聖日礼拝 「自分の家に帰りなさい」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇90編1~15節
新約聖書 マルコによる福音書5章1~20節

 

二週間前の説教は、マルコ福音書2章による、中風の人の癒しについての説教でした。その説教題は「家に帰りなさい」でした。
わたしたちの礼拝は、主イエスの二つの御言葉、「あなたの罪は赦される」との罪の赦しの御言葉と、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」という御言葉が語られ、それが聞かれるところです。わたしたちは、それらの御言葉によって、罪を赦された平安のうちに、また罪の赦しの約束のもとに生きられる喜びと感謝のうちに家に帰り、普段の日常生活、特別なことではなく、自分に与えられた地道な日々の業に励むようにしていただいている、これがわたしたちの礼拝を通して預かっている救いであるということを、ご一緒に聞きました。

そして、先週の説教では、そのような罪の赦しと平安のうちに家に帰りなさいとの御言葉に押し出されたわたしたちが、一週間の生活を終えて、もう一度礼拝に戻ってきて、礼拝において、再び、主イエスから罪の赦しと、赦された者としての平安のうちに家に帰りなさいという御言葉を聞くということはどういうことなのか、その理由というか、それが繰り返されることの意味について共に聞きました。すなわち、わたしたちは罪を一度赦されたなら、それで十分なのではなく、罪を赦され続けなければならない者たちであること、しかし、そのような赦しを受け続けなければならない者たちにとって、繰り返し礼拝にたち戻り、赦しをいただくことができることは、実に感謝に満ちた、大きな恵みであり、わたしたちはそのような仕方で救われているということでした。

これまで、二週にわたってわたしたちの礼拝生活について、礼拝で御言葉に聞き、家に帰るよう送り出され、そこからまた礼拝に立ち戻ってくる、その信仰生活の歩みについて聞いたわたしたちは、今日、最後にもう一度、主イエスの口から語られる「あなたの家に帰りなさい」という御言葉を新しく聞きたいと思います。

わたしたちは主イエスによって家に帰りなさいと、礼拝から押し出されますが、礼拝から始まる一週間の生活において、再度、罪の赦しを必要とすることを覚えて、礼拝に戻って来ざるを得ない者たちです。一度罪を赦されながらも、もう一度罪を赦していただかなければならないわたしたちに、主は、新しく罪の赦しの恵みを与えてくださいます。その上で、主はもう一度、わたしたちに家に帰りなさいと言われるのです。

今日読んでいるマルコによる福音書5章は、先々週読んだマルコ2章の記事と比べると、両方に共通した、同じ部分、重なる部分と、両者が大きく異なっている部分があります。
同じ、重なるところは、主イエスが中風の人に語った言葉と、今日読んでいる、悪霊に取り憑かれていた人に語られた御言葉が同じだということです。
主イエスは5章8節でこの人に向かって「汚れた霊、この人から出てゆけ」と言われました。この言葉は主イエスが中風の人に対して「あなたの罪は赦される」と言われた御言葉に重なります。
そして、罪赦された中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた主イエスは、悪霊から解放された人に対しては19節でこう言われます。「自分の家に帰りなさい。そして、身内に人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

この5章の記事でも、2章に記されている中風の人の癒しと同様、主イエスの二つの御言葉が悪霊の人を救います。罪の力、サタンと悪霊の力に縛られていた状態から、主イエスが自由と解放を与えてくださったのです。そして、救われた者として家に帰してくださいました。その点で2章と5章は同じです。
でも、その救いの出来事が起きた場所、環境が違いました。2章では、中風の人の癒しはガリラヤのカファルナウム、ユダヤ人の住む社会の中で起こりました。それに対して、5章では、1節に「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方」と書かれているように、海の向こう、ガリラヤ湖の対岸、ユダヤ人のいない地域、そこに住んでいるのは神様を知らない異邦人である社会において、この人の癒しと救いは起こりました。つまり、癒された人はユダヤ人ではなかったし、彼が帰っていった家に住むのも異邦人でユダヤ人ではありませんでした。

