受難週聖日礼拝『すべての責任は今の時代にふりかかる』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇118編1~30節
新約聖書 マタイによる福音書23章29~39節

 

今週は主イエスが十字架で死なれたことを覚える受難週です。その週の初めの日曜日に、主イエスは小さなロバの背に乗って、エルサレムに入城なさいました。人々はこぞって主イエスを出迎え、棕櫚の葉をかざして、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と叫びました。それゆえ受難週の初めの日は、棕櫚の日曜日と呼ばれており、その日の出来事は、四つの福音書すべてに記されています。

今日は、春うららと申しましょうか、おだやかな春の日差しが降り注ぐ、美しい朝です。主イエスがエルサレムに入城なさったときも、主イエスの一行を静かな春の空気が包んでいたのかもしれません。それほどに、棕櫚の日曜日の出来事は、青空に一点の雲もないほどに晴れ渡った平和に満たされた出来事であったと想像されるかもしれません。

ですから、その同じ週の後半に主イエスが逮捕され、裁判にかけられ、群衆が十字架につけよと叫ぶ怒号の中、ついに十字架につけられていったことは、天気に例えれば、急激な変化で、晴れ渡っていた青空が一瞬にしてかき曇り、土砂降りになってしまったかのような印象を受けかねません。実際、春の嵐が吹き荒れることはありますし、主イエスが金曜日に十字架につけられたとき、この地方には砂嵐が起こって、昼ごろから午後の3時まで太陽の光は消え、全地は暗くなりました。

棕櫚の日曜日の主イエスのエルサレム入城についてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が記していますが、それらを読み比べると、浮かび上がってくることがあります。

この日の出来事は必ずしも平和に満たされていなかったということです。マタイ21章15節以下に、エルサレム入城の後、幼いこどもたちが神殿で、エルサレム入城の際人々が叫んだ「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いた祭司長や律法学者は腹を立てて、主イエスに、彼らを黙らせるべきではないかと抗議します。主イエスを歓迎する民衆を腹立たしく眺める指導者たちがエルサレムにはいたのです。
ヨハネ福音書には、それらの主イエスに対抗意識を燃やしていた指導者たちが、人々が主イエスを熱狂的に迎えるのを見て、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と絶望的な言葉を発している姿が見て取れます。
その中で一番注目すべきだと思われる記事があります。それはルカ福音書の19章41節以下が伝えている、主イエスの姿です。人々がホサナ、ホサナと喜び迎えたとき、肝心の主イエスご自身がどのような表情をして、その人々の歓呼の声を受け止めておられたかです。
エルサレムに入城なさる主イエスは泣いておられました。主イエスは入って行こうとする都、エルサレムのために涙を流しておられたのでした。

ああ、エルサレム、エルサレム! 「エルサレム」の「サレム」は平和という意味です。平和の町と呼ばれる神の都エルサレムは、今や神の平和を失い、平和からほど遠い破滅を自分自身の上に招こうとしていたのでした。
主イエスは今、入ってゆこうとしているエルサレムは、人々が棕櫚の葉をかざし、ホサナと叫んでご自身を迎えていても、そこが、預言者を殺し、神から遣わされる者たちを石で打ち殺す都であることをご存知でした。

先ほど旧約聖書の朗読で読まれた詩編118編は、棕櫚の日曜日から始まる受難週に、その中の二箇所が、登場します。一度目は主イエスがエルサレムに入城されたときに、人々が叫んだ「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という箇所です。これは118編26節です。もう一度は、エルサレムに入城された主イエスが神殿において祭司長や長老たちに対してお語りになった「ぶどう園のたとえ」の最後に主イエスが引用された118編22節以下の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」という箇所です。

受難週の出来事、主イエスがエルサレムで十字架につけられ、殺されるに至ったことは、主イエスが当時のユダヤ人指導者である祭司長、律法学者たちによって捨てられたということです。
それは、詩編118編の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」という聖書の御言葉が成就したことを意味します。家を建てる者が、家を建てるために用いる石として、自分たちの目に適わない、不適当だと判断して、捨てる石のように、当時の指導者たちが主イエスを退けたということです。
家を建てる専門家は、どういう石を選び、どういう石を捨てるでしょうか。ヒビが入っておらず、裂け目や、傷のない石を選ぶのではないかと思います。裂け目があり、傷があり、ヒビが入っているような石は退けるでしょう。

しかし、この詩編は、主なる神は人間の目には不思議で、驚くべきことをなさると歌っています。
この詩編118編は礼拝の歌なのです。
26節は、神殿の門を入って、主を礼拝するためにやってくる人々を祭司が祝福する言葉だと言われています。そして、「主の御名によって来る人」というのは、17節にあるように、主の憐れみによって、死ぬことなく生き長らえさせていただいた者が、主の御名に感謝をささげ、主の御名を賛美しながら、入って来るのを見て、祭司が祝福するという意味です。

