聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第10回「イエスも洗礼を受けられた」 説教 澤 正幸牧師
福  音  書 ルカによる福音書 3章21〜22節
使  徒  書 ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節  

 

ルカによる福音書連続講解説教 第10回「イエスも洗礼を受けられた」

21、22節
主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書が揃って記していることです。その中で、私たちが読んでいるルカによる福音書は、主イエスの洗礼について記すとき、「民衆が皆洗礼を受け」と、ヨハネから洗礼を受ける民衆のことから書き出しています。ヨハネが「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝え、多くの民衆がヨハネから洗礼を受けたとき、その民衆の中に、その一人として主イエスもまたおられたということにルカは注目しています。

それは他の福音書と比べて、ルカの特徴的な点だと思います。例えば、マルコが主イエスの洗礼について記しているマルコ福音書の1章9〜11節を開いて読めば、マルコは主イエスがナザレから出てきて、一人、ヨハネのもとで洗礼を受けたこと、そして、天が裂けて、霊が鳩のように降ってくるのを見たのは主イエスであり、天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞いたのも、主イエスお一人だったと読めます。マルコは主イエスの洗礼を記すとき、主イエスだけに集中していて、一緒に洗礼を受けた民衆には一言も触れていません。

ルカの場合も、天から聖霊が鳩のように降るのを見たのは主イエスであり、主イエスだけが天からの声を聞いたと読めると思います。でも、ルカの場合、主イエスが民衆の一人となられ、主イエスが民衆と共に洗礼を受けてくださったことによって、このとき主イエスが洗礼に際して見たこと、聞いたことを、洗礼を受けた民衆もまた、見るようになり、聞くようになるということを暗示しているように読めないでしょうか。

もう一つの福音書である、マタイによる福音書は主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとしたとき、ヨハネがそれを止めようとしたことを記しています。なぜヨハネは主イエスが自分から洗礼を受けることに反対しようとしたのでしょうか。
ヨハネが授けていたのは「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」でしたから、罪のない神の御子がヨハネからそれを受ける必要はないと考えたからかもしれません。そうであれば、なぜ罪のない神の子である主イエスは、ご自身がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたることに固執されたのでしょうか。それは、主イエスがご自身の洗礼において、わたしたちのために、わたしたちの洗礼を完成してくださるためだったと言えると思います。
つまり、主イエスがご自分の洗礼において見たものを、私たちも見るようになるために、主イエスが洗礼に際して聞かれた神の声を、私たちが聞くようになるためだったということです。
主イエスがご自身の洗礼において見たのは、天が開けて、聖霊が下ることでした。
天が開けるとき、主イエスは父なる神がみ顔を主イエスに向けておられるのが見えたでしょう。
私たちの礼拝の最後の祝福において読まれる民数記6章を開いて見ていただきたいと思います。ここに「主が御顔を向けてあなたを照らす」とあります。これは主なる神がわたしたちに笑顔を向けられること、微笑みかけられることを意味します。父母が、また祖父母が、生まれたての嬰児に笑顔を向けるように、父なる神は満面の笑みを私たちに向けられるのです。

先ほど読まれたガラテヤの信徒への手紙をも、もう一度開いて見ていただきたいと思います。ここに、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と書かれています。主イエスが私たちの受ける洗礼を自ら受けられたことによって、わたしたちは洗礼を通してキリストを着るようにしていただいたのです。キリストを着るということは、神さまが、私たちをキリストであるかのように見てくださるということです。また、キリストであるかのように、神が私たちに親しく語りかけてくださるのを聞くということです。

23節
主イエスの洗礼は、これを境に主イエスが、いよいよ公生涯に入られ、福音宣教を開始されるスタートでした。

主イエスは洗礼に際して、天が開けて父なる神の御顔を仰がれただけでなく、父なる神が「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と語りかけられる声を聞かれました。
父なる神が主イエスをご自身の独り子として愛しておいでになることは、主イエスにとって、このとき初めて聞かれることではなかったと思います。この声を聞くまで、そのことを自覚することもなかったのが、このとき初めてそれを自覚するようになったというのでもなかったと思います。そうではなく、これはすでに知っていたことを再確認したということだったと思います。

わたしたちにとって、洗礼は一回限りのものです。しかし、主イエスの洗礼に際して主イエスが見たことを、私たちが主イエスと共に見るようになるのは、私たちにとって生涯をかけてのことだと思います。私たちが、主イエスが洗礼において聞かれた、あの神の声を、私に対して語りかけられている父なる神のみ声として聞くのは、一回限りのことではなく、繰り返し、新しく聞くことだと思います。

主イエスにとって、洗礼が神の子としての自覚の再確認であったように、私たちにとって、洗礼は、一回限りの洗礼を、生涯にわたって繰り返し受け止めて、そこで、洗礼の意味を再確認するためにあると思います。そして、それを再確認するたびに、私たちは、神の愛に対する私たちの応答を呼び起こされざるを得ません。神の愛は、親が自分の嬰児を純粋に一方的に喜び愛するような愛であって、その愛を受ける者にとっては受け身の愛である面がありますが、それと共に、神からの愛は私たちを受け身の愛にとどまらせず、愛もまた成長して、私たちもまた自覚的に父なる神を愛し、全身全霊をかけて、神への愛と隣人への愛に生きようとする志になってゆきます。

最後に、主イエスが洗礼に際して見た、聖霊がご自身の上に降ったことを覚えたいと思います。洗礼を通して、私たちの上にも聖霊が注がれ、わたしたちは神を「父よ、アバ」と呼ぶようにされます。それは、今も、これからも、神に父よと呼びかけ、神に祈り続けることへの召しです。その祈りは、主イエスが十字架の死を前にしてゲッセマネの園で、「アバ、父よ、あなたには何でもできないことはありません。できることならこの盃を私から取り除けてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた、あの祈りに倣って、私たちが自分の生と死を通しても父なる神の御心が行われますようにと祈って行くことです。

それゆえに、私たちも主イエスが洗礼を通して聞かれた「あなたは私の愛する子、私の心に適うものである」とのみ声に、神さまのもとに召される日まで、繰り返し、新しく聞いて、神様を愛し、隣人を愛して生きてゆこうとの決意を、今日、新しくしたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。