聖日礼拝 『羊は羊飼いの声を聞く』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編139編1~6節
新約聖書 ヨハネによる福音書10章1~6節


 

 

主イエスは言われます。「羊は羊飼いの声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者、羊飼い以外の者には決してついて行かず、逃げ去る。見知らぬ者たちの声を知らないからである。」

この主イエスの御言葉は主イエスこそ、わたしたちが生きるときも死ぬときも、どんな時にもその声に聞き従うべき、ただお一人の真の羊飼いであり、わたしたちは主イエス以外の誰の声にも聞き従わないということを教えています。

「羊は羊飼いの声を聞きわける。」(3節)羊は、これが自分の羊飼いの声か、そうでない者の声か、はっきりと聞きわけると言われています。そのように、わたしたちも主イエスの声とそれ以外の者の声を聞きわけるのです。羊が羊飼いの声を聞きわけるのは、それに先立って、羊飼いが自分の羊の声を聞きわけるということの反映であり、その二つは互いに対応しています。

羊飼いが自分の羊の声を聞きわけるというのは、例えば、母親が、公園で我が子が遊んでいるときに、その子から目を離して、お母さん同士おしゃべりに夢中になっていても、その子が急に泣き出し、その泣き声が聞こえてきたなら、お母さんにはその泣き声が我が子の声かどうか聞きわけられるのと似ています。

お母さんが我が子の泣き声を聞き分け、こどももお母さんの声を知っているのは、母と子の間にお互いを固く結びつける愛の絆があるからです。それぞれが、互いの声を知っているのはその愛の絆の現れです。羊が羊飼いの声を知っていて、その声を聞いたなら、安心して、全幅の信頼を寄せてついて行くのは、羊飼いが自分の羊の声を聞きわけ、誰よりも自分の羊のことを知ってくれているからです。その羊が自分を知るよりももっと良くまた深く羊飼いは羊のことを知っているのです。羊は羊飼いに知られているのです。そのように羊飼いは羊を愛し、羊は羊飼いの愛を知って、羊飼いを愛します。

わたしたちが、主イエスの羊として、わたしたちの羊飼いである主イエスの声を聞きわける者たちであり、このお方以外の者の声にはついていかないのも、同じように、主イエスがわたしたちを知り、愛してくださっており、わたしたちも主イエスを知り、主イエスを愛しているから、わたしたちがそのような愛の絆で結ばれていることの現れなのです。

そのような愛の絆、わたしたちと主イエスを互いに結んでいる絆は、主イエスと父なる神を結んでいる絆と同じだと主イエスは言われます。14、15節にこう書かれています。

主イエスは父なる神を知っておられます。そして、父なる神も主イエスを知っておられます。主イエスはご自分が父なる神を知ると同時に、自分が神から知られていることを知る、そして、さらに主イエスが父なる神に知られていることを、ご自身深く知り、それを自覚し、そのことに感謝し、それをどれほど大きな喜びとしているか、そのことを父なる神様が知っておられることをも主イエスは知られます。「父がわたしを知っておられ、わたしも父を知っている」というこの父なる神と御子キリストが互いを知る、その関係には今申しましたような深さがあります。

では、その点、わたしたちの場合はどうでしょうか。主イエスが主イエスの羊としてのわたしを知られ、わたしが、羊飼いである主イエスを知ることが、父なる神と御子の関係と同じだというとき、果たして、わたしたちと主イエスの間にも、先ほど申しましたような、お互いを知る深い関係があるでしょうか。
つまり、わたしは、自分が主イエスによって知られ、愛されていることを知るのみでなく、自分がそのことを知って、深く感謝し、喜んでいることを主イエスがちゃんと知っていてくださることを知っているでしょうか。

別のいい方をするなら、わたしたちが主イエスに知られ、愛されている者であるゆえに、そのことを喜びとし、感謝していたとしても、主イエスが、わたしがどの程度そのことを感謝し、喜んでいるかをつぶさに、はっきりと手に取るように知っておられることを知っているでしょうか。そして、そのことを知って生きているでしょうか。

わたしたちが、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神さまを愛しているかどうか、それを神さまは知っておられます。しかし、わたしたちは神さまがそのことをはっきりと、手を取るように知っておられることに、無自覚で無頓着で平気でいることが多いと思います。

ところで、神さまを愛するということは、隣人を愛することです。「目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。」(1ヨハネ4:20)
わたしたちが主イエスと、主イエスの父なる神さまを知ること、また愛することの中に、わたしたちの目に見える兄弟に対する愛、目に見える兄弟を知るということが含まれています。
主イエスを知ることは、また主イエスを愛することは、主イエスが知っておいでになる兄弟を知り、主イエスが愛しておいでになる兄弟を愛することです。
主イエスは、わたしたちが主イエスを知り、主イエスを愛していることを知られますが、同時にわたしたちが主イエスの愛する兄弟を愛しているか、知っているかどうかを知っておいでになります。

わたしたちにとって、兄弟を知ること、その兄弟がどのように神様によって、また主イエスによって知られ、愛され、また兄弟も主イエスと父なる神をどのように知り、愛しているかを知ることは、主イエスと主イエスの父なる神さまを愛し、知ることと切り離せないのです。

わたしには信仰の父母がいました。兄弟もいました。こどもたちもいます、そしてかけがえのない伴侶も与えられています。わたしは、父母の信仰、兄弟の信仰を知っています。それとともに、わたしのこどもたちがどのように神さまに知られ、愛されているか、そして、こどもたちもまたどのように神さまを知り、愛しているかを知ることは、わたしが父母の信仰や亡くなった兄弟の信仰を知るのと同じように重要なことであると思います。それをぜひ知っていたいと思っています。なぜなら、そのことを知ることと、わたしが神さまを愛し、知ることとは一つのことだからです。

主イエスは、わたしたちが主によって知られていることを知っており、主によって知られていることを生きるにも死ぬにもただ一つの慰めとしているのをご存知です。
あの主イエスを三度知らないと言ったペトロが、復活の主イエスから「あなたはわたしを愛するか」と三度繰り返し問われたとき、最後に答えた答えは、わたしたちの答えでもあります。「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」。

主イエスはわたしたちの愛と信仰を誰よりも知っていてくださるのです。貧しさも、弱さも知っておいでです。それでもなお、わたしたちが主イエスを愛してやまないことを主イエスはご存知です。すべてを知られる主イエス・キリストに心からの喜びと信頼をもってついてゆきましょう。このお方以外にわたしたちの服従すべき羊飼いがあるはずはないのです。このお方以外にわたしたちを本当に知り、わたしたちがわたしたちを知るよりももっと深く、真実にわたしたちのことを知って、愛してくださるお方はおられないからです。このお方こそ、わたしたちとすべての人々を、真の造り主であられる父なる神さまの栄光と救いへ導いてくださる、わたしたちの真の羊飼いであられるのです。

父と子と聖霊の御名によって。