聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第55回「今の時代」
説  教 澤 正幸 牧師
使徒書簡 ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節
福 音 書 ルカによる福音書 11章24〜32節

 

 

24節
先週読んだルカによる福音書11章14節以下に、悪霊に取り憑かれて口が利けなかった人から、主イエスが悪霊を追い出して、その人は物が言えるようになったということが書かれていました。
今日読んでいる箇所は、それまで物が言えなかった人から追い出された悪霊が、住処を求めて出て行った結果、どこにも住処が見つからなかったために、また元の人のところに戻るという話です。砂漠をうろつきと書かれているように、もともと荒れ野が悪霊の住処だと言われていました。

25節
悪霊が追い出された後のその人の状態を、掃除がされて、整えられていたと比喩的に表現していますが、要するに空き家で、新しくだれかがそこに入居できる状態になっていたということでしょう。
悪霊に憑かれていたとき、この人は何も語ることができませんでした。悪霊から解き放たれて自由に物が言えるようになったとき、この人は何を話したのでしょうか、どんな言葉を語るようになったのでしょうか。
主イエスがこの人から悪霊を追い出されたのは、20節に書かれていますように、神の指によって、神の指をルカの並行箇所であるマタイでは神の霊、聖霊と言い換えていますが、それが聖霊によったということは、彼の口から、神に向かって「アバ、父よ」という呼びかけが、父よと呼びかけて始まる主の祈りが唱えられるということでしょう。さらにパウロがだれも聖霊によらなければイエスは主なりということができないと言っていますように、主イエスをキリスト、救い主と信じる信仰告白の言葉が語られていいはずでした。
しかし、後に続く26節を読むと、そこに悪霊が仲間を引き連れて戻ってきて、住み着くとあります。

26節
ペットボトルや瓶から空気を追い出そうとしたら、液体を充たさなければなりません。聖霊によって満たされることによって、初めて、悪霊が戻って来てそこに住み着くことを阻止することができるでしょう。聖霊によって満たされることがないなら、器は依然としてからのままで、そこには聖霊ではないもの、一旦自由になったと思った以前の悪霊が、以前にも増してたくさんの仲間を引き連れてやって来て住み着き、その人をもっとひどい状態に陥れることになりかねないということが警告されています。
パウロは「わたしたちは、聖霊の導きによって生きているなら、聖霊の導きによって前進しましょう」と呼びかけています。
悪霊から自由になっただけで満足していてはならないのです。それだけでは不十分なのです。主イエスが聖霊においてわたしたちのうちに住んでくださらなければなりません。主イエスの霊を祈り求めて、いよいよ聖霊によって導かれて、前進することが不可欠なのです。さもなければ、わたしたちは空き家の状態に等しく、そこに再び悪霊が住み着くことになるでしょう。
パウロが聖霊の結ぶ実としてあげた喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を追い求めること、そのために聖霊を祈り求め続けること、それが聖霊において前進することです。
パウロが聖霊に導かれる生き方の反対の生き方としてあげている、肉の業は、悪霊の支配と同じとは言えないかもしれません。でも、肉の業としてパウロが挙げている、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴といったものは、わたしたちが主イエスを信じて洗礼を受ける前、聖霊の思いを知らされる前にしていたことです。しかし、今は、洗礼を受けて聖霊の宮としていただいた以上、わたしたちはこのような思いを十字架につけ、それらに対して死んだはずのものたちです。けれども、事実、わたしたちはそれらに完全に死に切っていないので、肉の思いがわたしたちのうちに残っています。だからこそ、わたしたちには聖霊によって前進することが必要なのです。

27節、28節
主イエスの母をほめたたえるということは、主イエスの偉大さをほめたたえることに他なりません。その言葉に対して主イエスは、しかし、間髪を入れずに否を唱えられます。大事なことは主イエスの偉大さをほめたたえることではない。そうではなく、自分自身が主イエスの語られる神の言葉を聞くもの、それを守る者になることこそが大事なのだと言われるのです。
主イエスは偉大だと褒めたたえながら、自分自身は主イエスと比べてつまらない存在であり、主イエスには及びもつかないと言って自分を卑下することは、父なる神さまの御心ではありません。
主イエスが悪霊を追い出すことのできる力を持つ偉大な方だと言って主イエスをほめたたえながら、自分自身が聖霊に満たされて、神さまを父よと呼んで祈り、聖霊に導かれて愛に生きる、神のこどもになることをしないなら、主イエスをほめたたえることになんの意味もないことになります。
主イエスの母マリアも神さまのみ言葉を聞いて、それに聞き従う人でした。マリアは神さまのみ言葉を聞いてそれを守る、神さまのこどもたちの一人であったのであって、特別な存在ではありませんでした。

