聖日礼拝 「『神など存在しない』と言う者は愚かである」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編14編1~7節
新約聖書 ヨハネによる福音書15章1~6節


 

詩編14編の1節の「神を知らぬ者」と言う訳は、今、私たちが読んでいる共同訳聖書以外では、すべて、「愚かな者」となっています。「愚かな者は心の中で言う。『神などない』と。」
なぜ、共同訳聖書だけが、「愚かな者」と訳さないで「神を知らぬ者」と訳するのでしょうか。「神を知らぬ者」と言うのと、「愚かな者」と言うのと、二つの訳を比べてみれば、随分と違う印象を受けます。

そのどちらの訳を選択するにせよ、ここで問題にされているのは、その人が「神を知らぬ者」と呼ばれようが、「愚かな者」と呼ばれようが、心の中で「神などいない」、「神は存在しない」と言うことです。

「心の中で」ということは、口に出してそう公言しはしない。けれどもその人の行動を見れば、自ずとその人が神の存在を否定し、無視していることがわかるということでしょう。

7月に入りました。あと一月後には、77年目の広島、長崎の原爆投下の日がきます。77年前、あの原子爆弾を広島、長崎に投下した人たちは、本当に神がいると信じていたのでしょうか。

主イエスは、木はその実によって知られると言われました。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。あなたがたは、その実によって木を見分けるのだと言われました。

原爆投下によって、自分の身を守ることもできない婦女子を含む数え切れないほど多くの人々の命が一瞬にして奪われたことは、良い実でしょうか、悪い実でしょうか。悪い実であったとすればそれを結んだ木は良い木だったのか、悪い木だったのか。

原爆投下に関わった人々が、主観的には神の存在を信じていた人だったとしても、客観的にみるならば、その行為は悪い実でした。

主イエスは、ぶどうの枝はぶどうの木につながっていなければ良い実を結べない、まことのぶどうの木である主イエスにつながっていないならば、あなたがたは実を結ぶことはできない。身を結ばない枝は、枯れて焼かれるだけであると言われました。

主イエスの御言葉によれば、主イエスにつながっていない人が良い実を結ぶことはないのです。神の存在を信じないという人で、正しい行為、善、正義、憐れみ、愛といった良いわざを行なった人がいるでしょうか。わたしは神を信じていない。しかし、わたしの行為は正しいと主張しうる人は、果たして存在するでしょうか。

この詩篇は、神などいないと、神を否定する人が、善を行うことはない、その二つが一つに結びついているといっています。それがこの詩の前半です。それは、主イエスがわたしにつながっていない人が実を結ぶことはないと言われるのと同じです。

詩編第14編の後半には「わたしの民」と呼ばれる人々が出てきます。この人たちは「神に従う人々の群れ」、「貧しい人」とも呼ばれます。
この人たちは、前半に出てきた「神など存在しない」と言う人たちから、食い物にされています。

聖書に出てくる「貧しい人」、「弱い人」の代表は、孤児、寡婦、外国から難民となって避難して身を寄せている「寄留の民」です。その人々を「神を知らない」と言う人々が、滅ぼそうとします。そのとき、神さまがその弱い人たちの「避けどころ」として、その人々を守り、救われるお方として立ち現れて、その人々の群れの只中に存在されると歌います。

「神などいない」と言い放っていた悪しき人々は、弱く、貧しい主の民の中に神さまがおられることを知って、「おおいに恐れる」のです。

77年前、広島、長崎の上空から原爆を投下した人たちは、神が存在することを、果たして信じていたのか、神など存在しないと思ったのではないかと説教のはじめに問いました。
仮に、彼らが神を信じていたと言うのであれば、彼らが信じていた神はどこにおられたの
でしょうか。

聖書では目に見えない神さまと、目に見える兄弟が繰り返し結び付けられています。
有名な御言葉はこれです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です。」
神を目に見えない高い天にいますお方だと信じるだけでは不十分です。目に見えない高きにいます神さまは、また、地上の、わたしたちが現に見ている、わたしたちの隣人においてわたしたちと出会われる方なのです。

兄弟を愛することと、神を愛することは一つに結びついていて、切り離すことができないのです。と言うことは、目に見える、目の前の兄弟の存在と、目に見えない神の存在とは一つに結びついており、切り離せないと言うことです。

それゆえ、目に見えない神の存在が否定されるとき、神などいない、存在しない、神などないと言うとき、目の前の、目に見える兄弟の存在が抹殺されてしまうのです。目の前に見ていても見えない、存在しているのに、まるで存在していないかのように振る舞うのです。
現に原爆を投下した人たちは、そのキノコ雲の下に生きていた多くの人々の存在が見えなかったのではないでしょうか、それを無視したと言う他ありません。その人々には、神さまは存在していたでしょうか。いいえ、神などいないと心の中で言ったのです。もし、神さまを信じると言うのであれば、その神さまは死んでいった数多くの人々の中にいましたのです。それは、本当に恐るべきことでした。

神が神として存在されると言うことと、人が人として、その存在を認められ、それを尊重されると言うことは、互いに切り離せないのです。
神の存在が否定されるとき、人を制約するもの、自分が恐れなければならないもの、へりくだって聞き従うべき方はいなくなり、その結果、倫理的規範を失います。やってはいけないことの線引きがなされないのです。自分が神になってしまうのです。そして平気で人を殺し、隣人の妻と不倫を行い、ありとあらゆる悪を行います。

そのとき、神は、神などいないと言い放つ愚か者に対して、ご自身が生きておられること、ご自身があってある者であることを示されます。それは、どこで、どのように知らされるのでしょうか。

5〜7節。

原爆を投下された国民として、神が広島と長崎のキノコ雲の下におられることを信じましょう。被爆国である日本が核武装するなど、これ以上に愚かなことがあるでしょうか。それこそ、「神などいない」と言うに等しいことです。
十字架において、弱い者、貧しいものとともにいてくださるイエス・キリストこそ、わたしたちの生ける神です。その神さまは、地の果てまで戦いをやめさせ、武器を捨てさせ、世界に平和と正義と愛をもたらされるお方です。この十字架のイエス・キリストこそ、私たちの避けどころ、世界の避けどころなのです。

父と子と聖霊の御名によって。