この5章の記事を読んで、一番胸に迫る場面は、悪霊から救われた人が、最後に、主イエスについてゆきたいと申し出るところではないかと思います。
17節以下で、悪霊に取り憑かれていた人が住んでいた社会の人々は、2千匹の豚が崖から海へ雪崩打って溺れ死んだのを見て、主イエスにその地方を立ち去って欲しいと言ったのでした。
主イエスが舟に乗って、そこを立ち去ろうとしたとき、悪霊から救われた人は、主イエスにお伴したいと願います。しかし、主イエスはそれをお許しになりませんでした。

この人が主イエスと共にこの地方を去りたいと願った気持ちはわかる気がします。悪霊から救われたこの人に対して、この地方の人々は同情的ではありません。以前、悪霊に憑かれていたからではありますが、彼は社会の外に追いやられ、自分の居場所をどこにも得られなかった人でした。しかし、癒された後になっても、この地方の人々の間に彼の居場所があるとは思えなかったのです。

わたしたちの住むこの日本の国、日本人社会は異教社会です。この国で主イエスを信じる人は少数者ですが、その主イエスによって救われた人たちは異教社会である日本に、果たして居場所を持っているのでしょうか。主イエスを信じて救われる人は、ここに出てくる悪霊から解放された人が、もともと自分の属していた社会がかつても自分に対して冷たかっただけでなく、救われたのちも依然として冷たいのを感じて、そこに戻りたい、そこにとどまりたいとは思えなかったように、そして、そこに住む人々が主イエスにこれ以上ここにいないでくださいと言って、主イエスを追い出し、締め出そうとする異教社会から、自分も主イエスと一緒に、主イエスについて出てゆきたいと思ったように、わたしたちもそこを離れたいと思ったことはないでしょうか。仏壇があり、先祖供養をする家に、主イエスのみを救い主、生ける神として生きてゆく自分にとっての居場所はないと思うのではないでしょうか。

しかし、今日の御言葉はなんと語っているでしょうか。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
帰ってゆきなさいと、主イエスが送り返される家は、異教社会の中にある家に他なりません。そこは仏壇があり、先祖の位牌が置いてあるような家です。しかし、主イエスはその家族に、主が自分をどんなに深く憐れみ、どのようなことをしてくださったかを、ことごとく知らせなさいと言われるのです。

わたしたちの礼拝は、一度限り、罪を赦されて、家に帰るというような、一回限りの営みではありません。わたしたちの礼拝生活は、一度だけ罪を赦されるというのでなく、何度も罪を赦される、その繰り返しなのです。そして今日、ご一緒に聞きたいのは、わたしたちが、家に帰りなさいと主イエスによって礼拝から派遣される、その派遣も一度限りではないと言うことです。

今日まで信仰生活をしてきて、主イエスから家に帰りなさい、そして異教社会に生きる家族に、主の憐れみと赦しについて伝えなさいと言われながらも、今までわたしたちがそれに十分答えて来なかったと言うことがあったなら、そのようなわたしたちに、主イエスは、今日、もう一度、主に罪を赦され、救われた者として、家に帰って、主がわたしたちにしてくださっていることを「ことごとく」知らせるよう、新しくお命じになるのです。それを一回、一回の礼拝において、新しくしなさいと命じられるのです。

20節 主イエスが自分にしてくださったことをことごとく、異邦人の住むデカポリス地方に言い広めた。
主イエスは、わたしたちに何をしてくださったでしょうか。わたしたちの罪を赦し、罪と悪魔の支配から解放し、自由にしてくださいました。今日、その救いを、新しくわたしたちに御言葉によってお与えくださいました。このことをわたしたちが家に帰り、人々に宣べ伝えることを通して、主イエスの御名が地の果てにまで広まってゆくのです。

主イエスはこのとき、海を渡り、異邦人世界に赴かれ、そこで悪霊に苦しむ人を救われました。その主イエスは、いま、復活なさり、わたしたちを通して異邦人の住む地の果てまで、全世界のすべての人々のところへ来てくださろうとしておられます。

主がわたしたちにしてくださったことを、家に帰って、家族に知らせましょう。

父と子と聖霊の御名によって