29節、30節
この段落には「今の時代」と言う言葉が4回も繰り返されています。今の時代と対置されているのが「裁きの時」です。神の裁きが下される時とは終わりの日のことです。「今の時代」が終末の時と対置されているのです。このことを最近わたしたちが経験したことと結びつけて考えてみようと思います。
今年の初めに能登半島で地震が起きましたが、しばらくして一つのニュースを聞きました。それは珠洲市と言う、震度6の強い地震と、津波の被害もあったところは、かつて原子力発電所を建設する計画があり、住民の粘り強い反対運動でその計画が凍結されるに至ったところだったと言うニュースでした。もし、原子力発電所が計画通り建設されていたら、福島の原発の過酷事故が再現していたことを思うと、住民の反対運動がもたらした結果は実に大きかったと言う話でした。
珠洲市の人たちにとって、今回の震災は「裁きの時」だったと言えると思います。住民の反対運動がなされていたとき、人々は原発建設推進派と反対派に分かれていました。賛否両論あった対立に対して、今回の震災を通して一つの裁きが下ったと言えます。今回、かつて建設に賛成していた人々も、原発が建設されなかったことを喜び、感謝するようになったでしょう。
30節に「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなった」とあり、32節に「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の人々を罪に定めるであろう」と言うのは、どう言う意味か、わかりぬくいかと思いますが、説明すれば次のような意味になります。
預言者ヨナはニネベと言う神の民イスラエルではない異邦人の人々に遣わされました。ニネベの人々は、預言者ヨナが告げるニネベは悔い改めなければ滅びると言う警告を聞いた時、灰をかぶって悔い改めました。主はそれをご覧になり、ニネベを滅ぼすことをやめ、ニネベの町は救われたのでした。それに対して、主なる神の民であるイスラエルとエルサレムはどうだったかといえば、主から何人もの預言者を遣わされたにもかわらず、イスラエルもエルサレムの人々も悔い改めませんでした。その結果、イスラエルもエルサレムもついに滅ぼされるに至りました。
終わりの日、裁きの時に、異邦人であるニネベの人々は主の民イスラエルの不信仰の罪を明らかにし、彼らを罪に定めるでしょう。
そのように、今の時代の人々も、すなわち、主イエスが来られ、主イエスを通して罪の悔い改めと神の赦しと恵みによる救いの言葉を聞かされている今の世代の人々が、ヨナの予言を聞いて信じて悔い改めて、救いに入ったニネベの人々のように悔い改めることをしないなら、終わりの日、裁きの日に、ニネベの人々によってその不信仰の罪を責められることになるだろうと言うのです。

わたしたちが、この礼拝においてそのお方の言葉に耳をかたむけている主イエスにおいて、ヨナにまさり、ソロモンにまさるものが、今、わたしたちと共にあるのです。このお方が語られる神の言葉を聞くこと、このお方が教えてくださった通り、聖霊を求めて祈ること、そして御言葉と聖霊に導かれて生きることは、すべてにまさることなのです。

しかし、そのことを信じないで不信仰な生き方をするなら、終わりの日、裁きの時に、その不信仰が裁かれるでしょう。聖霊に導かれて生き始めたにも関わらず、力を尽くして聖霊によって前進しようとしない信仰者は、中途半端な生き方をすることによって、空き家の状態で生きているのです。そのような生きかたをすれば、わたしたちはせっかく洗礼を受け、信仰を与えられながらも、信仰を持つ以前よりももっと悪い、何倍も悪い状態に陥ることを恐れなければなりません。

主イエスは今日もこうしてわたしたちに神の言葉を聞かせてくださり、わたしたちを神のこどもたちとして、喜んで神の言葉を守り、聖霊によっていよいよ愛に満ち、希望に満たされて生きるようにと招いてくださいます。わたしたちは聖霊において前進しましょう。わたしたちにとって、聖霊において前進し、いよいよ信仰から信仰へと進むものとしていただくことは、世界でもっとも大いなることであり、神の栄光であり、わたしたちの幸いなのです。

父と子と聖霊の御名によって