聖日礼拝 「キリストの平和」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇37編30~40節
新約聖書 コロサイの信徒への手紙3章12~17節

 

今朝はコロサイの信徒への手紙3章15節の御言葉にご一緒に聞きたいと思います。
「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」

この御言葉を、二つの角度から見ることによって、深く理解したいと思います。
一つ目の視点は、キリストの平和があなたがたの「心を支配する」という、わたしたちの心を平和が支配するというのはどういう意味かという問いです。実は、ここで支配すると訳されている新約聖書の原語はとても珍しいギリシャ言葉なのです。審判を務めるという意味です。そこである聖書はここを「キリストの平和があなたがたの心の中で審判人の役割を果たすようにしなさい」と訳しています。野球のアンパイアがストライクかボールか、セーフかアウトかを判定する、そのようにわたしたちの一挙手一投足について、キリストの平和がわたしたちの心の中で、勝ち負けを決する行司の役割を果たすというになりますが、それはいったいどういう意味なのでしょう。

15節の御言葉を味わうためのもうひとつ大事な視点は、前後の文脈です。直前まで「身に着ける」という言葉が繰り返されてきました。10節から14節まで、「身に着ける」という言葉が3度繰り返されています。「衣服を身に着ける」と言うのは、前にもお話ししましたが、洗礼を受ける人は、洗礼に際して、それまで着ていた服を脱いで、新しい白い衣をまとったように、わたしたちが洗礼において「造り主の姿に倣う新しい人」すなわちイエス・キリストを着ることを指しています。12節から14節に書かれているのは、洗礼によってイエス・キリストを着た人の振る舞い、生き方を述べています。14節は、ちょうど和服を着る人が、最後に帯を締めることで着付けが完成するように、愛という帯を締めることによって、その装いが完成することを言っています。

ところで、わたしたちが衣装を身にまとうのは何のためでしょうか。キリストを着るわたしたちは、それによって何をするのでしょうか。
ここで14節までに書かれていたことが15節と結びつきます。キリストの平和があなたがたの心を支配する、キリストの平和が、あなたがたの心の中で審判として、判定をくだす。
それは何に対する判定かというと、スポーツ選手なら競争した競技の結果、1位の金メダルか2位の銀メダルかが判定されます。音楽のコンクールなら、入選か、落選か審査委員が評価をくだします。

わたしたちが洗礼を受けて、クリスチャンとして、信仰者として、キリストを着て生活する、行動する、振る舞う、それはスポーツ選手が競技場で競技するときに、ユニフォームを着るのに似ています。あるいはピアニストが舞台で演奏するときに、衣装を着るのに似ています。ユニフォームを着て競技をした結果が判定されます。衣装を着て演奏した演奏が評価されます。
ある人は、自分は金メダルを獲得できるか、どうかワクワクするかもしれません。しかし、そう言う人ばかりではないでしょう。自分など、初めからまったく問題にならない、落選、失格するほかないと思う人もあるのではないでしょうか。

そのとき、あなたがたの心の中で、自分のことを判定する審判は誰なのか、それはキリストの平和なのだと今日の御言葉は私たちに告げているのです。

キリストの平和が審判者だとはどういうことでしょうか。
主イエスに救いを求めて近づいた女性たちに、主イエスは繰り返し、安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったと言われています。これらの女性たちは、あるものは震えながら(マルコ5:34)、あるものは涙を流しながら(ルカ7:50)主イエスに近づきました。その女性たちを去らせるとき、主イエスが彼女たちに告げられる言葉は、シャローム、安心して帰りなさい、でした。
主イエスがわたしたちに最後に告げる言葉は、シャローム、平和なのです。

先週、中会議長としてわたしたちの教会を問安してくださった川越弘牧師は、その説教の最後で、主イエスの罪の赦しについて、次のように語られました。

主の祈りにあるように、わたしたちが兄弟の罪を赦しますから、わたしたちの罪をもお赦しくださいとわたしたちが主イエスに願おうとするとき、わたしたちは、自分が兄弟を真心から赦しきらない、兄弟を赦しても、なお兄弟を完全には赦そうとしない罪が自分に残っていることを知っています。しかし、主イエスはそのようなわたしたちに、それでも罪あるままに赦せとおっしゃるのです。キリストはこうおっしゃいます。「あなたが隣人を赦すという決意、あなたの赦そうとする行為は不十分である。あなたが隣人を赦そうとしてもどうしても赦せないということを、私(キリスト)は十分知っている。だから私(キリスト)は、あなたの罪を持った赦しの行為をそのまま赦すのだ。人を赦すことのできないあなたの赦しの行為を、私(キリスト)は赦したものとみなすから、人の罪を赦すことができないと言ってあなたは赦しの行為をやめるな。自分はどうしても赦せないと言って、赦そうとする努力をあきらめるな。赦せないながらも赦し続けよ。私(キリスト)はあなたの行為を赦した行為と見なす。だから隣人を赦し続けよ。そして私(キリスト)に赦しを祈り求めよ」とおっしゃるのです。出来なくても精一杯踏み込んで行え、出来ないあなたを赦す。だから出来なくても赦し続けよ、とおっしゃるのです。このキリストの約束を信じて実行することにしか、隣人と共に生きる希望がないからです。それがわずかであっても実行しようとする時、隣人に勇気を与えることになるのです。だから出来なくても行なえ。そして、人の罪を赦すことの出来ない自分の罪を率直に認めて、「我らの罪を赦したまえ」と祈り求めよ、とおっしゃるのです。こうして主イエスは「自分の驕(おごり)りから引き離し」てくださるのです。「重い背きの罪から清められて、完全に」してくださるのです。

今日の説教は3章15節の御言葉です。キリストの平和、キリストがわたしたちに、「あなたの罪は赦された、安心して行きなさい」と言われる、そのことがわたしたちの信仰の生涯を最終的に判定する、審判者だと言われます。

みなさん、オリンピックで最も大きな拍手を受ける選手は誰でしょうか。金メダリストでしょうか。そうではないこと、1位でゴールする選手でなく、はるかに遅れて、他の選手がとっくに走り終え、泳ぎ終わってゴールインしているのに、たった一人、スタンドを埋めた大勢の観衆の応援の声、拍手に励まされながら、最後まで走り続け、泳ぎ続けて最下位でゴールする選手であることをわたしたちは何度も見てきたはずです。それが人々に感動を与えるのです。

わたしたちはキリストを着ます。キリストを着るのはキリストをユニフォームとして走るためです。またキリストを衣装としてまとい、舞台に立って踊り、歌い、演奏するためです。でも、キリストを纏うわたしたちはなんとぎこちなく、わたしたちの立ち居振る舞いはなんと身にまとっているキリストという衣装が身についていないことでしょうか。粗相と失敗の連続で、あなたは失格ですと言われても仕方がない、それがわたしたちなのです。しかし、そのようなときに、わたしたちの審判者はキリストの平和、シャローム、赦しなのだと今日の御言葉は告げるのです。

それを信じて、最後まで走りましょう。みなさんの一人一人がそのようにキリストの赦し、シャローム、平和にあずかり続け、支えられ続けて、最後まで信仰に生きることをやめないならば、そのとき、世界中の人々が拍手するでしょう。そして、そのようにわたしたちを生かしてくださる主イエスの御名をがたたえられ、父なる神様に栄光を帰されるでしょう。

父と子と聖霊の御名によって。