖書 ルカによる福音書16章19~31節
わたしたちが谷崎啓一郎さんとこの会堂で共に礼拝を守ったのは一ヶ月前、4月第一聖日の、3日が最後でした。翌週、第二聖日の10日、さらにその翌週の復活節の17日と、二週続けて礼拝に谷崎さんの姿が見えなかったので、谷崎さんのことを心配された上田さん夫妻が復活節の日曜日の夜、谷崎さんのお宅を訪ねてくださいました。中から何の返答もなく、どうも様子がおかしいという連絡を受けたわたしは、翌18日の月曜日、朝から何度も谷崎さんと連絡を取ろうと試みましたけれども連絡が取れなかったので、谷崎さんが住んでいた公団住宅の係りの人に連絡を取り、警察の立会いのもとで、公団の方が合鍵を使って玄関から中に入ったところ、谷崎さんはすでに亡くなっておられました。警察の鑑識によると、浴室で亡くなり、すでに10日ほどが経っているとのことでした。ということは、谷崎さんは4月3日の礼拝が最後となり、翌週10日の礼拝の時には既に召されておられ、復活節礼拝の翌日まで、一週間以上だれにも気付かれずにおられたことになります。
2020年の初めにコロナが流行し始めた頃、教会関係者の間で、「対面での礼拝を中止します」という表現に初めて接したとき、「対面礼拝」という言葉にとても違和感を感じたことを覚えています。でも、それから2年経って、いま「対面礼拝」という言葉を改めて受け止めて考えるとき、対面とは、人と人が互いに顔を合わせるという意味だと思えば、礼拝において、わたしたちがこうして互いに顔と顔を合わせていることが持っている意味はとても重いことに気付かされます。
わたしたちは谷崎さんと顔と顔を合わせて礼拝をしていました。しかし、4月3日の礼拝を最後に、もうそれができなくなりました。そもそも、わたしたちがこうして礼拝において、互いに顔を合わせることの根底には、主なる神がこの礼拝において、わたしたちと顔と顔を合わせて出会ってくださるということがあります。
もちろん、わたしたちは肉眼をもって神の顔を見ることができるわけではありません。しかし、わたしたちの礼拝の最後に唱えられる祝祷は、次のように言われています。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
(民数記6章24〜26節)
主なる神が御顔をわたしたちに向け、御顔の光がわたしたちを照らすとき、わたしたちは主なる神と顔と顔を合わせるのです。神がわたしたちに御顔を向けられるとき、神の目にわたしたちの隠れた部分までもが露わになります。すべてを見抜かれる主の眼差しには、しかし、深い慈しみと、愛と、憐れみが込められています。神はわたしたちの身と魂に危険が及ぶことのないようにわたしたちを見守り、わたしたちが困窮の中で抱えている必要をご覧になって、その必要を満たすものを恵みとして与え、不安と恐れに中にあるわたしたちに、慰めと平安を与えてくださいます。その見守りと、恵みと、平安を与えてくださる主の御顔を信仰の目を持って仰ぐとき、わたしたちは神と顔と顔を合わせていると言えるのです。わたしたちを照らす御顔の光とは、主の慈しみに満ちた微笑みのことだと言われます。
そのとき、一つ、とても重要なこと、決して見落としてはならないことがあります。それは、そのような、わたしたちに向けられている主なる神の御顔が、自分ひとりに向けられているのではなく、同時に兄弟にも向けられていることです。主なる神の眼差しが、愛と喜びと憐れみに満ちた眼差しとして、わたしの上に注がれると同時に、兄弟の上にも注がれていることにわたしたちが気づき、わたしたちが信仰の目を持ってそれを見るということです。
谷崎さんがだれにも看取られず、たった一人、さびしく世を去られて行ったことは痛ましく思われることです。でもその谷崎さんに神様が御顔を向け、兄弟を最後まで見守り、共にいて慰め、平安を与えておいでになられたことをわたしは疑うことなく信じています。
ところで、今日読んでいるルカによる福音書に記されている金持ちとラザロの話は、この金持が、主なる神の祝福と平安をもたらされる御顔が自分に向けられていると思いこそすれ、それがラザロにも向けられているとは、全く思わなかったと言う話です。そもそも、金持ちのちの眼中にラザロが全く入っていませんでした。貧しいラザロは金持ちの住まいの門前に横たわっていたので、金持ちが家から出かけるときも、外から家に帰ってくるときも、当然彼の姿が金持ちの目に入ったはずなのに、金持ちの目の中にラザロは入って来ませんでした。金持ちにとってラザロは兄弟ではありませんでした。金持ちは死んでから、父アブラハムに呼ばわりますが、もし、ラザロも父アブラハムの子であるなら、金持ちにとってラザロは兄弟だったはずでした。
金持ちは死んで陰府でさいなまれながら、生前、自分が兄弟のラザロに何もしてやらなかったことを後悔します。そして、自分の生き残っている兄弟たちが、自分と同じような過ちと罪の人生を送ることがないように彼らに警告してくれるように父アブラハムに願います。
すると、それに対してアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と答えたのでした。金持ちがなお食い下がって、「死んだ者の中から誰かが兄弟のところに行って警告すれば、悔い改めるでしょう」というと、アブラハムは申します。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう。」
