待降節第二聖日礼拝 「受胎告知」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 ゼカリヤ書 4章6節
新約聖書 ルカによる福音書 1章26~38節  

 

天使ガブリエルが、マリアのもとを訪れました。ガブリエルは、彼女が聖霊によって男の子を産むと告げました。ガブリエルが現れ、マリアに挨拶してから、彼女のもとを去ってゆくまでに、どれくらいの時間が経ったのでしょう。それはあっと言う間の、一瞬の出来事だったのでしょうか。

天使がマリアのところに来た時、そこにはマリアの外に、誰も居合わせていなかったのでしょう。ですから、このことはマリア以外、誰も知らない、マリアだけの秘密でした。この秘密の話を、一体誰が信じてくれるでしょうか。マリアは自分の身に起ころうとしている重大なことにつて、だれにも打ち明けられない、相談できない孤独の中に置かれたのです。

ルカはマリアへの受胎告知の出来事を、26節で「六ヶ月目に」と書き出し、36節でも再度「もう六ヶ月になっている」と記す形で、六ヶ月という言葉でカッコにくくっています。この受胎告知の物語を囲んでいる「六ヶ月」というカッコは、今日読んでいる箇所の前に書かれている、バプテスマのヨハネの誕生の物語に関わっています。ザカリヤという年老いた祭司のもとに神から遣わされた天使ガブリエルが、彼の不妊の妻、エリサベツが男の子を産むであろうと告げ、そのみ告げ通りエリサベツが身ごもってからの月日、それが6ヶ月目という時でした。

年老いたザカリヤと不妊の妻エリサベツに男の子が生まれると告げた天使ガブリエルのみ告げは信じがたいものでした。しかし、その信じがたかったみ告げが誰の目にも隠れもなく露わになったのが、この「六ヶ月目」という時でした。

その「六ヶ月目」の時に、天使ガブリエルはマリアを訪れて、み告げを告げたのでした。それにより、誰一人信じてくれない孤独の中でみ告げを聞かされるマリアにエリサベツという力強い味方が与えられるようになったのです。マリアを信じて、一緒に立ってくれるエリサベツが主によって備えられたのです。

新約聖書には主イエスの公生涯を記す4つの福音書がありますが、主イエスの誕生の出来事はマルコ、ヨハネの福音書には書かれていません。先週、ルカによる福音書を読み始めるにあたり、ルカが、彼の前にすでに書かれた福音書があったのに、なぜ、この福音書を書こうとしたのかということを一緒に考えました。その時申しましたように、福音書が記す主イエスの語られた言葉、主イエスのなさったわざ、主イエスの公生涯は一つでしたが、それを聞いた人、見た人、そして見たこと、聞いたことを証言した人たちは複数だったということ、それゆえに、その証言を元に書かれた福音書も複数存在するということでした。
ルカは自分の福音書を書くとき、マルコ福音書を机の上に開いていたという人がいるくらい、ルカがマルコ福音書から受けている影響は大きいのですが、そのマルコ福音書は、荒れ野における預言者バプテスマのヨハネの活動から始まっています。ルカはそれに対して、バプテスマのヨハネの誕生の記事、さらに主イエスの誕生の記事から書き始めたのです。それは、マルコが書かなかったそれらについて、証言した人々がいて、それをもとにルカが書いたからです。では、今日読んでいる主イエスの誕生についての証言者とは誰でしょうか。私たちはその証言者の中に主イエスの母、マリアがいたと思わざるを得ません。

ヨハネの誕生物語は、天使ガブリエルの言葉を信じなかった父ゼカリヤの口がきけなくなり、彼はヨハネが生まれた日にようやっと口がきけるようになって、主を賛美したと書かれています。それに似た沈黙の期間がマリアの証言にもあったとように思います。主イエスの出生に関わる秘められた証言は長い沈黙の後に、ルカによってようやく語り出されたということです。

27節.「そのおとめの名はマリアと言った。」マリアはヨセフと婚約していました。当時のパレスチナでは結婚適齢期は12歳だったと言われています。女性は12歳で婚約し、半年経って結婚したといいます。ですから、マリアの受胎告知の出来事は、婚約と結婚の間のわずか半年の間に起こったことになります。マリアは「どうして、そのようなことがあり得ましょう。私は男の人を知りませんのに」と言って戸惑います。それは当然のことでした。マリアはまだヨセフと一緒になっていなかったのです。このアリアの戸惑いと、マタイ福音書が記している、夫ヨセフと一緒になる前に、マリアが身重になっているのを知ったヨセフが、密かにマリアを離縁しようとしたという証言とが一致しています。

