『 日本宣教と九州 』 2018年5月31日 釜山 ホドス神学院にて
今日は日本宣教と九州というテーマでお話しをしますが、それを韓半島と九州の関係、韓半島と九州の交流という角度から考えて見たいと思います。昨年、ホドス神学院の日本無牧教会宣教コースが開設されて、その第一期生であるイビョンド牧師が、今年から日本キリスト教会九州中会の下関教会で協力宣教師として奉仕を始められました。このことは、これまで韓半島の教会が日本宣教のために熱心に祈り続け、また、さまざまな宣教活動を続けてこられた中から生まれた、新しい動きの始まりです。21世紀における韓国教会による日本宣教の中で、九州がどのような位置をしめるのか、そのことに焦点を絞りながら、日本宣教と九州ということについてお話ししたいと思っています。ですから、今日の話の主題が、ずばり、「韓国教会の日本宣教にとって九州の果たす役割、九州の持つ意味は何か」ということであると思って話を聞いていただいて結構です。
日本と韓国の歴史を振り返るとき、日本では、過去、日本が韓国を侵略したことが3回あったと言われています。最初は古代、紀元4世紀頃のことです。神功皇后によって新羅が征服されたということです。しかし、これは史実かどうか怪しまれています。神功皇后は果たして歴史上、実在した人物かどうかわからないし、これは歴史と言うよりむしろ神話の世界に属することだと言うべきでしょう。しかし、この神功皇后による朝鮮征伐という神話が、あとの2回の侵略に与えた影響は大きかったという理由で、これは無視できない歴史です。二回目は豊臣秀吉による朝鮮侵略、韓国では壬申倭乱というのでしょうか、16世紀終わりのことです。そして3回目が、1910年に始まり、1945年まで続いた植民地支配です。
この3度あった日本からの韓国侵略において九州はどのような役割を担ったのか。
ここで、わたし自身の家系、両親の先祖のことを、お話しさせて頂こうと思います。
というのは、そこから九州と韓国の関わりが垣間見えてくるからです。
まず、わたしの母方の先祖の話をします。わたしの母は福岡県八女市の出身です。八女市には日本キリスト教会の八女伝道所がたっていますが、その教会の敷地は岩戸山古墳という巨大な古墳に隣接しています。ここには古代、磐井という豪族が住んでいたと言い伝えられており、その磐井という豪族は、韓半島の新羅(その新羅は神功皇后の敵であって征伐されたというのですが、それ)と手を結んで、大和の朝廷、天皇家に反乱を起こしました。紀元527年の磐井の乱です。磐井の一族はこの戦いに破れ、それまで九州に続いていた王朝が滅びます。あとでお話ししますが、このときに滅んだ九州の筑紫王朝は韓半島から渡って来て日本最古の王朝を築いた一族の末裔でした。わたしの母の生まれ故郷は、日本が韓半島と関係を持っていた古代の歴史と深い関わりのある場所なのです。
わたしの父方の先祖も韓半島と関係があります。それは時代が降って、日本が韓国を2度目に侵略した秀吉の壬辰倭乱時代のことです。わたしの家の家系をさかのぼると15代ほど前ですが、先祖は鉄砲の技術者でした。それが父の祖父の代まで続きました。そして先祖からの言い伝えによると、先祖は加藤清正により、優れた鉄砲の技術をもっていたために捕虜として捕らえられ、日本に連行されてきた朝鮮人であり、わたしたちはその子孫だということです。
ついでに1989年に49歳の若さで亡くなったわたしの兄、澤 正彦のことに触れておきますと、彼は、神学生の時に、在日大韓基督教会の李仁夏牧師が、神学校のチャペルで、韓国から日本に渡るキリスト者は沢山いても、日本から韓国に行こうとするキリスト者はひとりもいない、それはどうしてか、玄界灘を渡って、日韓の架け橋となろうとする者はいないのかと訴える説教を聞いて、その説教の中に神様からの召しの声を聞き、玄界灘にたつキリストの十字架による和解を信じて、日本の韓国に対する贖罪と日本と韓国の主にある和解を目指して献身し、そのために生涯をささげました。
かれの生涯は日本が韓国に対して行った植民地支配の歴史と深く結びついています。
わたしの父、母、兄にそれぞれ大きなつながりをもつ日韓の歴史に刻まれた3度の侵略、それは3度とも、殺戮や暴力、捕虜の連行を伴っています。古代にも捕虜が連行され、秀吉の侵略の時もわたしの先祖のように捕虜となって日本に渡った朝鮮の民、その中には多くの陶工もおりましたし、20世紀の植民地支配の時代にも、挺身隊として、また強制労働のために労働者として日本に連行された人、また痛ましい従軍慰安婦となった人々を生み出しました。