モーセと預言者が伝えたことは何でしょうか。金持ちが生きている間に耳を傾けなければならなかったモーセと預言者が語ったこととは何だったのか。それを、主イエスは二つの戒めに要約して言われました。もっとも重要な第一の掟はこれである。主なる神を、全身全霊をもって愛しなさい。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。モーセと預言者は、この二つの掟に基づいている。
モーセの律法の全体と預言者が基づいているこれらの二つの掟、主なる神を愛することと、隣人を愛することは、別々に切り離されてあるのでなく、二つが一つのものとして密接に関連していることを教えている言葉が、ヨハネの手紙にあります。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。(1ヨハネ4:20〜21)
兄弟を愛さない者は、神を愛していない。なぜなら、現に目で見ている兄弟、その兄弟は神から愛されている存在だから。主なる神を愛すると言いながら、主なる神が愛される兄弟を愛さないなら、主なる神を愛することにならないのです。主なる神から愛されている目に見える兄弟を愛することによって、目に見えない神を愛するのです。
わたしたちにとっては、現に目で見ている兄弟というものは、必ずしも愛すべき存在であるとは限りません。愛されるにふさわしい存在であるかといえば、そうではない、到底好きになれないし、愛せない、むしろ憎らしい存在であり、向こうもこちらのことを憎み、敵意を抱いている場合が多々あります。しかし、その敵である兄弟を愛することが神を愛することなのです。なぜなら、主なる神がわたしたちを愛される愛が、まさにそのような愛だからです。わたしたちは神から愛されるにふさわしい存在であるから、神はわたしたちを愛されるのではありません。そうではなく、わたしたちが神に敵対していた、神を憎みさえしていた、神を愛そうとしていなかったときに、神はわたしたちを愛してくださったのです。このことは過去形で言われるだけでなく、現在形でもそうですし、未来形でもそうです。さらに、主なる神は、わたしたち、神に敵対している私たちを愛されるだけでなく、この私たちに敵対しており、さらにご自身にも敵対しているような人たちを、愛される神なのです。その人たち、私たちが敵と呼び、神にも敵対しているゆえに、愛されるはずがないと思う人々を、兄弟として愛さないのであれば、わたしたちは「神を愛している」と言えなくなります。神がその兄弟を愛しておられるからです。
谷崎さんと守った最後の礼拝は、4月の第一聖日の礼拝でしたが、その日は聖餐式を守れませんでした。今月から第一聖日は聖餐式を守ろうとしています。聖餐式は説教と並んで主の恵み、罪の赦しと永遠の命の恵みを目に見える形で示す聖礼典として、説教を聞く御言葉と呼ぶのに対して、聖餐を見える御言葉と呼ぶことがあります。
主イエスはパンを裂いてお渡しになるとき「これはわたしの体である」と言われます。そして、そのパン裂きについて、パウロは「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と言っています。一つのパンを分けて食べるわたしたちは、一つの体につながる肢々なのです。わたしの横で、一つのパンを分けて食べている兄弟は、目に見えないキリストの、目に見える体なのです。
目に見える兄弟において、わたしたちは目に見えないキリストを見ているのです。わたしたちは目に見える兄弟において、わたしたちの上に注がれているキリストの愛の眼差しを見ます。わたしたちの罪を赦される主の憐れみを見ます。兄弟において主の救いを見ます。目に見える形でみます。兄弟において、それを見ることを通して、わたしたちは、兄弟と同じように自分自身の上にも、主イエスの愛と、憐れみと、赦しの恵みが注がれていることを信じるようになります。
わたしたちは目に見える兄弟を愛することにおいて、目に見えない神を愛するのです。
先週、説教してくださった谷村長老が書かれた文章の中で、わたしたちが目に見えない神を愛するときに、愛すべき目に見えるものの中に人間だけでなく、自然が含まれることを、指摘しておられます。
「神との平和、人間同士の平和、自然との平和である。神のゆえにシャロームを宗教的なもの、個人的なものへと縮小することはできない。」
ロシア正教の教会の礼拝においても同じです。礼拝の中で唱えられるシャロームの挨拶はウクライナの兄弟にも向けられているのです。そうであるのに、ウクライナにミサイルを飛ばしながら、それをやめさせることをしないまま、礼拝でシャロームと唱え、主イエスの平和がわたしたちと共にありますというのは、偽りです。ウクライナとロシアが互いに敵同士として対立するとき、ウクライナもロシアも父なる神とイエス・キリストにおいて兄弟なのです。兄弟を愛さないものは神を愛せないのです。
わたしたちも目をしっかりと見開いて、キリストが愛されるすべての人も自然界も、すべてを心から愛し、その人々と愛し合い、和解し合い、自然とも和解と共存の道へと導かれたいと思います。こうして、すべての人たちと共に、主にある一致と平和を心から喜び、感謝しつつ、生きてゆきましょう。
父と子と聖霊の御名によって