聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第56回「ともし火の輝き」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇37篇1~6節
新約聖書 ルカによる福音書 11章33〜36節

 

今日読んでいる箇所には「ともし火」と言う言葉が出てまいります。33節に出てくる「ともし火」はローソクのともし火、灯りのことで問題なく理解できます。しかし、34節から36節にかけて書かれていることはそうでもありません。例えば「あなたの体のともし火は目である。」というのは何を言っているのか、みなさんお分かりになるでしょうか。

「あなたの体のともし火は目である。」とはどう意味か、それには説明がいると思います。
新約聖書が書かれた時代、わたしたちが目でものを見るのは、ちょうど懐中電灯で暗闇を照らすように、わたしたちの目が光源の役割を果たすようにして、物を見ると考えられていたのだそうです。

暗闇をローソクの光で照らすことで、そこに何があるかがわかりますし、真っ暗な部屋に電灯をつけることによって、部屋の中を自由に行動できるようになります。

わたしたちの体の目がそのような働きをしている、それが「あなたの体のともし火は目である。」と言う意味だと言うことです。それゆえ、その目に灯りがともっていない場合、暗闇で手探りをすることになり、躓いて転んでしまうことになります。

すると33節に戻って、ここで言われている「ともし火」とは何のことでしょうか。また、「ともし火」を灯して燭台の上に置く人とは一体だれのことを言っているのでしょうか。

ヨハネの福音書5章35節に「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と言う御言葉があります。荒野に現れて神の言葉を語ったバプテスマのヨハネは、人々にとって暗い時代に「燃えて輝くともし火」であったと言われています。その灯りのもとで人々はしばらくの間喜び楽しもうとしましたが、ヨハネはヘロデによって獄に囚われ、最後は処刑され、光は消えてしましました。

しかし、ヨハネの死後、ヨハネが生前「わたしの後に、わたしよりも優れた方が来られる、わたしは、かがんでその方の履物の紐を解く値打ちのない」と言った、ヨハネよりも大いなるお方として主イエスが来られ、ガリラヤからユダヤ全土で神の言葉を語られたのでした。この方によってもたらされた「ともし火は」ヨハネによってもたらされた「ともし火」よりはるかに明るく輝く「ともし火」でした。

先週読んだところに、預言者ヨナがニネベに遣わされたとき、ニネベのひと人はヨナの語る神の言葉を信じて、悔い改めて、滅びを免れました。ニネベの人々にとって、ヨナとヨナの語った預言の言葉は光だったのです。また南の国の女王もソロモンのもとに来て、その知恵によって照らされたのでした。しかし、今、ヨナにまさるものがここにある、ソロモンにまさるものがここにある、つまり、ヨナによってもたらされた「ともし火」よりも、ソロモンの知恵の光にもまさる、大いなる光が主イエスによってここに輝いているのです。

33節で言われている「ともし火」とは神がお遣わしになった主イエスによって語られる福音、救いの御言葉のことだと言えます。また求めるものには父なる神が必ず与えてくださると主イエスが約束なさった聖霊のことであると言って良いと思います。
そういたしますと、「ともし火」をつけて、燭台に置いて人々を照らそうとしておいでになるお方はだれでしょうか。それは他でもない、父なる神さまです。

ここで立ち止まって、ともし火について思い巡らしたいと思います。みなさんはどうだったでしょう。わたしが小学生だった頃、理科の時間に豆電球をつける実験がありました。電池のプラスとマイナスを電線で結んで、電流を流す実験です。電気の流れは目に見えませんが、豆電球がつくことによって、電気の流れていることがわかると言う実験でした。豆電球がないと電流の流れがあるのを目で見ることができません。ローソクでも、マッチを擦ったあと、その火を移すローソクが必要です。ローソクがあって初めてともし火が輝き続けます。

それと同じようなことが、主イエスの御言葉の光や聖霊について言えるように思います。主イエスの御言葉の光は、御言葉を聞く人々が、それを、信仰をもって受け止めるとき、人々に御言葉の光が点火されて、人々がローソクとなって、御言葉の輝きが周りを照らします。豆電球がなければ、電流が流れるだけでは「ともし火」はともりません。豆電球が電気の流れを受けて光を放つように、主イエスの御言葉が人々に受けとめられ、その内で光を放つことで、主イエスの御言葉が「ともし火」となるのです。

主イエスの御言葉の光は、わたしたちという小さな豆電球のような者たち、小さなローソクを通して初めて、この世界に灯り、世界を照らし始めます。そのとき神さまは、わたしたちご自身よって点火されたローソクや電球を穴倉の中や、升や寝台の下に置こうとはなさるはずがあるでしょうか。わざわざ点火なさったのに、そんなことをなさるはずはないのです。入ってくる人々が自由に歩けるように燭台の上に置こうとされるに違いありません。