どうしてこのような歴史が日本と韓国の間で繰り返されてしまったのか。韓国は一度たりとも日本に侵略したことがないのに、日本は韓国への侵略を繰り返して来たのが日韓の歴史です。わたしは、今日、その最初である古代史を取り上げ、古代における日本による韓国への侵略というのは、そもそも歴史的事実ではなく、それは間違った、歴史の歪曲であったこと、その古代についての偽りの歴史が、秀吉の朝鮮侵略につながり、さらに、秀吉の朝鮮侵略の歴史が増幅されて、20世紀における植民地支配の歴史へと繋がっていったことをお話ししようと思います。21世紀において、今、もう一度日本と韓国の古代史を見つめ直すことによって、そこから開かれる新しい、日本と韓国の歴史のビジョンを回復したいと思っています。
日本の歴史教科書、また日本の歴史学者の大勢も、古代において、日本の大和にあった天皇王朝が韓半島に進出したという説を支持しています。それは任那の日本府と呼ばれています。
しかし、それに対しては、任那(現在の金海)に日本府など存在しなかったこと、(それは古代史における朝鮮総督府と考えられていた)日本の兵が古代に海を渡って韓国に侵攻するということは現実としてはあり得なかったことを主張して、一部の日本人研究者と韓国の歴史家、李鐘恒氏などが反対説を唱えています。
その反対説を要約すればおおよそ次のようなものです。
1 日本の歴史観は大和の天皇王朝が、日本を統一した最初の王朝であって、この王朝が一貫して日本を支配し続けてきたという神話に縛られている。けれども、歴史的には、大和の王朝以前に九州に日本を代表する王朝があった。中国の歴史書にでてくる卑弥呼の邪馬台国がそれであって、邪馬台国は九州の王朝である。その王朝の分家が近畿に進出して築いたのが天皇王朝である。
2 九州に成立した倭と呼ばれる最初の王朝を築いたのは、韓国の加耶族と同一の民族であり、倭は海をまたいで韓半島と九州の両岸に広がっていた。それゆえ、日本から韓半島に出兵するということはなく、流れはつねに韓半島から九州への流れであった。
聖書にも複数の証人によらなければ、証言は確定しないとあるように、日本の歴史記述は日本独自のものであってはならず、他者、他国からの見方と互いに照らし合わせてみなければ客観的に正しいとはいえないはずです。
ところが日本の古代史に関する認識は、8世紀に記された古事記と日本書紀に大きく影響されており、その記述にそうような形で、中国や韓国の歴史書を読もうとします。
しかし、それによって日本の古代史の自画像が歪んだものとなり、日本についての歴史的認識が大きく曲げられていることになかなか気づこうとしません。
この日本中心の国家観、歴史観は戦前、皇国史観と呼ばれて、教育を支配していました。すなわち、日本は万世一系の天皇が統治する神聖国家であり、他の民族や国家とはことなり、特別な国家なのだという考えです。それが日本のアジアに対しての侵略、ことに韓国に対する日本の言われ無き優越感と韓国への蔑視を産み、植民地支配を推進しました。
しかし、問題は、そのような歴史観、国家観、皇国史観が過去のものとして否定され、克服されたのではなく、戦後70年以上たった現在の日本で、いまだに生きており、大きな影響力を及ぼしているということです。
それは特に天皇家との関わりで生き続けています。天皇は神話の世界につながる、天照大神の直系の子孫であるとの神話を日本の伝統であると主張して、その伝統に則った立場に立って、天皇の即位の儀式を行うというのが、日本政府の公式見解なのです!三種の神器の伝達とか、大嘗祭という神道儀式を公に行うのが21世紀の日本政府であることには、憂いを超えて驚きしかありません。
しかし、わたしたちキリスト者や外国人の目からみて奇異な、理解しがたいこのような日本政府のやり方を正面切って批判することは現代の日本ではタブーです。本気でこれを公に批判することは、日本では命の危険を伴うことです。右翼からのテロがあるので、マスコミも政治家も沈黙して口を開こうとしません。また、このような批判が日本人の共感を呼ぶことがないので、天皇制を批判する者は周囲から孤立するほかないのです。
しかし、日本がこのような皇国史観を持ち続けることは、世界において日本が生きてい行く上で不幸なことです。特にアジアの国々との間に真の理解と平和と交流をもつことの妨げになるからです。
歴史的事実、真理に対して謙遜であること、他者と共有できる共通の歴史認識を持つべく努めることが日本にとってなんと大切なことでしょう。
九州にはかつて、天皇家の支配に先立って有力な王朝が築かれていたのが、近畿に天皇王朝が成立すると、九州にあった王朝の輝かしい歴史が抹殺され、九州は辺境に追いやられてしまいました。韓半島との生きた交流の歴史も否定されるようになります。九州の独自の歴史を重んじ、外国、特に韓国との交流を強調しようとすると、外国と手を結んで体制に刃向かうつもりか、九州はもっとも許し難い日本の敵だという烙印を押されかねません。あるいは、日本の体制から睨まれることを恐れる余り、体制に必要以上にすり寄って、体制への忠誠と服従を誓って隷属するようになるか、どちらかになります。
