聖日礼拝 「信仰者はもっと大きな業を行う」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇115章1節
新約聖書 ヨハネによる福音書 14章12節  

 

 

今朝は、今読んでいただいた聖書の一節を通して、そこで語られている御言葉に聞きたいと思います。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである。」(14章12節)

先週の永眠者記念礼拝の説教で、この教会においてわたしたちが今、実際にこの目で見ている信仰の証についてお話ししました。使徒パウロがフィリピの獄吏に語った「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)との言葉を信じて、家族の救いのために祈っておられた姉妹たちは、生きておられる間には、その祈りが聞かれることはなく、家族が信仰へと導かれる姿を見ることなく主の御許に召されて行かれました。しかし、主のもとに召された後に、その祈りは聞かれて、今日もこうしてかつて姉妹たちが座っていた席に家族の方達が座って礼拝を守っておられます。

信じて祈っていた姉妹たちが、世を去られ、もう、この地上に共におられなくなった後で、初めて祈りが聞かれ、願いが実現するということ、それがわたしたちの目の当たりにしていることですが、もし、それが姉妹たちの生きている間に実現していたら、姉妹たちがそれを見てどんなにか喜ばれただろうと思わずにおれません。しかし、そうはならなかったのでした。なぜ、生きている間にそれは実現せず、姉妹たちがそれを見ることができなくなった後になって初めて実現するのか、そこには何か理由があるのでしょうか。

同じようなことが、主イエスと弟子たちの間においてもあったことを、聖書は記しています。主が、弟子たちと一緒にいる間は実現しないけれど、去って行かれた後に初めて実現することがあると言われたことがありました。それは今日読んでいる箇所の少し後、ヨハネ福音書16章に書かれていることです。
最後の夜、主イエスは別れの時が迫り来る中で、弟子たちにこう告げておられます。「初めから・・・。」(ヨハネ16章4b〜7節)
主イエスは、主イエスが去って行かれることは弟子たちにとって益であると言われます。その方がよほどましであり、それは弟子たちにとって損失どころかかえって得なのだというのです。

ここで、主イエスが去って行かなければ遣わされない弁護者、主イエスが去っていくことによって初めて遣わされる弁護者と言われているのは、主イエスが天の父のもとに昇られて、父なる神の右の座から、ペンテコステの日に弟子たちの上に注がれた聖霊のことです。

最近、新聞のコラムに書かれていたことで、今、言われている主イエスが去られた後に遣わされる聖霊との関連で、わたしの心に留まった記事がありました。それを皆さんに紹介したいと思います。
もう30年近く前のことですが、アメリカに留学していた高校生が、ハロウィーンの日にパーティーが開かれる会場の家だと思って、間違えて別の家に入って行って射殺されるという悲しくも痛ましい事件が起こりました。そのとき亡くなった高校生の両親は息子さんの命を奪ったアメリカの銃社会に抗議して、銃規制を訴える活動を、それ以来続けてこられましたが、30年経って、高齢となられたので、その活動に終止符を打たざるを得なくなったという記事でした。その父親は長年の活動を振り返ってこう言っておられたと言うのです。「天国に行った息子の魂が、わたしの体を動かしたようなものだ」というのを読みました。

銃で殺された息子さんの魂、その心、思い、願い、志が、地上の父親からだを器として、道具として用いて、業となって現れている、それと14章12節の御言葉が重なるように思ったのです。ここで主イエスは、「わたしが父のもとに行く」、すると、主イエスの弟子たちは、主イエスが共におられた間にしていた以上の業をするようになる。そのとき、弟子たちは、天に行かれた主イエスの霊が働く道具としての、主イエスの体になるのと似ているように思うのです。

主イエスがいなくなって、地上から、弟子たち共にいた状態から、天の父のもとに行かれる、それによって始まることは、弟子たちにとって、さらに良いこと、益になることであり、そのとき、弟子たちはかつてよりもさらに大きいわざと働きをすることになるということです。

