聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第7回「わたしの目はあなたの救いを見ました」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇 123章1~2節
新約聖書 ルカによる福音書2章21〜38節  

 

ルカによる福音書連続講解説教 第7回「わたしの目はあなたの救いを見ました」

21節、22節 幼子の主イエスは、生まれて8日目に割礼を受け、さらにある期間を経て、ヨセフとマリアの両親に連れられて、エルサレムの神殿に行かれました。22節にある「モーセの律法に定められた清めの期間」というのは33日間とされていたので、幼子の主イエスが最初の宮詣にエルサレムに連れてこられたとき、生後40日ほど経っていました。
そのとき、神殿でシメオンという一人の年老いた信仰者が幼子の主イエスを出迎えました。彼は幼子の主イエスを腕に抱いて祝福し、神を讃えて歌いました。それが「シメオンの賛歌」と呼ばれる歌です。
29節、30節 「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

25節、26節 このとき、エルサレム神殿で幼い主イエスを出迎えたシメオンについて、ルカは「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」と記しています。
シメオンは幼子の主イエスに出会ったとき、この出会いにおいて、彼の待ち望んでいた「イスラエルの慰め」られるときが訪れた、それゆえ、今こそ、自分はその慰めをいただいて、平安のうちに世を去ることができるといいました。

シメオンは、幼子の主イエスを見て、「わたしの目は主の救いを見た」と言ったのでした。
幼子の主イエスと出会って、幼子を見たことが、どうしてシメオンにとって主の救いを見ることになったのでしょうか。
どうして、この幼子を見ることによって、イスラエルが慰めを受けたと言えるのでしょうか。

原文では、3回「見る」という同じ言葉が繰り返されています。一度目は「メシアに会うまでは決して死なない」の、「メシアに会う」の「会う」が「見る」という言葉です。そして、二度目は、「決して死なない」は、原文では「死を見ない」となっています。そして、三度目は「この目であなたの救いを見た」とあるところです。
メシアを見る、死を見る、救いを見る、と「見る」という言葉が三度重ねられていますが、いずれもシメオンが幼子の主イエスを見たことによって、幼子主イエスのうちに見ることになったものだと言えるでしょう。

今、シメオンは、彼の腕の中に抱かれている幼子の中に、救い主メシアを見ています。彼の見ているメシア救い主は、シメオンの腕の中に抱かれています。ということは、彼が手を離して落とせば、救い主であるお方は地面に叩きつけられてしまうような存在であるということ、つまり、人間の手で守られなければ、生きてゆくこともできない存在が救い主であるであるということです。これは、なんという信じがたいこと、逆説でしょうか。

神は、ご自身の独り子をメシア、救い主としてこの世に送るに当たって、そのお方を幼子としてこの世に生まれさせました。
独り子を幼子としてこの世に生まれさせるということは、その子を、死ぬものとさせられたということに他なりません。それは、年をとったら、やがて死ななければならない人間として、この世界に送られたというにとどまりません。そうではなくて、幼子として生まれさせたということは、抵抗力も体力もないので、すぐに死んでしまう幼子、自分の命を守ることのできないものとされたということです。わたしたち親は、幼いこどもの命を守ってあげられない、救ってあげられない、それほどに幼子の命というものがはかないものであることを知っているのではないでしょうか。幼い子供が実にあっけなく命を落としてしまうということを、知っておいでになる方、体験された方もおありでしょう。神は、独り子を、幼子として、それほどまでにはかない命としてこの世界に送られました。ある意味で、父なる神はそうすることによって最愛の独り子を手放してしまわれた、失ってしまわれたと言っても過言ではありませんでした。主イエスの幼い姿は、やがて、自分で自分を救えないで十字架で死んでゆかれたあの姿を先取りしています。

父なる神は、最愛の独り子を世に送られたとき、子を失う父となられました。
聖書には、一人息子を失ったやもめや、幼い娘を失った会堂司の父親が出てきます。主イエスはそのやもめや会堂司を憐れんで、その息子や娘をよみがえらせてくださいました。
息子や娘をよみがえらせられた主イエスの中に、独り子主イエスを死者の中から復活させられた父なる神がおられます。神さまは、独り子なる主イエスを失う父となられることによって、子を失った母や父を憐れむ神となられたのです。全能の父なる神さまは、独り子なる主イエスを死者の中から引き上げ、よみがえらせられることによって、子を喪った母や父に愛する息子や娘を返してくださる慰めの神となってくださるのです。

シメオンは幼子の主イエスを腕にだき、その幼子を見るとき、死にゆく自分自身を幼子の主イエスに重ねて見たでしょう。そして、その幼子を限りない愛をもって死から救われる父なる神は、シメオンをも限りない愛をもって救われるお方であることを、信仰の目をもって見るのです。
シメオンの目にしている幼子の主イエスの姿は、父なる神の目に映っているシメオン自身の姿に他ならないのです。それこそが、シメオンが「わたしの目は、今日、あなたの救いを見た」と告白し、神を賛美した理由だと思うのです。

31節、32節 イスラエルの民が待ち望んでいた慰めがここにあります。そして、それは全世界の人々のために整えられた救いであり、全世界の人々を照らす光です。

父と子と聖霊の御名によって。