聖日礼拝 「主よ、彼らはいつまで勝ち誇るのでしょうか」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編94編1~23節
新約聖書 マタイによる福音書10章26~31節

 

 

報復の神
詩人は、神を報復の神と呼んで、主よ、悪しきものを裁いてください、誇る者を罰し、それらの者が行なっている悪い行いの数々に対し、罰を与え、その悪に報いてくださいと、主に願い、求めて祈っています。

わたしは先週、インターネットでウクライナについてのある記事を読みました。ウクライナに対するロシアの攻撃が始まった頃、人々が動揺し、恐れが人々の心を支配し始めていた時、首都キエフの地下鉄の入り口に立って、「ウクライナのための祈り」という賛美歌を歌う人たちがいたというのです。

その歌詞を紹介したいと思います。

偉大で全能なる主よ
私たちの愛するウクライナをお守りください、
ウクライナに自由を与え、あなたの聖なる光で照らしてください。
学びと知識をもって、あなたの小さな子供たちである私たちを
純粋で永遠の愛のうちに育ててください。

わたしたちの主よ、お願いします。
わたしたちの愛するクライナをお守りください。
私たちの国の人々に、あなたの慈しみと恵みをお与えください。

わたしたちに自由と、知恵を与えて、優しさに満ちた世界へ導いてください。
主よ、わたしたちに幸いをお与えください。
いつまでも、いつ、いつまでも。

今朝、わたしたちが読んでいる詩編94編は、冒頭、報復を求める祈りから始まってはいますが、これは歌なのです。主への賛美として歌われる歌なのです。単に復讐を求めて叫ぶだけなら、歌とはならないでしょう。

地下鉄の入り口で賛美歌を歌うウクライナの人々も、主よ、裁いてください、悪しき者を滅ぼしてくださいという願いを心に抱いていたと思います。でも、その願いと祈りが主なる神さまへの歌となり、賛美となるということについて、今日、聖書を通して聞きたいと思います。

神の顕現
報復の神として顕現してくださいとの祈りに、主なる神が応えて、ご自身を顕現されるとき、主はどのような形でご自身を示されるのでしょうか。顕現するとは、光が輝き出るように、明らかな姿を示されるという意味です。
神は御子をこの世に遣わされ、ご自身を現されました。そのとき、神はどのような姿をとられたでしょう。
主イエス・キリストは十字架上で「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と、自分を十字架につけた人々のために、彼らの罪の赦しを神に祈られました。
また、姦淫の現場を押さえられた女の人が、主イエスのもとに引き立てられて来た時、人々がモーセの律法の定めに従って、その女性を石で打ち殺そうとした時、主イエスは、人々に対して「あなた方の中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。すると、それを聞いた人々は、年長者から始まって、一人、また一人と立ち去り、そこには主イエス一人と女の人だけが残されました。その女の人に向かって主イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのでした。

わたしたちの生きている世界には、悪があります。数多くの罪が犯されています。不正義があります。この世は深い闇に覆われています。そこで、神に対して速やかに裁いてください、悪に対して報復し、不正義を正してくださいと人間が祈るとき、神は単純な裁き手、復讐者としてご自身を現されることはないのです。

神と人間
5節以下に興味深い言葉が記されています。やもめや寄留の民を殺し、孤児を虐殺しておきながら、「主は見ていない。神は気づくことがない」とうそぶく者たちに対して、こう言われています。
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。
人間が聞くことができる。見ることができる。それは人間を造られた神が、ご自身耳があって聞かれる方であり、目があって見ることをなさる方だからだというのです。
わたしたち人間が何かを知ることができるのは、わたしたちを造られた造り主なる神こそ、全てを知られる方だからなのです。
主が見ていないと言う者は、そう言う、その者こそ、見ていないのであり、神は気づかない、知らないと言うものこそ、何も知らないのです。
反対に人間が見たり、聞いたりするのは、人間を造られた神が見ることを見、神が聞くことを聞き、神が知られることを知るためなのです。

人間の復讐
聖書はそもそも復讐についてどのように教えているのでしょうか。ローマ書12章17節以下に、復讐について書かれています。そこには「自分で復讐せず、復讐は神に委ねなさい」と言われています。わたしたち人間が復讐してはならないと言うことは、新約聖書の教えで、旧約聖書では、復讐が命じられていたと思われるかもしれませんが、そうではありませんでした。レビ記19章18節に「復讐してはならない」とはっきり書かれています。
なぜ、わたしたちには復讐することが禁じられるのでしょうか。
復讐は、自分に対して悪を行なった相手に、正当な罰を与えることです。そうであれば、まず、相手のしたことを裁いて、罪に定めると言うことが先行しなければなりません。
主イエスは、人を裁くなと言われたのでした。マタイ7章に書かれています。人をさばくとき、相手を罪に定める自分自身が、罪人だと言うことが忘れられている場合が多いのです。
また、仮に正しく裁いたとしても、相手に正当な罰を下すことができるのか、不当に重く罰してしまうことはないのか。
復讐の結果が、相手を不当に傷つけ、また自分自身をも傷つけている、報復の連鎖を生むだけの不毛な結果をもたらしていることは、わたしたちがよく知っていることです。

 神の思い
では、神は逆らう者の悪、おごり高ぶる者たちの非道な行いに対して、どう報いようとなさるのでしょうか。神は見る目を持ち、聞く耳を持ち、全てを知られるお方として、何を見、何を聞き、何を教え、何を知らせておいでになるのでしょうか。
復讐してはならないと書かれていた先ほどのレビ記19章18節には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言う有名な戒めが続いていました。
神に造られた隣人を苦しめる行為は、自分自身を苦しめる行為に他ならない。
神に造られた隣人を愛する行為は、自分自身を愛する行為に他ならない。
神さまは、神さまがお造りになった人が愛されることを望まれます。ご自身、人を愛されますし、その人が他の人から愛されることを望まれます。
もし、神さまがお造りになった人が、神さまの願いと望みに反して、苦しめられるなら、そのとき、神さまは、そのようなことをする人間を滅ぼすこともお出来になります。でも、果たしてそれが神さまの願いでしょうか。
神さまは、わたしたちに神さまの御心が何か、願いと望みが何かをはっきりと教えてくださいます。それはすべての人が愛され、大切にされることなのです。
神さまは自らそのように行動なさいます。16節から19節がそれを歌っています。

賛美を歌う
ウクライナのクリスチャンたちがロシアの侵攻に立ち向かって、主なる神への賛美を歌うとき、主がわたしたちに与えていてくださる勝利、悪と罪と暗闇の支配に対して神さまが与えてくださる勝利を感謝し、賛美して歌うのだと思います。
互いに愛し合いましょう。自分を愛するように隣人を愛しましょう。これは悪と罪に対しての神さまによる喜ばしい勝利なのです。

父と子と聖霊の御名によって