シュラッターの聖書注解書は、二つの状態が比べながら、12節の御言葉についてこう記していました。
主イエスと弟子たちが共にいた最後の晩、主イエスのもとには小さな群れが座って「わたしたちには、その道がわかりません。ただ父を示してください」と訴えていた。しかし、ペンテコステの日に生まれた教会は、御霊と真理によって弟子たちと共に神を礼拝する多くの人々で満ちていた。

主イエスが弟子たちと共におられるときの状態と、主イエスが弟子たちのもとからいなくなって、天に行かれる状態とを比べたとき、どうして、どういう意味で、それがより良い、より素晴らしいことになるのでしょうか。そのとき、弟子たちは「もっと大きな業を行うようになる」と言われているのは何故なのでしょうか。

わたしたちの信仰をパウロはこう言い表しました。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2章20節)

信仰者であるわたしたちが信じている言葉、語っている言葉は、人間であるわたしたち信仰者が信じ、語る言葉ではありますが、そうである以上に、神の語られる、神が約束しておられる言葉であること、そのことは、信仰者が生きたまま、一緒にいるのでなくて、もはや共にいない、目に見ることもできないようなっても、いや、そうなって初めて、よりはっきりと見える形をとると言えないでしょうか。信仰者を生かしているのは、信仰者の中に生きておられるキリストであることは、地上の命が終わったときに、いよいよはっきりと現されます。それがパウロの語っている信仰です。

主イエスが地上にあって、主イエスお一人を通してなされる業、そして、それを通して現される父なる神の栄光がありました。それと比べて、主イエスが地を去られた後、主イエスを信じる人々が、主イエスの名によって行う業、それを通して現される父の栄光とでは、どちらが大きいでしょうか。
主イエスは言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12章24節)
けれども、一粒の麦として主イエスが地に落ちて死なれて結ぶ実を通して現される栄光がより大きく、素晴らしいのは、ただ単に量的に、数字的に大きいというのではなくて、父なる神の栄光をよりはっきりと、鮮やかに現しているという意味で「もっと大きい」と言えるのだと思います。

主イエスの復活も神の栄光です。それとともに、おそらく、それ以上に主イエスを通してわたしたちが復活させられることは、より大きな神の栄光ではないでしょうか。

それゆえ、今日、わたしたちはこの御言葉を通して聴くことを許され、信じることを許されていることを、このように言い表すことができるでしょう。

主イエスは言われました。わたしを見たものは父なる神を見たのだ、と。
主イエスの十字架の死。貧しさ、低さ、恥と苦しみ。それを通して、わたしたちは、この貧しい世界、恥と、苦しみに満ちた世界を深く憐れみ、ご自身の御子を死に引き渡されるほどに、この世を愛される父なる神を見ています。そして、その主イエスの死者の中からの復活を見て、わたしたちは、わたしたちを限りない愛を持って喜び愛される父を見ています。

それと並んで、主イエスを見る人が父なる神を見るように、主イエスを信じる信仰者、わたしたちを見る人は、それによって、わたしたちのうちにいます主イエスを見るのであり、主イエスのうちにいます父なる神を見るということが、言えるのです。

わたしたち、貧しい罪ある者たちを、愛し、赦し、救われる主イエスが、主イエス信じているわたしたちのうちにおられ、その主イエスを通して父なる神がわたしたちのうちにおられるのを見るのです。

それは、一見、矛盾したような、逆説的とでもいうようなことです。主イエスはもはや地上にはおられません。しかし、この空白になった、不在になったように見える世界に、神は聖霊によって栄光を満ち溢れさせておられます。父のもとにゆかれ、聖霊を送って、わたしたちを主イエスの身体として働かせて現される業は、神の大いなる業であり、大いなる栄光です。

ですから、心を騒がせざるを得ない世にあって、心を騒がせることをやめましょう。父なる神を信じ、イエス・キリストを信じ、父・子・聖霊なる三つにして一人であられる神さまの栄光を仰いで、信じましょう。

父と子と聖霊の御名によって