人からも、医者からももう助かる見込みはないと見放され、自分自身、自分を見放すほかなかったような人が、ただ主の憐れみと救いのみわざのゆえに、死から救われ、生きながらえさせていただいたゆえに主をほめたたえるのです。これが、家を建てる者の退けた石が、隅の親石となったということ、そのように神様の憐れみを受けた人が、神様を礼拝する共同体の親石とされるということです。

実際、指導者から捨てられて十字架につけられた主イエスを、神が復活させ、その主イエスが神さまを礼拝する礼拝共同体である教会の親石となりました。親石とは、建物の基礎を据える時に最初に置かれる石のことです。教会は復活された主イエスを最初の石として、その上に建てられています。

「主の名によって来る」とは、まさに、わたしたちが神様を礼拝しに来るとき、「主」の名によって招かれ、「主の名」によって罪を赦され、憐れみを受け、父なる神の前に進み出るということです。わたしたちは主の祈りの最初に「み名をあがめさせたまえ」と祈ります。栄光が父なる神様にありますようにという祈りであり、願いです。

この「主の名によって来る」ということの反対が、礼拝に来るとき「主の名」ではなくて「自分の名」で、また父なる神の前に進みでるとき、「み名を崇めさせ給え」ではなく、自分の栄光を求めるということです。
主イエスがエルサレムに近づかれたとき、エルサレムの都はどうだったでしょうか。そこにそびえ立つ神殿は誰の栄光を誇っていたでしょうか。そこで仕えていた大祭司、祭司長、律法学者たちは、誰の名によって立っていたのでしょうか。エルサレムには高名な律法学者が揃っているとされていました。それらの優秀で、名の通った人たちは、自分と自分の仲間の栄光を互いに認め合い、褒めあっていました。
これらの人々は自分の栄光を認めない者、自分の栄光を脅かすものを激しく憎み、最終的には殺すことさえあえてするのです。弟アベルの血を流した兄カインは、自分の弟アベルが自分よりも神に認められることが我慢できない、それを容認できないのです。バラキヤの子預言者ゼカルヤを、神様を礼拝する聖所と祭壇の間で殺した当時のユダヤの王と指導者はなぜ、預言者を殺したのか、しかも血を流してはならないところで罪のない人の血を流したのでしょうか。

家造りらの捨てた石が隅のかしら石となった。

家造りと呼ばれる指導者たちは、自分自身の正しさを追求し、自分を義とし、自分の栄光を求める人たちでした。彼らは自分たちを義とするゆえに、他の人たちを裁き、否定し、役に立たない、ダメな人だといって、他の人たちを捨てました。
それに対して、イエス・キリストは、他の人を捨てる人ではなく、捨てられる人となって、捨てられる人を選び、主なる神さまの栄光が誉めたたえられる礼拝の家の隅のかしら石となられました。

今日、私たちに問われることは、わたしたちはどうなのか、他の人を裁き、自分の義を追求する人なのか、それとも人から裁かれて、捨てられる罪人なのか、どちらなのかということです。

今日の箇所の最後23章39節にもう一度詩編118編26節が出てきます。あのエルサレム入城に際して人々が唱えた御言葉です。この最後の38節、39節で主イエスは何を言っておいでになるのでしょうか。
エルサレムは主イエスの血を流し、神から捨てられるに至ります。先週聞きましたように、ユダヤ人はローマ総督ピラトの前で、主イエスの血の責任は、自分たちと自分たちの子孫の上にあると叫んだのでした。それ以来、2000年間、ユダヤ人はキリスト教徒から、キリストごろしという汚名を着せられてきたのです。神に捨てられた、呪われるべき民族と蔑まれさえしてきたのです。確かに、ユダヤ人は救い主を拒み、神が救い主として送られた神の子を受け入れず、殺したことで、一旦神から捨てられるに至ったと言えるでしょう。
しかし、家造りらの捨てた石が、隅の親石となったという御言葉は、ユダヤ人にも当てはまるのです。エルサレムとユダヤ人が、その捨てられた状況から、ただ一方的な神の憐れみと赦しに預かって、神を礼拝する民、主の名によって来る民として回復される日が来ること、ユダヤ人がもはや自分の義、自分の名、自分の栄光ではなくて、ただ主の栄光と、主の名によって神のもとに来る日が訪れると主イエスが言われたのです。
それがパウロの祈りであり、信仰であり、希望でした。ローマ書11章15節にそれが書かれています。

正しい人の血を流す責任が問われる時代とは、主イエスの生きておいでになった時代だけのことでしょか。いいえそうではありません。今もそうです。私たちが自分の義、自分の栄光を求めて生きるのか、そうではなく、自分の罪を認め、神様の赦しにあずかって、神さまの栄光を求め、賛美するのか、私たちの生涯がそのいずれであるのかは、今の私たちに、日々問われることなのです。

主の名によって来る人に祝福があるように。
家造りに捨てられた石が隅のかしら石となった。

父と子と聖霊の御名によって。