秀吉の時代、九州の大名が先を争って韓半島を侵略する先兵になった歴史がそれを物語っているのかもしれません。植民地支配の時代にも、朝鮮半島に渡った日本人の中に、九州出身者が多くいたのではないかと思います。
21世紀、わたしたちはもう一度、古代の歴史を読み返して、韓半島から弥生時代と呼ばれる稲作農業を中心とする文化が渡来したこと、6世紀の仏教伝来にいたるまで、多くの文化と技術を携えた韓国からの人々が日本に来て、大きな影響をもたらした歴史を学び直したいと思います。
その歴史を受け止め直す時に、6世紀に仏教が韓半島から日本にもたらされたように、21世紀には、今度はキリスト教の福音が、韓国から日本に伝えられるビジョンを、日韓の歴史認識の中に位置づけることは難しくないはずです。
歴史家は古代においては韓半島と九州の間に民族的、言語的、文化的、さらに宗教的に違いがなかったと言います。日韓の間にそのようなことが、今、歴史上、再び起こりつつあるように思います。スマホを片手に九州を歩き回る韓国の旅行者には言語的、文化的バリヤーは存在しないかのようです。壁となってなお生き残っているのは古い皇国史観と結びついた歴史認識が生み出す偏見と差別意識ですが、生きた草の根の人的交流はその壁を取り壊してゆく力を持っています。ヘイトスピーチは日韓の交流にとって深刻な障害ですが、それに参加する日本人は韓国人との接触の機会を全く持たない人であり、少しでも韓国人との具体的な出会いや接触をもつ人は、ヘイトスピーチに走ることはないことがわかっています。九州は韓国と日本が隣人として出会い、お互いの間から偏見と差別意識が取り除かれてゆく希望の実験場です。九州は新しい歴史観を伴った、新しい国家観をうみだせる場になる可能性をもっている場なのです。
これらの考えを聖書の御言葉と福音によって基礎づけたいと思います。
そもそも、歴史的真実とは何か、日本とは、また韓国とはいかなる国なのか、日本と韓国の歴史認識と自己認識、また日韓両国の関係についての認識、両国の歴史はどこから来て、どこに向かう歴史なのか。それを神の言葉の光のもとに、福音を通して認識することが大切なことです。
わたしたち人間は自分で自分について証言しても、その証言は有効性を持ちません。第三者によって、しかも複数の証人による証言があってはじめて客観的に事実として認定されます。しかし、イエス・キリストはたとえ、自分で自分について証ししたとしても、それは真実であると言われました。自分で自分を証しするときに、その証言が正しいのは、「わたしは神である、わたし以外に神はない」と、御自身について証言される神様だけです。イエス・キリストは神であられますから、キリストの自己証言、わたしは世の光であり、命であり、甦りであり、わたしを信じる者は闇の中を歩かず、命の光を持つという御言葉は、だれからも証明されなくてもそれ自体で真実です。しかも、イエス・キリストについては、父なる神が御子キリストについてされる証があります。
この御自身神であり、神の御子であるイエス・キリストがわたしたちに関して立てられる証しこそ、わたしたちがわたしたち自身について持ちうる確かな証しです。その証しによれば、わたしたちは唯一の創造主なる神によって創造された者たちであり、東アジアにおいて、玄界灘を隔てていても、古代において同じルーツを共有する、兄弟と呼べる近しい者たちであり、それが、過去においては不幸な対立の歴史をもったにも関わらず、御子の福音によりその不幸な歴史に終止符を打って互いに和解し、赦し合い、愛し合い、古代からの歴史を再確認させられつつ、いよいよ主にあって切り離しがたい絆で結ばれた兄弟として、創造主にして歴史の主である神の栄光をあらわす者たちとされているということです。
今日は古代史の見直しに焦点を当てながら、九州と日本宣教について考えてみました。
九州はその歴史をアジア、とくに韓半島とのつながりの中でとらえ直すことによって、日本の閉ざされた皇国史観、天皇中心の民族観、国家観から解放され、広く世界に開かれた自由な国家観をもつ可能性のあるところです。そのことは日本宣教にとってとても有意義なことであると思います。
次回は秀吉の時代に九州に生きていたキリシタンの歴史に光をあてながら、21世紀における日本宣教と九州について考えてみたいと思っています。そして最後の3回目は、植民地支配の時代、できれば神社参拝に抵抗した牧師や信徒のことと、九州におけるキリシタンの殉教の歴史とを比較して、これからの抵抗と信仰の証のことを考えてみたいと思っています。
福岡城南教会牧師 澤 正幸