男性との性交によらないで、女性が妊娠するということを誰が信じられるでしょうか。マリアの妊娠は聖霊によったという聖書の証言、その証言は遡ればマリア自身の証言に行きつきます。私たちはマリアの全身全霊をかけての渾身の証言を聞かされているのです。

誰にも信じてもらえないと思われるマリアの証言を信じた人がいました。ヨセフが信じました。さらに、エリサベツが信じました。今日、これらの証言を聞く私たちが、それを信じるということは、どういうことなのでしょうか。

それは、背中合わせの、二つの側面を持つ一つのことを信じることだと思います。
一つは、マリアが夫ヨセフの協力なしに、聖霊によって男の子を産むことができると言われているように、神さまは、人間の力、わざによらないで、人間からの協力や可能性なしに、それらを排する形で働くことがおできになるということです。
しかし、それは同時に、神さまが、マリアの胎、その体、体だけでなく心と魂、その全存在を通して、主イエスをこの世に生まれさせられたように、神さまは人間を用いてみわざをなさるということです。それがもう一つのことです。そして、これらの正反対のことが一つに結びついているのを、そのままに信じるということです。

第一のことの意味は、神さまのわざは人間の可能性によって限界づけられないということです。先ほど、旧約聖書のゼカリア書の言葉を聞きました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」とありました。
圧倒的な武力や権力の前で、私たちは自分たちの無力さを痛感させられることが多くあります。しかし、神さまの聖霊は、人間の賜物の限界を自由に超えて働くことができます。
そもそも、すべての始まりである命そのものが、人間の可能性によってではなく、神の創造によって与えられているのです。私たちの命ですら、人間の可能性によったのでないことを信じるなら、マリアが聖霊によって男の子を産むことが、同じ神の創造のみ力によって起こることを信じることは果たして無謀なことでしょうか。主イエスを死者の中から復活させ、死から命を、無から有を呼び出される神にとって、聖霊によってマリアから男の子を産ませさせられることが不可能なことであるとは信じません。

他方、神さまはその救いのわざを、人間を用いないではなさらないのです。死んで朽ちてゆく肉体、マリアの限りある弱い肉体を用いてなさるのです。マリアが救い主の母となるのは、妊娠と出産の時だけではないのです。救い主として生まれてこられる方は、空腹と、病気と、ありとあらゆる危険からマリアが母として守ってあげなければ、育つことはできい嬰児として生まれたのです。

どうしてそんなことがあるでしょうか、と言って驚くのは、主イエスが単に聖霊によって生まれてくるということだけではありません。神の子であられるお方が、それゆえ神であるお方が、マリアによって産んでもらい、守ってもらい、育ててもらわなければならないような小ささ、弱さ、もろさ、儚さ、あるいは差別や蔑みの言葉を浴びせかけられる惨めさ、そしてついには十字架上で、罪人の一人としての死を死なれた、恥と苦しみの中にまでご自身を低められたのかということに驚かされるのです。

21世紀に生きている私たちが、今という時代に、神の子が聖霊によってマリアから人として生まれるということを、信じるということは何を信じることなのか。使徒信条の「主は聖霊によってやどり、処女マリアから生まれ」という信仰告白を、現代の新約聖書学者の中で信じている人など、ほぼ皆無であると言われたのを聞きました。一体、この信仰告白は何を信じているのでしょうか。

それは低くなって、マリアから聖霊によって、人となって生まれてこられたイエス・キリストを見ることによって、神の子キリストが同じ肉体をとってくださって、兄弟となってくださった私たちは、イエス・キリストが神の子であられるように、私たちも神の子どもたちであるという信仰です。イエス・キリスト、神の子でありながら、人間として、人間の限界と弱さと死の中にある、このイエス・キリストは、しかし、聖霊によって罪にも死にも勝利する神の子であられるのです。そのように、私たちも、限りある、弱さと貧しさの中にありますが、聖霊によって、主イエスの兄弟、主イエスの父であられる神の子どもたちとして、主イエスとともに神に生きる者たちなのだということです。

マリアもまた、自分自身が弱く、貧しく、限りある身でありながら、彼女は、自分のような小さな存在も、聖霊を通して神様に用いていただくことを信じたのです。そして、それを信じたマリアは、自分からそれを願って、「わたしは主の婢女です。御言葉通りこの身になりますように」と言って、自分を捧げたのです。これが、天使ガブリエルがマリアにいった、主がマリアと共におられるという言葉の意味だったのだと思います。

主は御言葉を通して、私たちにも言われます。「おめでとう、主があなたと共におられます」と。今朝、私たちも、マリアと共に言いましょう。「私たちは主のしもべ、はしためです。御言葉通りこの身になりますように」と。

父と子と聖霊の御名によって