34節
ここで、澄んだ目と濁った目とが対比されています。このところを他の聖書は、純真な目とよこしまな目と訳していますが、先ほど説明しましたように、目が、電球やローソクの灯りのように、光源として理解されていたと言うことですから、ちょうど、蛍光灯でも古くなるとついたり消えたりしますし、ローソクでも風前の灯火という言葉があるように、頼りないいつ消えるかわからないような「ともし火」もあります。静かに、安定した輝きを周りにはなっているともし火か、それとも不安定で、人を平安な気持ちにさせないともし火か、その違いを言っているのでしょう。
35節
神さまは御言葉の光によって、わたしたちにローソクに火を灯すようにして、わたしたちの内と外を明るく照らそうとなさいました。けれども、せっかく神さまがともしてくださったその灯りが、消えかかっている、とても暗いということは十分起こりうるのです。
「調べなさい」は「気をつけなさい」とか「留意しなさい」などと他の聖書では訳されていますが、もとのギリシャ語では注意して見ると言う意味の言葉です。
先週、悪霊を追い出していただいた人のその後の状態が、だれも住まない空き家状態であると、悪霊が自分より悪い七つの悪霊を引き連れて戻ってきてしまうという警告を聞きました。それと同じで、主イエスの御言葉の光に照らされて、自分自身のうちに光をいただき、また自分が周りに人を照らし、喜ばせ、楽しませるともし火となるようにと父なる神様が、自分を燭台の上に置こうとなさるのに、そのともし火がとても暗くて、今にも消えかかっているなら、わたしたちは神さまの御心に反し、御心を悲しませ、失望させることになるでしょう。主イエスは、わたしたちに自分自身を顧みて、そのような者になっていないかどうかをよくよく考えるようにと言われています。
36節
ここに書かれていることを別の聖書のみことばから受け止めたいと思います。
エフェソの信徒への手紙の1章17、18節です。(353ページ)「心の目を開く」すなわち、それまで目が閉じていた人の目が見えるようになることを、先ほど説明しましたように、昔の人々は闇を照らす灯りを全く持たなかった人に、灯りが与えられることだと考えていました。父なる神からいただいた知恵と啓示の霊によって、心に灯りが灯って、周りが見えるようになったとき、何が見えるようになるのでしょうか。自分を愛してくださる神さまの御顔が見えるようになるでしょう。その神さまから子として愛されている自分を見るようになるでしょう。さらに、神さまの光の下で神さまによって造られ、支配されている世界が見るようになります。そして、神さまの光にもとで愛すべき隣人を見るようになります。

神さまの光は、わたしたちに正しく考え、判断する力を与えてくださいます。また神さまの光に導かれて、偽りではなく真理をわたしたちが選び取るとき、また憎しみではなく愛を、復讐ではなく、赦しと和解を選び取るとき、わたしたちの間に、またこの世界に平和の光がもたらされます。

神さまはわたしたちを神さまの光を輝かす、ともし火、ローソクとなさいました。教会はそのまちに神さまの光をもたらすため、神様さまがともし火を置いてくださる燭台なのです。今、全国で無牧師の教会が増えて、町々村々から教会が消えようとしています。教会がなくなることは、燭台が取り去られてしまうことを意味します。そうなったら、その町全体から神さまの光が消えることになるでしょう。

わたしたちを取り囲んでいる危機的な状況を憂いて、今の時代、世界が暗いことを嘆くとしたら、みなさん、わたしたちは世界の暗さを嘆く前にしなければならないことがあります。それは、この世界を明るくするために神さまが灯りとして、わたしたちの中に神さまがともしてくださったともし火が、十分明るく輝いているのかどうか、そのことを顧みることです。わたしたちのともし火が、暗闇に燃えて輝く松明のように、この世界を照らしていないとすれば、神さまの御心のままに、わたしたちが世の人々を楽しませ、喜ばせ、失望している人に希望を与える「ともし火」とならせてくださいと、切に祈りましょう。

わたしたちが光になることはできないのです。光であられるのはあくまでも神さまであって、わたしたちが神になれないように、わたしたちが自分で光になることなどできないことです。わたしたち人間には神を自分の所有物にすることなど許されていませんように、わたしたちには光を自分のものとすることもできないのです。
しかし、神さまは生きておられます。光であられる神さまは昨日も、今日も、世の終わりまで、光として、ご自身の光をわたしたちに受け取らせてくださいます。神さまはご自身の光をわたしたちのうちに輝かせ、さらにわたしたちを通して周りに満ちるようにすることがお出来になります。

神よ、どうかわたしたちの内なる光の輝きを増し加えてください。町々、村々に建てられている教会が人々を照らす灯台となりますように。そして、わたしたちと教会を通して、この世界に住むすべての人があなたの光によって照らされて、真理と正義と平和を喜び、楽しむようにしてくださいと祈りましょう。

父と子と聖霊の御名によって